澱み
ロンと言う人物になってから、貴族のロベールではできなかった事が出来るようになった。
それは――
「乾杯!」
「うぉぉぉ!! カンパイだぁぁぁぁぁあ!!」
今夜、3回目になる乾杯を、隣席の知らないオッサンとした。
ここは、労働者――とりわけ低所得者が利用する居酒屋だ。その一角に陣取り、こうして知らない人と乾杯をするのが最近の趣味になっている。
こういった飲み屋の良い所は、高級なレストランの様にバランスのとれた美味しい料理ではなく、汗をかく労働者ように味付けが濃くなっていることだ。
ほら、よくあるだろ? 普通の食事をしている時に、無性にハンバーガーとかジャンクフードが食べたくなる時が。あぁいった、その瞬間を楽しむのがこの居酒屋だ。
この世界での飲酒可能年齢は特に設定されていないので、店主が飲ませて大丈夫な奴とそうでない奴を選ぶ。選ぶ基準は、金が払えるか払えないかくらいだと思うが。
ただ、だいたい12歳を越えれば普通に飲めるようになる。ただし、それも葡萄酒の澱で作った大根酒や果実水と合わせた蜂蜜酒と言った、お酒かジュースか分からない代物になるだけだが。
しかし、俺が今飲んでいるのはやや度数の高いビールに近いエールだ。このエールはホップ特有の苦みが無く、また度数の低いものはスルスルと入っていく。言い換えれば飲みごたえが無いのだ。
そこで、飲みごたえを良くするためにハーブを入れる。このハーブが、病院の消毒液臭を彷彿とさせて、美味しくないのになぜかふとした拍子に飲みたくなる中毒性がある。
これらは低層の飲み屋の物で、もう少し良い所では焦がした麦やホップを使ったりさまざまなバリエーションがある。
そんな、やや度数のある酒が飲めるのは、俺の隣のおっさんに酒を頼んでもらって、それで届いた物を俺が飲んでいるからだ。
若いっていいな。苦みのある物は飲みにくいのが珠に傷だが、体にアルコール耐性がまだできていないのかすぐに酔える。
「なぁ、ボウズ」
「あっ? なに?」
「お前、もうそろそろ帰らなくていいのか?」
「うぇ!?」
一緒に飲んでいたオッサンに言われて店の外を見ると、暗くなっていた。
いくら中身が成長していると言っても見た目も筋力も子供だから、人さらいに対抗する術がない。だから、こういった低所得者層の居酒屋では人さらいが出てくる時間帯になる前に帰らなければいけない。
「うっわー……、もう暗いじゃん。オッサン、ありがと」
半分まで飲んだ酒と、ツマミに頼んだ食べかけの煎り豆と焼き小魚をテーブルに残しておくが、俺が退くとすぐに別の人間がそこに座って、オッサンと共に俺の残した物を食い始めた。
今の俺なら絶対にやらないけど、この界隈の人間はよく人が残した物も平気で食う。(出所も、いつ作られたのかもわかっていると言うのが大きいのだろう)
酔いどれの良い気分で暗くなった道を歩いていると、道の向こう側から何やら騒々しさとは違う声が聞こえてきた。
その喧騒は次第にこちらへとやってくる。喧嘩ではなさそうなのでそれほど心配することは無いと思うが、やはり君子危うきに近寄らと言うべきか……。
こういう場合は、回り道でもした方が良いんだろうけど、俺が通っている道が帰り道で、一番明るくて安心な道だ。
ここでうだうだしていても仕方が無いので、早く帰る為にもその喧騒の方へ行かなければいけなかった。
そして、その喧騒へと近づいていくと、その中心人物が見えてきた。
先頭は、身なりの良い若い貴族。その後ろには、帝国兵ではない鎧に身を包んだ、この貴族の私兵と思われる兵士を2名従えていた。
彼らが歩くと、人がモーゼの如く割れて花道が用意される。その花道を、貴族はさも当然のように周囲を一瞥もせずに歩く。
「(なるほど、あれが貴族のやり方か……)」
貴族らしく振舞おうにも、その横柄な態度ができない俺は、その貴族をお手本にしようと凝視していると、貴族の後ろを歩いている兵士と目が合った。
「どけ、小僧。邪魔だッ」
貴族の動線に被っていなかったのに、兵士は貴族より前へ出ると俺へ向けて槍の石突きでトン、と軽く突いてきた。
「ゲホッ」
軽いとは言え、先ほどまで飲み食いしていた腹を打たれれば、誰でも引っ繰り返るだろう。
現に、俺も引っ繰り返ったし。
「いてて……」
「ちょっとボク、大丈――酒クサッ!?」
引っ繰り返った俺を助け起こしたのは、道の隅で花を売っていた娼婦だった。
嫌な人間にも客であれば嫌な顔はしないのが娼婦だが、子供だと思っていた俺があまりにも酒臭かったようで素に戻って反応した。それと、客じゃないしね。
「これは、これは、美しいご婦人に抱きかかえられて、男冥利につきますな!」
あえて膝に力を入れないようにすると、娼婦は俺を介抱するように抱きかかえ直した。大きな、大人のゆるふわの胸が俺の横顔を圧迫している。
「ボク、ちょっと飲み過ぎじゃない? ちゃんとお家まで帰れるの?」
ちゃんと考えて飲んでいたから、俺の意識も足取りもしっかりしている。しかし、胸にもたれ掛っているのを、へべれけになっていると勘違いした娼婦が聞いてきた。
「うぃーっす。大丈夫でぇーす」
酔っているふりをして顔面天国を楽しんでいると、モーゼってた貴族が鼻を鳴らした。
「フンッ、酔っ払いが――」
「そうでぇーっす。酔っ払いでぇーっす。ここは飲み屋街だから、酔っぱらっていない方がおかしいと思いまぁーっす」
実際、酔っぱらっていないのは見回りの兵士くらいだ。俺を抱きかかえている娼婦も、多少なりとも酒が入っているだろう。そういう商売なんだから。
「ガキが、一丁前に酒など嗜みおって」
主へ対する俺の物言いに反応した、俺を石突きで小突いた兵士がやや怒気を含んだ声色で言った。
「毎日、真面目に働いているんだ。働いて得た金で飲むくらい自由にさせてくれよ」
あんただってそうだろ? と問うと、今度は顔を真っ赤にし始めた。
ガキが娼婦の体に身を寄せて、子供らしからぬ大人の言葉を吐いたのだ。働いていると言っても最近働き出したような風体の俺に、そんな言葉をかけられたくはなかったのだろう。
「キサマ!」
「よせ――」
槍を構えようとした兵士を止めたのは、意外な事に貴族だった。
「確かに、真面目に働いて得た対価を何に使おうと問題は無い。しかしな、それらは国益を担っている者が使ってよい言葉だ」
「なるほど、なるほど。なら聞くが、あなた様の視界に入る内で、国益を担っていない者とやらはどいつですか?」
もちろん俺は除いて、と付け加えて不敵に笑う。
周囲は水を打った様な静けさに包まれ、時おり薪がはぜる音が聞こえるくらいだ。
あげ足とり大会はっじまっるよー。
普通なら貴族は寄り付くことのない、低所得者層の飲み屋街。
そんなところへわざわざ来るあの貴族はいったい……。




