緒戦
もうちょっと早く更新したかった……
公爵の屋敷には、すでに先触れが来ていたのでマリッタ達の乗る馬車を迎えにフォポールが玄関先に立っていた。
服は竜騎士の鎧や飛行服で無い事から、そこに長く逗留している事が見て取れた。
「久しぶりね、フォポール」
「遠路はるばるお疲れ様でした、マリッタ様。中で公爵夫人とノッラ様がお待ちです」
すでに顔合わせの準備をしていたフォポールだが、水を含ませた布で体を拭く事しかできない長旅だったのでマリッタとしては先に湯浴みをしたかった。
逡巡するマリッタの考えを読み取ったのか、フォポールは申し訳ない顔をした。
「夫人とノッラ様は急いでお会いしたいとおっしゃっています。申し訳ありませんが、湯浴みの準備はしておくので先にお二人に会っていただけませんか?」
若い娘ならばその柔らかな微笑みでイチコロだろうが、マリッタは婚約者の候補として何年も前からフォポールを見ている。時折、本当にたまにではあるが見とれてしまいそうになるが、マリッタとしては見慣れた顔に心は動かされない。
「……分かったわ。熱いお湯を用意しておいて頂戴」
「申し訳ありません。薪の使用制限の為、ぬるま湯での湯浴みとなります」
「…………そんなに危険なの?」
驚いた顔をした後、マリッタは声を潜めて聞いた。
危険、と言うのはブレイフォクサ公爵領が薪代すら払えないほど困窮しているのか、と言う意味だ。
「私達竜騎士隊の人間は、隊長を含め皆、水浴びで済ましています」
「まさか、夫人とノッラ様も?」
「いいえ。口にするのははばかられるので言えませんが、色々とあったためロベール様より薪の使用許可が出ていますので熱いお湯で湯浴みをしています」
「そう、良かった。なら私も水浴びで良いわ。今日は暑いし丁度良いもの」
「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」
フォポールに案内され入る屋敷はガランとしており、昔来た時の様な華やかさは微塵も見られなかった。
その事実がマリッタの心を痛めたが、こうなるほど物を売らなければ存続できないほど困窮しているのであれば、この領地の立て直しをするために派遣されたストライカー子爵の行った悪行も仕方のない事かも知れないと思わせた。
応接室に入ると、そこもガランとしており、部屋の中央に壁の装飾とは不釣り合いなほど質素な猫足テーブルとソファがあった。
そのソファには、質素――貴族視点では――な服を着た公爵夫人と娘のノッラが座っており、テーブルにはお茶が用意してあり、そばにはメイドが侍っていた。
ヴィットナー家へ届いた手紙には、有無を言わさず全ての物を売りに出され、娘を奴隷商へ売ると脅され、さらには真面な食事すらとれていないと書いてあった。
しかし、今見た限りでは世話をする人間も、食事どころかティータイムのお菓子すらキチンと用意してあった。
「御久しぶりです夫人。それに、ノッラ様も――」
静かに挨拶すると、マリッタにとっての苦しみの時間が始まった。
★
「ふぅ……疲れた」
あれから2時間ほどずっと話しっぱなしだった。話していたのは全て公爵夫人とノッラであり、マリッタは「はい」「えぇ」「そうですね」くらいしか言っていない。
その話の内容は全て手紙に書かれていた物と同じで、ロベールがどれほど酷い事を公爵家にしているかと言うのを延々と語るだけだった。
主観的な話のみで客観的に話せる者がその場に居ないのですぐに結論を出すことはできず、今は長旅の為と言う理由で席を外したのだ。
その切っ掛けを作ってくれたフォポールは二人の餌食になり、今は終わりのないどうでも良い話に付き合っている。
「お疲れ様です、お嬢様」
荷物の運びいれをしていた執事がいつのまにかマリッタの横に立ち話しかけた。
「ありがとう。ところで、水浴びはどこですれば良いのかしら?」
「裏に桶が用意してありました。そちらで済ませよ、と言う事ではないでしょうか?」
「わかったわ」
屋敷の裏へ行くと、そこには桶ではなく大きな壺に大量のお湯が沸かしてあった。
フォポールは薪を使う事を制限されていると言っていたのにも関わらず、今マリッタの目の前にあるのは、沸かすのにどれほどの薪が必要なのか考えさせられるほどなみなみとお湯が張ってある。
「全く。水浴びで良いと言ったのに……」
フォポールの粋な計らいに嘆息しながらも、マリッタは嬉しそうに頬を緩めた。
「でも、こんな何もない所じゃ入るにしても……」
そう、ここは裏庭だ。それに遮る物は無い吹きっ晒しの。
屋外でも水浴びをする事は多々あったが、それでも目隠しがあった。しかし、目の前にある湯浴みをするための壺周辺には何もない。
どうしようかと困っていると、その壺へやってくる少年が居た。
★
「どーも、どーも」
貴族がお風呂の周りでコソコソと何かをしている、と言う報告をメイドから受けて来てみれば、俺が下男の為に作ったお風呂へ入ろうとしているところだった。
「貴方は……」
「ロベール・シュタイフ・ドゥ・ストライカーと言う悪名高い竜騎士でございます」
屋敷へ来てからいの一でブレイフォクサ母娘に呼び出され、俺に対してメタクソに言われていたのも知っている。
その詳細も、あの部屋に出入りしているメイドから逐一報告を受けている。見返りは甘くて美味しい饅頭だ。
女の子に甘い物。これはいつの時代、どの世界でも共通する事の様で、少し前の帝国の様に隠したい話も駄々漏れな屋敷となっている。
「いっ、いえ……悪名高いなど……」
色々聞かされていたマリッタは目を泳がせながら視線を逸らした。
「それで、こんな所でコソコソと何をしているんですか?」
「こっ、コソコソって……。私はフォポールが用意してくれたお湯で湯浴みをするところです」
「フォポールが用意したお湯? はて、そんな物がどこに?」
「ここにあるじゃない」
「これは、下男の為に用意したお湯ですよ。お湯ってーか、熱湯ですけどね」
「? 何で下男なんかの為に」
「仕事を頑張っているからですよ。――噂をすれば」
視線を向けた先にはポリポリと体を掻きながらやってくる、ブレイフォクサ公爵家で雇われている下男が居た。
余り良い身なりと言えない下男が体を掻きながらやって来る、と言う構図は貴族にとって不快感を催す絵面らしく、マリッタは少しだけ顔を歪めた。
「よぉ、お疲れさん」
「ただいま戻りました。今日も大量です」
そう言い下男が差し出したのは、人の頭ほどのこれまた壺だった。厚手の布でフタをされ、口が開かないようにしっかりと封がされている。
「そうか。では、さっそくその壺ごと風呂に入ってくれ」
「はいはい。では、遠慮なく――」
下男は俺に勧められ、慣れた手つきで台に上がるとスノコを上手く沈めながら服を着たまま風呂へ浸かった。
「ちょっ、ちょっと! 下男にお風呂なんてどういうつもり!? それに、服を着たままなんて!」
「下男へのご褒美も兼ねています。それに、服ごと浸からないと虫が落ちないんですよ」
下男と一緒にお湯へ一瞬だけ浸かった壺を受け取り、服ごと入っている事について非難するマリッタへ向かって説明した。
「湯加減はどうだ?」
「ピリピリして最高ですね。今、この瞬間は世界の誰よりも贅沢をしている気分になれます」
くは~、と深いため息を吐き、下男は風呂の中で服を脱ぎ始めた。その様子にマリッタが何か言うと思ったが、こういった男の裸には慣れているのか特に何も言ってこなかった。
服を脱ぎ終わった下男の肌には無数の、虫刺されの様な赤い点がある。
この赤い点の正体は、蟻の噛みつき痕だ。この風呂はまだ体に着いている蟻を殺すための、言わば煮殺し用の風呂だ。
なぜ蟻が必要なのかと言うと、このブレイフォクサ公爵領の北の方には岩と砂ばかりの土地がある。そこに住まう蟻は餌の少ない冬を乗り切るために、栄養を蓄える専門の蟻に蜜を貯めさせるのだ。
それを蟻蜜と言い、前世の世界でも場所は限定されるが存在する蟻だ。
初めは甘味料として水飴を作ろうかと考えたのだが、公爵領地で水飴を作るほど穀物の在庫が無く、またデンプンの大元となる芋も育てていなかった。
竜騎士育成学校で常食されているポテトサラダからポテト以外抜いたような料理があるが、あれに使われている芋はパサパサして美味しくないし、それなりに栄養豊富な土でないと育たないチートとは無縁の植物なので皇都付近でしか作られていないそうだ。
確かに、余り美味しくないので途中から食べなくなり気にもしなかったが、今迄別の町に行っても見たことは無かった。
では、なぜ蟻蜜に至ったのかと言うと、これもメイドから蟻蜜を知る下男へと俺が甘味料を探していると言う話が行き、俺の元へ下男が蟻蜜の話を持ってきたと言う寸法だ。
ただこの蟻蜜を作る蟻なのだが、かなり凶暴で強い顎を持つ。子供や女性など肌が柔らかい者が噛まれると出血するくらいだ。
しかも執念深く一度噛みついたら放す事は無いと言われているほどだ。そのうえ息をすることの無い虫と言われるほど長く呼吸を止めていられることが出来るので、水に入れてもなかなか死なない。
それでも虫は虫。熱には弱いようで、熱湯に浸かるとすぐに死んで肌から離れるのだ。
この下男には、蟻蜜を持ってきた分だけ買い取り、その上風呂にも入れると言ったら大喜びで獲りに行くようになった。
俺も獲りに行きたいところだが、巣を見つけるのも困難で、そもそも蟻自体もかなり大きく噛まれると洒落にならないくらい痛かったので、餅は餅屋と言う事になった。
「水浴びでしたら屋敷内にタライを用意してあるのでそちらでどうぞ」
そっちが本命の、フォポールの用意した水浴び用の水だ。マリッタがブレイフォクサ夫人と娘の愚痴を聞き続けている間、フォポールが何度も井戸と調理場のタライまで往復して汲んでいたのを見ている。
「そう、ありがとう。ではそちらの方へ行きますわ」
★
と格好良く行こうとしたのは良いけど、このお嬢様は屋敷の構造を把握していない状態で行こうとしたようだ。
気になって後ろを歩いておいてよかった。
「ここへ来る前は、貴方が圧政を敷いていると言う話をよく耳にしましたが、そうでもないようね」
「自分が気に入らない事をやられれば、そういった事を言い始めるのが人間の常と言う物ですよ」
そういう評価に至ったのは、調理場へ移動するまでの間に何人かすれ違った使用人が、俺に対する態度が柔らかかったからだろう。
会社を立て直すのと同じように使用人も大幅に削減した。切られた使用人の次の職場もキチンと紹介済みだ。
それに伴い一人の仕事量が多くなったのだが、食事の量と質を少しだけ上げ頑張った者に対しては褒美もやる事で皆のやる気を出させることに成功した。
そのお蔭もあって、貴族と使用人と言う心の壁は在るがそれでも気軽に挨拶をできる仲を構築することが出来ている。
「ここまで案内、ありがとうございました」
「「いえいえ、それほどのことでは」」
一つは俺の声。もう一つは、俺の部隊の隊員であるアシュリーだ。どこから着いてきていたのか、いつの間にか隣に立っていた。
「今までの貴方の行動と、屋敷の使用人が貴方に対する態度を鑑みても手紙に書かれていた事の全てが本当の事ではないと理解できました」
「それは良かった。私としても、嘘の人物像で見られるのは心苦しいので」
「ですが、貴方は騎士としての素養が欠けているように思えます」
「そうですか? 私なりに騎士たらんと行動をしているつもりですが」
「確かに、行動だけ見れば素晴らしいと評価できます。しかし、戦い方が余りにもドラゴン任せかつ噂程度の話しで聞いただけですが、圧倒的優位な状態から夜襲を行うと言うのは些か騎士の流儀に反するのではないのでしょうか?」
「竜騎士と騎馬騎士は運用方法が違うから仕方が無いですよ」
さすが武人の家系ヴィットナー家。娘――いや、孫娘も脳筋か?
そもそも、竜騎士とは一対一で戦うのが常で、乱戦はその巨体から推奨はされていない。俺――と言うか、ここ最近のロベール竜騎士隊の戦い方が今迄の竜騎士の運用方法とかけ離れているのだ。
「ですが、学校での成績は良いと聞きました。剣技も得意なのでしょう?」
「それは、それ。これは、これです」
ちなみに剣技の成績が良いのは、他の生徒が普通の兵士然としたミナの様な動きに対して、俺はその隙を突く様に動く隣国ユーングラント王国の流派であるパンネシアに毛が生えたような物だからだ。
初めこそ敵なしの状態だったが、次第に生徒たちの目が慣れると共に対策を講じられるようになり、今では普通よりほんの少しだけ上と言った成績まで落ちた。
「自分で測らない限り評価はできません。水浴びをした後に手合せをお願いします」
「え~……、嫌っす」
面倒臭いし、ここ最近は真面な食事をとっていないし睡眠も削って体力を削がれている状態だ。
それなのに、何が楽しくて痛い目に遭いながら手合せをしなければいけないのか。
俺の返答が気に入らないようで、マリッタは少しだけムッとした。
「貴方は隊を率いる将ではないのですか? 部下が傍に居ると言うのに、その様な及び腰になるとは……。その腰に付けているのは飾りですか?」
俺の腰には先ほどまで外に居たと言う事もあり剣を差している。持ち歩くのが面倒くさいのだが、その辺のテーブルに置いておくと俺への意趣返しなのか夫人や娘が隙あらば売り払おうとするのだ。
俺が呼んだ商人は買い取る事はしないが、ブレイフォクサ家の実情をまだ知っていない昔の御用商人が来た時に危うく持って行かれそうになったので、それ以降きちんと持ち歩くようになっている。
「いえ、まぁ、実戦を想定していますが、まだまだ育っていないのでなかなか何とも言えない状態ですね」
と、自分の腰に視線を向けながら言った。
「なら年上の胸を借りると思って挑みなさい。初めは優しく揉んであげます」
「胸を貸してくれる上に優しく揉んでくれるんですと!? いやはや、最近の若者と言うのは大胆ですね……。ですが、貴女はフォポールの婚約者。その様な事は言わない方が……」
「何言ってんだコイツ?」的な視線で俺を見つめ、マリッタは再び口を開いた。
「なぜフォポールが出て来るんですか? 彼は婚約者の候補であって婚約者ではありません。水浴びを済ませた後にすぐに始めましょう。絶対に後悔はさせません」
「ででで、では、ベッドメイクを済ませておきます。初めてなのに後悔をさせないプレイとは、一体どのような事になるのでしょうか!?」
ムッハー、とわざとらしく鼻息を荒くする俺だが、それでも気づいていないのかマリッタは再び「何言ってんだコイツ?」的な表情で俺を見るだけだった。
「さっきから、貴方は何を言っているんですか? ふざけるのも――」
「ブヒィィィ!」
訝しげに俺に問うてくるマリッタだったが、俺のすぐ横で豚の様な鳴き声と共に噴き出したアシュリーによって封じられた。
「汚っ!? ちょっとどうしたのよ!?」
「ブヒッ、グホッ、申し訳ございません。余りにも自分の汚らわしさに思わず吹き出してしまいました」
ケホッケホッ、と止まらない噴き出しを咳で何とか誤魔化そうとするアシュリーだが、その行為も虚しくマリッタの表情をさらに険しくするだけだった。
「さっきから話しが通じていませんが、一体何の事を言っているのですか?」
「いえ、ですから、年上の女性が優しく揉んでくれると。しかも水浴びを済ませた後にすることと言えば一つくらいではなかろうか」
そこで初めて合点がいったのか、一瞬でマリッタの顔が真っ赤になった。
さすがにここ等辺はまだ乙女だったか。下ネタも大丈夫なアシュリーに見習ってほしい所だ。
「あっ、貴方の様な子供にそのような事――はっ、早すぎだわ。大人をからかうような真似をしてっ!」
「実は巨竜が隠れているやもしれませんよ?」
今度は腰からさらにダイレクトに股間へ向けると、マリッタから変な声が漏れた。
「前に見ましたが、ロベール様のは巨竜ではなくベビーコーンでしたよ?」
「おい……おい……!」
どこで俺のサイズを確認していたのか、アシュリーが衝撃的な事実を言ってきた。お風呂に入る時にさらけ出し過ぎたのが原因だろうか?
「あっ、貴方達いぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
鼓膜を揺さぶる高い声が屋敷内に響いた。
その後、俺は何のおとがめも無かったが、アシュリーはフォポールから長々とお叱りを受けていた。
5月25日 誤字脱字・文章を修正しました。
5月26日 誤字修正しました。