因果の果てに 2
「雪が降ってきたわよ」
バイト先で、制服から着替え終わって裏口から出たところで、そんな声につかまった。振り返ると、同じバイトの長谷がビニール傘を差し出していた。
「これ、店のだけどいいよね?」
白い息を吐きながら、共犯、と言って自分も客の忘れて行った傘を開く。それを見て、俺も恩恵に預かる事にして素直にビニール傘を開いた。舞い散る雪はそれなりに激しく、もう薄っすらと地面を白く覆っていた。そこに、遠慮なく足跡を刻みつけながら歩く。
「今日もサホちゃん来てるんでしょう?いいねえ、通い妻」
一緒に店を出た流れで途中まで一緒に帰ることになったらしい長谷は、からかうような口調で俺に向かってそう言う。濃い色の口紅を引いた薄い唇が笑みをかたどって広がった。
俺は苦笑して曖昧に首を振る。
「そろそろ試験なんだから来なくて良いって言ってるのにな」
サホは二つ年下で、一応、俺の彼女と言う事になっている。数ヶ月前から俺の周囲に纏わりついて来て、最近になって、いい加減断るのも面倒になってきたので受け入れたのだ。こういう事は、過去何度かあった。だが、サホほど図々しいのも珍しく、彼女という椅子に座った途端、毎日家に通ってきては勝手に俺の世話をするようになったのだ。
「珍しいよね。瀬戸崎がああいうタイプの女の子選ぶなんて」
あまり愉快な話題ではないので、早々に終わらせてしまいたいのに、長谷はこうして尚もこの話を続けたがっているようだった。
「いつもなら、後腐れがなさそうな人を選ぶのに」
そう言って俺を見たその視線は、思いもがけず真剣で、明らかに非難する色を含んでいた。その理由が分からないほどは俺も鈍くない。何を隠そう、その、後腐れのしなさそうな人の中の一人がこの長谷だったからだ。長谷とは結構気があったから、一ヶ月くらいは続いた。俺はもう少し続けても良かったのだが、結局向こうが別れようと俺に言ってきたのだ。
「私もサホちゃんくらい鈍かったら、幸せだったのに」
長谷は、さらにねちっこく続ける。どうも、俺がサホと付き合っているのが気に食わないらしい。それとも、長谷は一度も入れなかった俺の部屋にサホが入り浸っているのが面白くないのだろうか。
「そうだな」
返事のし様もないので、そう相槌を打った俺に、長谷は白けた視線を送ってきた。
「本当に、瀬戸崎って嫌な男よね。そうやって何にも誰にも特に執着のないふりして、それで実は誰にでも適度に優しいから、女の子は誰でも自分は特別なんじゃないかって思っちゃうのよ。あの子が良い例じゃない」
俺が誰かに優しくした事など、記憶にはないけれど、長谷の言いたい事は分かった。俺がサホに好かれるきっかけになった時の事を言っているのだ。
サホは俺の所属する研究室の教官のゼミに所属していた。俺は特にサホを気に入っていたわけではないけれど、時々その後姿にハッとさせられる事があった。サホは、その後姿だけならば、未央にどこか似ていたのだ。ただ、それだけの理由だったが、時々後姿だけ見かける時に、未央かと思ってどきりとした事があるのは確かだった。だから、その後姿を覚えていて、サホが一度、教官に苛められているのを見かけた時に助けてやった事があるのだ。項垂れながら涙を堪えているその後姿を見ているに忍びない、ただそれだけの理由だったのだが。
「だけど大抵の女の子はすぐに自分は目に入ってないんだ、って気付くのよね。一緒にいても自分の方を見てくれてない、って。それに我慢できなくなって別れようって言っちゃうのよ。だけど、それでも完全に忘れられないで未練を残すのよ」
面倒くさい話題になってきた、と俺はなるべく足早に雪を踏みつける。この分だと、夜になれば4,5cmは確実に積もっているのだろうな、などと考えながら。
「瀬戸崎がただの優しいだけの男だったら良かったのよね。それが、妙に陰があって、どこか諦観した感じで、それで底の方で実はすっごい冷たい人間だから、余計に惹かれるんだわ。きっとね」
「そんなんに惹かれるなんて、難儀な性分だな」
俺がそう言うと、長谷は憎らしげに俺を睨んできた。
「瀬戸崎を本気にさせる事が出来る女がいたら見てみたいもんだわ。それで、その人にズタボロに棄てられるのよ。そうしたら、私たちの気持ちも少しはわかるってもんだわ」
その言葉に、俺は唇を歪めて苦笑のできそこないのような物を返すだけに止めておいた。
本気にさせられる女になんて、とうの昔に出会っている。ズタボロに棄てられるのも経験済みだ。そして、それでもいまだ忘れられないのも。
冷たい冬の空気が喉に入って、吸いすぎの煙草で荒れた喉に刺さるように感じる。だが、そんなのは痛みのうちにも入らない。刺激ですらない。あの時感じた痛み以来、俺は痛みに麻痺している。
いまだ恨めしそうな目をした長谷と別れると、傘を畳んで際限なく落ちてくる雪に、少しの間降られていた。
先ほどの会話に触発されて、思い出さないようにと心の奥底に沈めていた感情が少しずつ浮き上がってくるのを感じる。自分では制御できないような、のたうちまわるような感情は、今でも少し持て余す。未央の植えていった花を見て、メッセージを受け取ってから、なんとか自分でコントロールができるようになったが、それでも時々、こうして浮き上がってきては衝動のような暴力的な熱い感情を全身に駆け巡らせるのだ。
未央は分かっているのだろうか?自分がどんなに残酷な事をしたのか。
あの日から、俺は、自分の感情を奥深くに眠らせたまま、半ば人生に対する脱力感と、それでも生きていればいつか未央に会える事があるかもしれないという倦怠感を含んだ儚い希望との中に生きている。多少投げやりなところはあるが、それでも日々の生活はきちんとしている。未央が意図したであろう『自分たち以外の世界を見ること』だって出来ていたと思う。それでもまだ、この胸に沈んだ感情は消滅してはくれずにこうして時々俺を煩わす。
人通りが少ないとはいえ、道の真ん中に立ち止まって馬鹿みたいに突っ立って、しかも頭の上に雪さえ積もらせていた俺を、通行人の誰かがとうとう不審に思ったのか大丈夫かと声を掛けてきた。それを契機に現実に立ち戻り、そつのない笑顔を意識的に浮かべて礼を言って歩き出す。再び傘をさすと、じわじわと頭の上で雪が溶けて髪に染みこんで行くのが分かった。そのうちそれは、雫になって額に垂れる。これは、早く帰らないと風邪を引く。大股に歩いて到着したアパートの下で自分の部屋を見ると、明かりが付いていたので少々げんなりした。今日は、サホとは会いたい気分ではなかった。騒がしく周囲に纏わり着くだけで害は無いから普段はあまり気にならないが、時としてとても気に触る。それでも、風邪をひいてはバイトの予定や研究の予定に支障が出るから家に帰るしかないと覚悟を決めて家に入った。
まず、目に入ったのは短いフローリングの廊下の向こう側にある部屋。その中央にある、小さいテーブルというよりはちゃぶ台と言った方が正しいような代物に向かってこちらに背を向けて座っている人影。
ぐらりと、眩暈がしたような気がした。一瞬こみ上げてきた激しい感情を理性でもって押し込めて、俺は深く息をする。
落ち着け。もう何度も、こんな思いをしたじゃないか。あれは未央じゃない。サホだ。もう何度未央の後姿を見たかと思い、何度その振り返った姿を見て失望した事か。
もう、落胆するのはこりごりだ。その度に、狂ってしまいそうな失望感に襲われる。
大体俺はもう長い間、中学生の時に母親に未央と引き離されて以来、未央を間近で見たことなんてないのだ。姿を見られるのは時々遠目に見かける時のみだったのだ。そんな朧気な記憶で、毎度毎度傷ついている自分が滑稽で泣けてくる。
開けたドアから暖まった部屋に冷気が吹き込んだので気が付いたのだろう。その後姿が肩から艶やかな髪を滑らせながら、こちらへ振り返った。
俺は目を見張る。一瞬のうちに、体中を何かが駆け巡って、それでも指の一本も動かす事は出来なかった。動いてしまえば、まるで蜃気楼のように廊下を挟んで目の前にいる人影が消え失せてしまうような気がして。
以前に見たのはもう思い出せないくらいに昔の事のように思える。その時よりも、大分大人っぽくなって、都会に行っていただけあって洗練されている。それでも、その面影は変わらずに、優しげなその表情も、少し広めだと気にしていた額も、柔らかな弧を描く眉もそのままだった。長い睫毛が一度瞬いて、それから黒目の多い瞳が緩やかに笑みを象って行くのを、俺はただうっとりと見惚れていた。
「理央」
懐かしい声が俺を呼ぶ。何年ぶりだろう。身悶えするほどに待ち焦がれた声だ。
その声に誘われるように、俺はふらふらと夢うつつの心地のままそちらへ歩みを進める。どうかこの姿が消えてしまいませんように、と考えながら。
無意識のうちに手が差し出されて、それが未央に触れようとしたその時だった。
「あれぇ?理央君、帰ってきてたのー?」
何もかもをぶち壊すようなそんな無遠慮な声が聞こえた。その声に未央の顔は一瞬張り付いたように強張って、それからそちらを振り返った。俺もそうしないわけには行かず、そちらを見る。視線の先には、サホが嬉しそうに間の抜けた笑みを浮かべて俺を見つめていた。
「ああ、サホ、いたのか……」
出したその声は、まるで他人の声のようだった。
気まずそうに軽く伏せられた未央の睫毛と、闖入者の登場と共に俺から逸らされた視線。細くて白い手がおもむろに傍らに置いてあった紙袋を掴むと、俺に差し出した。
「今日からしばらく帰省してるの。お土産、生ものだから先に持って来ちゃおうと思って。ついでに一目だけ会って行こうと思って待ってたんだけど、もう時間が時間だから行くね」
まるで他人のような口調でそう言って俺に紙袋を押し付けるようにして渡すと、いそいそと立ち上がりながら白いコートを手に引っ掛けて、手荷物を持って立ち上がる。
それまで間抜けにも呆然と紙袋を手にしながら突っ立っていた俺は、それで我に帰って慌てて未央の前を遮るようにして立ちはだかった。
「いくらなんでも、それは慌しすぎるだろう。お茶くらい飲んで行ったら?」
その言葉に、未央は不思議な瞳をして首を振った。俺には読み取れない瞳。何を考えているのか、感情を読ませてくれない、俺を拒否する瞳。
「ううん。お母さんに何も言ってないから。きっと遅くに着いたら何も用意してないのにって慌てて、気を使わせちゃうから。今ならまだ夕食の支度の前でしょう」
「でも……」
「帰るよ」
俺に有無を言わせないような強い口調でもう一度繰り返して、未央は形だけの笑みを浮かべて、やりとりを黙って見ていたサホに軽く挨拶をすると、俺の横をすり抜けて出て行ってしまった。心持、サホが安堵したように表情を緩めたのを目の端に捉えながらも、俺は必死に未央を眼で追っていた。結局一度も触れる事のできなかった未央を。微かに雪が吹き込んでくるドアが完全に閉まるまで、ずっと。
「理央君、お夕飯が出来てるよ」
甘えた声でサホが俺の腕にすがり付いてくるのをこんなに鬱陶しいと思ったことはなかった。俺は軽く舌打ちしてそれを引き剥がすと、サホに一言も返事をしないで部屋に戻る。サホは子犬のように後からついて来て、怯えたように俺の様子を窺っていた。ワンルームの家だから、いる場所と言ったらそこしかない。なんとか俺は気を鎮めようと壁にもたれて床に散らばった雑誌から一冊拾い上げ、頭に入らないながらに文字を目で追っていた。
サホが困惑しているのは知っていたが、できればそのまま立ち去って欲しいと思っただけで、その他の感情、たとえばサホのいじらしさに対する愛情はおろか、同情や哀れみでさえも一切俺の心には浮かび上がってこなかった。残念だが、俺は長谷の言うとおり、本当に冷たい男なのかもしれない。
そのまましばらく放っておいたら、やがてサホは何かをがさごそとやり出して、それから妙に浮かれたような声で俺に話しかけてきた。
「ねえ、理央君、すごいよ。マキシムド・パリのケーキだって。すごい、高いんじゃない?有名なお店だよ」
「サホ、今日はもう帰ってくれないか?」
耳障りに響く声に、とうとう耐えられなくなって、俺は不機嫌を隠しもしない声でそう言った。
サホは一瞬、何かに撃たれでもしたようなちょっと表現の出来ないような奇妙な顔をして、それから珍しく悄然と項垂れる様にして、何も言わずに立ち上がり、すごすごと自分の荷物を拾って身支度を始めた。俺は言いたい事だけ言ってしまうと、もうサホからは興味が失せて雑誌に目を落していたのだが、どうやら身支度を整えたらしいサホが廊下から俺を呼ぶので顔を上げた。
サホは狭く薄暗い廊下で、妙に青白い顔色で、思いつめたような必死な瞳をして俺を見つめていた。聞こえた声はか細く、不安に揺れていた。
「ねえ、理央君。あたし、理央君に好かれようなんて大それた夢は持ってないんだよ。だけど、嫌いにはならないでね」
俺がなんとも返事の仕様がないまま黙っているとサホはもう一度「嫌いにならないで」と同じ事を繰り返した。
サホの事は、別に嫌いではない。ただ、好きでもないし興味もないだけだ。今日は未央の事があったから気に触ったが、だからと言って嫌いになるも何も無い。
俺が頷くとサホはようやく安堵したように表情を緩めて、少しぎこちないながらも笑みを浮かべて、また先ほどの妙にはしゃいだような声で「じゃあね」と言うと、慌しくばたばたと駆けて出て行った。
俺はそれでようやく、雑誌を投げ出して本格的に壁にもたれかかると、目を伏せて、気を鎮めようと努力を始めた。体中の血が逆流するようなこの生々しい感情を到底抑え得る事はできないだろう、とどこかで半ば諦めながらも。