因果の果てに 1
がらがらのボックス席の座席の上、電車は規則正しい振動を私の体に伝えている。四角い窓にはまった、よく見ると小さな傷だらけの窓ガラスの向こうでは、白い雪がちらつき始めていた。それを通して見えるのは、ようやく市街地に入って来た事を窺わせる住宅の群れ。群とは言っても、見苦しい程に立ち並んでいるわけでもなく、一軒一軒の間に適度に空間が開いて、その間に緑なども見えもするから、どことなく安心できる。もっとも、安心できるのは一概にそういう為だけではなく、自分が生まれ育った土地だからこそ、かもしれないけれど。
数時間前にはこことは比べものにならないくらい混みあった、醜悪なほどのビル群の中を出発し、その後、どんどんと寂しくなっていく風景から、しまいには田んぼや山を背景にゆっくりと列車旅行と洒落込んでいたのだが、こうしてまた市街地に入ってきたことで、それもそろそろ終わりを迎えていることを物語っていた。それの終わりを締めくくるのが、降り始めたこの雪なのだから、少し苦笑してしまう。
とはいっても、列車旅行が終わりというだけで、初めて取った私の有給は今日が初日であって、私はこれからしばらくは実家に滞在する。つまり、今日は本当は旅の始まりの日なのだ。……いや、実家に『帰る』というのだから、もしかしたら、やっぱり終わりで正しいのかもしれない。5年前に一方的に出てきてしまったあの日から、私の旅が始まっていたのだとしたら。
そんなくだらない事を考えている事に気が付いて、私はまた苦笑せざるを得なかった。
だが、考えるべき事はもう、ここに来る電車の中で散々考えつくしてしまった。直視したくない事でも、気の重い事でも、事実になってしまったものはしょうがない。それを、受け入れるしかないだろうと腹は決めたつもりだった。
電車はゆっくりと速度を落とし、駅にその体を止めようとしていた。私は網棚の上からバックとお土産の紙袋などを下ろすと、降車の準備を始める。滞在中の衣類や大きい荷物などは宅急便で送ってあるから、明日にでも届くだろう。今日はこれから行くところがあるから、このくらいが身軽で丁度良い。
雪のちらつくプラットホームから早足に改札を抜け、駅の人ごみを抜ける。迎えは誰も来ていなかった。当然だ。ここに来る事は誰にも知らせずに来たのだから。
バックから折りたたみの傘を取り出して開くと、私は歩き出す。この冬新しく買ったブーツが、降り始めの薄いみぞれ状態の雪に濡らされたアスファルトに少し滑って、滑り止めのついていない東京で買ったブーツを少し呪った。
「理央はもう、大丈夫そうだよ」
数ヶ月に一度くらい、様子を見に来てくれている叔父がそう言ったのは数日前だった。一人暮らしの身分ではそうそう縁のないような、それなりに値の張るレストランで、叔父はナイフとフォークを動かしながら、自然な調子で言ったのだ。
「やっと本格的に浮上したようだよ。……ここ三年間は落ち着いていたイメージがあるけど、それでもやはり陰のある感じは拭えなかったからね」
「そう」
私は至って冷静に聞こえるように注意しながらそう返事をした。
ムードを出すためか柔らかなオレンジ色の光の満ちた店内で、テーブルを挟んで目の前に座る叔父は、とても紳士的で優しく素敵な人だ。見た目も素敵で、このレストランに入る時も、女の人の何人かがチラリと含みのある視線で振り返るのを見かけた。特別若く見えると言う訳ではないが、品があり、年相応の落ち着きと穏やかさと、それでいてどうしてか華やかさを持ち合わせている人だからだろう。妙に女の人の目を引く。
この人が、実の姉である私の母と恋愛関係にあったという話を聞いた時は、とても驚いたものだった。叔父はとっても常識人でモラリストに見えたから。
「君との事を懸念する必要もなくなったんじゃないかな。どうやら、お付き合いしている人も出来たようだし」
その言葉に、ずきりと胃が軋むのを感じた。
私は急激に食欲が失せるのを感じた。目の前の肉の塊を切る手を止めたいと思ったが、それでも平静を装って、同じ速度でナイフとフォークを動かしていた。今まで美味しそうに湯気を立てていた焦げ目の付いた肉は、なにやら上手く切れず、やっと切れて口に運んだところで、味などはまるでせず、ゴムを噛んでいるような気分でそれを数回口の中に留めた後、無理矢理に嚥下した。
「それから、前に言い忘れていたが春から一人暮らしを始めたそうだよ。彼、院に行っただろう?なんでも、研究所に近い場所に住みたいからって」
叔父の声はあくまでも穏やかで、単なる世間話をしているようにしか聞こえない。
だけど、私は平然とした様子を保ちながらも、早くこの話題を終わらせて欲しくてたまらなかった。定期的に口に運ぶ折角の料理もワインも、最早何の味もしない。ただ、飲み下すだけの物になり下がってしまっていた。
それなのに叔父は、ゆったりと弄ぶようにワイングラスを揺らしながら、その口調のままで穏やかに微笑みながら私にこう言ったのだ。
「そろそろ、一度くらい帰ってみてはどうだろう?」
私は意識的に唇に微笑を浮かべたまま、イエスともノーとも答えなかった。
久々に降りた駅は再開発などで様相を一変させていたが、そこを抜けると、見慣れた風景が戻ってきていた。部分的に見れば、見慣れないものがあったり、見慣れていたものがなくなっていたりという事はあったが、総体的に見て、そこはやはり馴染み深い故郷だった。
その中をゆっくりと踏みしめて歩きながら、私は電車の中で散々考えつくした事を、再び考えていた。
今、理央に会ってどうしようというのだろう?
例え理央がどんなに浮上していても、新しい人を見つけていても、傷を癒してしまったとしても、私はいまだずるずると彼の事を忘れられずにいるのに。
私は、卑怯なのだ。4年前、理央を騙して姿を眩ませてしまった。当時は、それがお互いのためだと思ったし、そうするしかないと思っていた。だけど、本当にそうなのだろうかと最近、というよりは叔父に理央の話を聞いてから思うようになったのだ。何故なら、叔父が帰った次の日にはもう、私は有給の申請を出していたのだから。
本当は、私は自分が傷つくのを怖れるあまり、ああして理央の前から唐突に姿を消したのではないだろうか?その疑念は今も拭えない。もし、いつか理央が私との関係の歪さに気付いて、私よりも先に外に出て行ってしまったら……。それが恐ろしくて、先手必勝とばかりに家を飛び出したのではないのだろうか?ああして出て行けば、理央の中には私は絶対に強く刻み付けられたまま、傷を残し、それはじくじくと膿を出しては私の存在をいつまでも主張し続ける。それが目的ではなかっただろうか?
その証拠に、理央を失いそうになったと知ったら、こうして私は発作のように家を飛び出していたのだから。
理央は私を忘れようとしている。傷を癒し、飛び立とうとしている。私の知らない女の人と一緒に。それが、恐ろしいほどに私の心を締め付けた。駆け巡る焦燥と独占欲。
とんでもなくエゴイスティックな事だとは分かっている。理央の気持ちなど一欠片も考えていない自分も自覚している。だけど、そうせずには居られない。
一度、理央と顔を合わせてそれを確かめてみる。
それは、勿論理央がそれによって私の元に引き戻される事を期待してのことだ。私は、自分の汚らわしさを自覚している。でも、だけど、もしそれが成功しなかったのならば、その時こそ本当に、私も飛び立てる気がするのだ。
今まで私は、檻の中から長い鎖でつながれて生活をしていたのだ。東京に出て、大学を出て、就職をして。外の世界も充分見れたし、美しい物、楽しい事も知った。だけど、それでも繋がれた鎖の存在は意識をしていた。目隠しをしたふりをして、それがひとりでに錆びて腐り落ちるのをずっと待っていたのだ。だけど、待っているだけでは、それは絶対に来ないものだったのかもしれない。
理央は、私のした事で深く傷ついた。
叔父に聞く限り、当時のうちの様子は地獄のような様だったそうだ。その中で、そうして傷ついて傷ついた末に、そこから這い上がった。そういう強さは、檻の戸をぶち壊せるだけの充分なものだろう。
だけど、私は、傷つくのを恐れたばかりにだらだらと鎖に繋がれたまま、果てる事のない想いを胸の底に抱えて生きて来た。理央を傷つけた代償を、私はまだ支払っては居ない。
今度は、私が傷つくべきなのだ。そうすれば、今度こそ本当に、飛び立てるかもしれない。この呪縛から、逃れられるのかもしれない。
吐く息は白かった。低く立ち込める鈍い灰色の雲の下、舞う雪は激しい。
この分だと、雪は明日の朝にはこの街を白く覆ってしまうのではないだろうか。
歩きながら手袋を外し、バックを探って地図を出す。何の意図か、叔父が去り際に私に渡した地図だ。それには、理央が一人暮らしをしているというアパートの位置が記されている。
私の心はこの期に及んでまだ迷っていた。
傷つくのが恐い自分が、だらだらと言い訳を続ける。それでも、足は淀みなく進んで行った。
手には土産の菓子の詰め合わせを持っている。これを渡しに来たという名目はちゃんとある。とは言っても、実家に帰る前に、母に帰省を気付かれる前に、理央と会ってしまおうと考える辺りが言い訳の仕様もない所かもしれないけれど。
理央の住んでいる場所はアパートと言うには上等だけど、マンションと言うには気が引ける、そんな場所だった。流石に家の前に立つと手が震えて、呼び鈴を押すのに躊躇してしまう。雪がちらちらと舞い込む薄暗い廊下に、そうして数分間は硬直していた。
―――頑張って、玉砕して来いよ。失恋宴会くらいはしてやるよ。
不意に、耳に蘇った声があった。
田崎直也という男の声。以前、公園で奇妙な出会いをして以来、すっかり相談役として頼り切ってしまった相手だ。何の縁か、向こうも東京に行く予定だったらしく、私と同時期に上京して、腐れ縁が続いている。相変らず失礼な男だけど、私の事情は知っているし、言う事は的確で、話していて気の置けないから随分と親しくしている。親しくしているのに、友人以上の関係にならないのは、直也いわく「誰かの身代わりにされるのはごめん」だからだそうで、その点では私も反論は出来ない。他の人を「誰かの代わり」にしようとした前科がないわけではなかったからだ。
憎たらしい声を思い出すと、負けん気で少し勇気が出た。私は思い切って呼び鈴を押す。
軽快な音の後、インターホンから聞こえたのは、予想もしなかった声だった。
「どちら様ですかあ?」
甘ったるい女の人の声。
ああ、私は何て迂闊なんだろう。理央に彼女が出来たと言うのならば、理央の部屋に居てもなにもおかしくないのに。理央が私を置いて飛び立ってしまったという事実だけに気をとられていて、そちらの方にはまるで気が回らなかった。
私は背筋を伸ばすと至って冷静な声を出すように努める。
「突然ごめんなさい。理央はいらっしゃいますか?」
私は、ここで傷つきたくなかった。こんな子に、傷つけられるわけには行かない。傷つけられるのは、理央にだけだ。そうでなければ、私のプライドが許さない。
パタパタと言う足音に続いてがちゃりとドアが開く。そこから覗いた怪訝そうな愛らしい顔に、私は微笑んで見せた。
「初めまして。理央の姉です」
彼女は一瞬、不審そうな顔をしたものの、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて私を招き入れる。
「どうぞ、入ってください。理央君は今、お留守なんですけど」
促されて入った家。どう見ても女性の手が入った、綺麗に整頓された部屋に密かな嫉妬を覚えながら、私はただ、軽い足取りでお茶を淹れにキッチンに向かう彼女の後姿を眺めていた。