その6『パンドラ』
開けてはいけない箱を開けたのはだあれ?
結局俺は、思いつく限りの未央の友人に尋ね、東京にも足を運んでみたけれど、未央を探し出す事が出来なかった。
ここでも未央の徹底ぶりを思い知らされて、俺は愕然とした。未央に口止めされている、と誰もが決して口を割らなかったからだ。母親も、俺がどんなに怒鳴ってもなだめすかしても、絶対に俺に未央の居場所を教える事はなかった。
もともと壊れかけていた家庭だったけど、未央が居なくなった事で決定的に何かが壊れた。俺はおそらく生まれてこの方こんなに人を憎んだ事がない、というくらいの憎しみを母親に対して持ってしまったし、母親も自らの罪悪感からか俺に対してびくびくと怯えを見せるようになっていたから。
何度か母親に手を上げることもしてしまった。
見かねた叔父が仲裁に入って、俺はしばらく叔父のところで暮らして何とか精神上の安定を取り戻して行ったが、叔父の家庭にいつまでも居座っているわけにもいかないから、渋々家に帰り、それからは徹底的に母親を無視する日々の始まりだった。
家の中は常にピリピリとした空気に覆われていて、たとえ自分の部屋に閉じこもっていても、なにかしら見えない圧迫を感じているような気になった。
息苦しくて、むしゃくしゃしてどうしようもなかった。
ある日、俺が大学から帰って来た時に、叔父が家に来ていた。叔父がうちに直接来るというのは珍しい。俺は何となく気になって、足音をひそめて二人のいるリビングに急いだ。
リビングのドアの外で物音を立てないようにして息をひそめて母親と叔父の会話を盗み聞きする。聞きながら、どんどんと自らの顔が青褪めていくのを感じた。
二人が話していたのは自分たちの過去の恋の話。姉弟で愛し合ってしまった二人の話。
叔父はなだめるように母に話しかけていて、母は泣いていた。
「姉さん、姉さんがあの二人に俺達の姿を重ねてしまったのも分からないではないけれど……」
叔父の声が遠くで聞こえるように感じる。怒りで目の前が真っ白になると言う事を始めて体感した、と思った。
昔から不思議だった。母がどうしてああまでして俺と未央とを引き離したのかが。例え、あまりにも仲が良かったとはいえ、俺と未央の関係は恋愛のそれとは程遠いものだった筈だ。それが、何故?
その理由が、自らの姿を俺達に重ねて、それで邪推した結果だと言うのなら、それはなんとも許し難い。
気がつくと俺は大きな物音を立てて、リビングに飛び込んでいた。叔父の驚く顔と母親の叫び声、紅茶のカップの倒れる音とこぼれた液体。全てが気にも止まらなかった。
無我夢中でそれをやっていて、なんとか我に返ったのは叔父が大声で俺の名を呼びながら俺の両手を母の首から引き離していたからだ。
俺は荒い息をしながら母親を睨み、何とか自分の理性を最大限に動員した低い声で言う。
「だったら、家族を壊したのは、全部他ならぬあんたの責任じゃないか」
母は喉を押さえてゴホゴホと咳き込みながら、俺に視線を向ける。俺は続けた。
「あんたが俺と未央を引き離したりしなければ、俺達はきっと、もっと普通の家族としてやっていけたんだ。その形を壊したのはあんただろ?その理由が、自分の過去を重ねて、だと?ふざけんな」
段々と、怒りが抑えきれなくなってくる。
「諸悪の根源は全部あんただ」
―――パンドラの箱を開けたのは……。
棄て台詞のようにそう言ってその場を立ち去ろうとした時、背後からいまだ咳き込みながら掠れた声で、でも、しっかりと主張する声を聞いた。
「でも、結局、あんたたちもそうなったじゃない。私が心配したとおりに、なったじゃない」
俺はカッとなって振り返ったが、叔父が俺の目の前に立ち塞がったためにそれ以上はどうしようもなかった。乱暴にドアを開けてその場を立ち去ることの他には……。
それからはもう、同じ家にいても母親とは顔を合わせる事もなかった。
俺は今度母と顔を合わせたら、今度こそ殺してしまうのではないかと流石に恐ろしかったし、母も恐ろしい目に遭って恐怖を抱いたか、徹底的に俺を避けていた。
時々、自分の部屋から庭で何かをしている母を見かける事はあったが、それさえもカーテンを閉めて庭が見えないようにして視界から追いやった。
そうやって、最悪な気分のまま、未央がいない一年が過ぎた。
その日、俺がふと窓にかかったままのカーテンを開けてみたのは本当に気まぐれで、別に俺の気分が浮上したというわけでもなければ、母親への怒りがとけた訳でもなかった。
とにかく、そうしてカーテンを開けた俺は目の前に溢れ出した光景に目を見張った。
以前覚えのある庭は、確か地肌が露出した、閑散とした寂しい庭だった筈だ。それが、どうだろう。カーテンを開けた瞬間、目の中に飛び込んできた、色とりどりの、色、色。
一瞬、何が起ったのか分からなかった。それくらい、庭は色に、春の花々に溢れていた。
俺は呆然と庭を見下ろす。庭に咲いた花々は春の光を受けて、きらきらと明るい色をこちらに投げかけてくる。
ふいに、庭へ続くドアが開く音がして、母親が庭に出て来た。突然の事に、咄嗟に窓を閉めるタイミングを逃してばったりとかちあってしまった。
母親は始め、とても驚いた顔をしていたが、やがて顔を背けるとも言える動作でぎくしゃくと花々の方を向き、辛うじて俺に聞こえるくらいの声で言う。
「未央の、お土産なの」
その名前に俺が反応を示すのを察して、母親は勇気付けられたように少し声を大きくする。
「未央が、出て行く前にこれを植えて行って、毎日お世話をして、それで春になったら二人で見てって……」
俺は呆然と花々を見つめる。
―――未央が、そんな事を。
ふいに、耳元で未央の笑い声が聞こえた気がした。未央が出て行って以来、まったく見えなくなっていた未央の心が、再び少しだけ見えたような。
外では誘うように花々が揺れている。
その中に、この家を出て外へ飛び出して行った未央の後姿が浮かびあがる。不思議に鮮明に思い浮かぶ彼女は、春の日を浴びて、しっかりと立っている。その姿はとても綺麗で眩しくて。眩しくて、眩しくて。
俺は自分を、自分の現状を、どうしようもなく情けなく思った。
俺は部屋を出ると階段を下りて中庭へと通じるドアへと向かう。
―――わかったよ、未央。
ドアを開けると春の光が顔に降り注ぐ。眩しさに少し目を眇めた後、怯えと困惑をないまぜにしたような顔の母親の方を向き、目を合わせる。ずっと、長い間凍らせていた表情。とてもぎこちなかったけど、それでもどうにか微笑む事が出来た。
『そうして、いつかきっと……。』
一応補足しますと、ここまでは「お題」に沿って短編を連ねたものです。
そしてここから先がお題とか考えないで続きを書いたものになります。だからこれから先は短編じゃないよ。