その4『君は誰』
しんとした広い家の中。
大きな窓からリビングに差し込む午後の光で満ち溢れていて、暖かな筈なのに、なんて寒々しく見えることだろう。立派な家具類も高級な絨毯もカーテンも、まるで新品のように綺麗にしてあるのに、すべてずっと変わらずに、百年前からそこにあるんじゃないかと思われるほどに、この家の中には人の生きている気配がしなかった。まるで、ここだけ時が止まってしまっているような。
そんな空間を窮屈に思いながら、俺はどこかで心地よく浸っていたのかもしれない。彼女と一緒なら、それもまた良いのじゃないかと。
そうして浸っているうちに、彼女の方は変わってしまったのにも気が付かないで。
『あなたは、東京の大学に行きなさい』
母の言葉に猛反対したのは半年も前。俺は絶対に地元の国立大学を受ける事にしていたし、それは、未央の側にいるためだった。未央がこのまま高校の付属大学に進むのは知っていた。
母親とは一週間喧嘩して口を利かなかった。未央は心配そうな声を出していたけど、俺は折れなかった。一週間後、とうとう母親が折れた。俺は、意外に思ったけど、それ以上に嬉しさが勝ってあまりよく考えなかった。
思えば、いつも俺達を引き離そうと異常なまでの執念を燃やしていた母親がこんなに簡単に折れるわけがなかったんだ。
俺が真相を知ったのは、既に全てが手遅れになってからだった。
進学の為に、電話をしばらくよす、と言われて一ヶ月間、電話をしなかった。
その間に、未央はさっさと荷物を纏めて、俺のいない隙に東京へ行ってしまった。
俺は丸々一ヶ月、その事をまるで知らなかったんだ。
彼女がいない部屋の隣で、彼女がずっとそこにいるんだと、想いを馳せながら、俺は一ヶ月間を過ごしていたんだ…。
俺が行かないのなら、自分が行く、と母親に申し出たのは未央だったそうだ。
ただし、そのことも、行き先もなにも教えないでくれ、と。
未央がいない家で、呆然と俺は考える。
何がいけなかったんだろう?
どうして、未央は行ってしまったんだろう?
未央の軽やかな笑い声や心配そうな声、すこし甘えたような声。耳に残るのは今までずっと繋がれていたはずの電話からの声。
電話をやめると言った時も未央の声には何の異常も感じられなかった。全く、いつもと同じ。
なのに、いつの間に変わってしまっていたのだろう。
―――わからない。
ぐんぐんと、人の気配のない部屋が膨張していくような気さえする。今までそこに満たされていると信じた物が、すべて抜けてしまって、それはもしかしたら夢か幻のような物かも知れなくて、いつの間にかその夢から醒めてしまっていた未央に俺はどうやら置いていかれたらしい。
ぞ、っと背筋が寒くなる。
今の今まで信じていた。俺と未央の心は電話線と一緒でいつも繋がっている、と。いつも分かり合えている、と。だけど、それは本当だったのだろうか?未央の全てを分かっているつもりだった。でも。
目の裏に浮かび上がる未央の姿。
表情がよく思い出せなくなって、俺は呆然としてその姿に呟いた。
「君は、誰?」
一番知っていたはずなのに。分かり合っていたはずなのに。
家族であり、片割れである、一番愛しい人。
俺は両手で顔を覆った。
どうするべきだろう?彼女を探しに行くべきだろうか?
俺を拒絶した彼女を?
のろのろと彼女のいない彼女の部屋に向かう。
彼女の心が知りたかった。いや、本当は知りたくなかったのかもしれない。
でも、知らないわけにはいかないと思った。
彼女の部屋は片付いていて、余計なものは一切なかった。内心、期待していた俺への置き手紙や言い訳さえ。
がらんと開いた空間を眺めて、本当に彼女が行ってしまったのだと痛いほどに実感する。
俺は歩いて行って窓を開ける。
外から春の暖かい風が吹き込んで来て、淡い色のカーテンがゆらゆらと優しく揺れた。
―――春だ。
今更に、そんな事を考える。
季節を感じる余裕なんて、今までになかったように思う。この、閉塞された屋敷の中で、時の止まった様な空間に浸されて、二人で閉じこもって満足していた。
未央は、ここから抜け出したのだろうか。
遠くに見える桜並木。窓の脇を小さな蝶がひらひらと通り抜ける。
でも、俺はまだ抜け出せない。
東京に行こう。
自然に、そう思った。どうすれば良いのかなんと言えば良いのか、全く分からない。ただ、未央に会おうと思った。
姿を見失ってしまった、彼女を見つけ出すために。