その3『きせき』
もしも奇跡が起こるのなら、私のこの想いを殺して。
泣きたくなる程胸が痛むの。
見えない未来に気が狂いそうになる。
どんな奇跡が起こったって、この想いが叶うなんて思ってない。
だけど、だから、せめて。
この想いを殺して。
私を、この家から解き放って。
学校がお休みの時は、なんだか窮屈だ。
お母さんは、私と理央が2人共家に居るのを不安がるから、どちらかが用事を作って家をあける事にしている。我が家の暗黙のルールの1つだ。
理央は明日の模試のために勉強しなくちゃいけないので、今日は私が必然的に家を出なければいけない。でも、運悪く、友人達は皆、用事があってつかまらなかった。
こんな時、私は決まって行く場所がある。
近所の公園なのだけど、ちょっとお洒落な感じで素敵だし、晴れた日に行ってベンチに座りながら読書をするのはぽかぽかと日が当たって気持ちがよかった。
行きがけにスターバックスで甘くて温かい飲み物を買ってから、公園に着くと、私はお決まりのベンチに座った。おかしいもので、こういう場所って何度も来てると座る場所が決まってきてしまう。
たとえば、噴水のところで一休みしているおじいさん。いつも散歩の途中であそこで一休みする。それに、私の斜め前に当たる位置のベンチでこちらと向かい合う形で座って絵を描いている人。この人も、いつもここでキャンパスを広げてる。あと、犬の散歩の人とかも、お決まりのルートがあるみたいだしね。
なんだか、ここにいる人達、殆ど顔見知りみたいになっちゃっているのに、お互いにいまだに知らない人の顔をしているのもおかしい。街中で見かけたとしても「あ」ってお互い気づくけど挨拶はしない、みたいな関係。お互いの存在は知っているのに、介入はしない。でも、それがとっても自然な気もする。
とにかく、私はベンチに座って本を広げる。この場所は、心が安らげる。
学校は賑やかで楽しいけど、心が安らぐ、とは違うと思う。本当ならば家がそういう場所になるんだろうけど、私の場合、そうも行かないから、ここは貴重な場所。
しばらく本を読でいたのだけど、なんだか視線を感じて私は目を上げた。
上げた瞬間、斜め前のベンチの絵を描いている人とバッチリ目が合ってしまった。うわぁ、気まずい。…でも、目が合ったって事は、向こうがこっちを見てたって事よね?
そう、怪訝に思って見ると、相手はすぐに目を逸らして、相変わらず鉛筆を走らせている。
私も、忘れる事にしてまた本に目を落としたんだけど、しばらくするとまた視線を感じて、目を上げると目が合う。そんな事が何度か続いて、とうとう耐え切れなくなった。
せっかくお気に入りの公園なのに。良い気分だったのが台無しだわ。
私が立ち上がると、相手は慌てたようだった。
そのまま帰ろうかとも思ったけど、やっぱり一言、言ってやろうかと思ってその人に近づく。視力があまり良くないから遠目にはよく見えなかったけど、近づくにつれて、私よりもいくつか年上の男の人だということが分かった。いかにも染めているだろう茶色い髪に、耳にはピアスが幾つか。でも、似合ってるし、なんだか清潔感があるから嫌な感じはしない人だ。ただ、とってつけたような黒ぶちのメガネがなんだかアンバランスで似合わない気がしたけど。
彼は私が近づくと、観念したように待っていた。やっと側まで行って、口を開こうとしたら、先を越された。
「悪い悪い。やっぱ失礼だったよな」
その声は、何の邪気もない、屈託のないような声に聞こえた。ナンパの類では絶対ないんだろうな、って思わせるような声。それに、この人、ナンパなんてする必要もないんじゃないかな、って思うし。
「アンタが結構面白い表情してるからさ、急に描きたくなっちゃって。こういう、人の表情って楽しいんだよ」
そう言って悪びれもしないで見せたスケッチブックには鉛筆で書かれた私がいた。
目を伏せて、なんだか辛そうな、憂鬱そうな顔をしているように見えるわ。そんな深刻な本読んでたつもりじゃないんだけどな。
私の表情を見て、彼はニヤリと笑う。
「不満ですか?」
「不満、じゃないけど…」
言い澱む私に彼は自分の座っているベンチの隣の席を指差した。
「ちょっと話さない?」
「何?ナンパですか?」
私の警戒する声にからからと笑う。
「アンタのこの表情についてちょっと、心理解析でもしてあげようと思っただけだよ。こういうのってなんか、見えてくるんだ」
それから、ベンチに座ったまま、上目遣いで意味深に私の顔を見つめて言う。
「アンタ、しんどくてたまらないって顔してるから、無断で描いたお詫びに人生相談でものってあげようかと思ったの」
その言葉に、私はカッとなる。なんで、名前も素性も知らないこの人にそんな事言われなきゃいけないんだろう。
「結構です」
言って踵を返そうとすると、背中から声がかかった。
「だってアンタ、何かに囚われてるだろ?」
私は不覚にも足を止めてしまった。
私を囚えているもの。あの家。血縁。この想い。
彼はしてやったり、という声で背中を向けたままの私に向かって言う。
「ビンゴか。…あんた描いてて、なんだかラプンツェルを思い出したよ。塔の中に囚われてる女の子でね。その塔にはドアがないから女の子は、自分だけの力じゃ絶対に抜け出せないんだ。俺がその話を読んだ時、この子はこんな表情してるんだろうなって想像してた顔と、あんたの今の顔、ソックリだよ」
なんなんだろう。この人。馬鹿げた話だとしか思えない。
こんな言葉、信用しちゃいけない。
だけど…。
私の想いは絶対に秘密のものだから。いつも自分の胸にしまいこんでおかなければいけない。それは、正直、かなりしんどい物だった。いつか、私の胸を食い破ってしまうんじゃないかと思うほど。私の名前も素性も知らない、この男に話したところで差し支えないのではないだろうか。
それに、このいけ好かない男を驚かせるのも面白そうだった。
私は振り返って男の隣に、1メートルほど空間を空けて座った。男が苦笑するのが分かる。
「で?」
彼はメガネを外しながら私の話を促す。どうも、このメガネは絵を描くためらしい。
「私が何かに囚われてるとしたら、それは想いだわ」
「想い?」
面倒くさそうに相槌を打ちながら、メガネの汚れを綺麗に拭き取りケースにしまう。自分から聞いといて、あまりにも誠意がなさ過ぎる。
「私、自分の兄が好きなのよ」
流石にそれには驚いたのか、少しの間。それから
「…へえ」
ってやめてよ、「へえボタン」押す真似。なんだか馬鹿にされてる気がするから。
それはともかく、彼は偉そうに足を組んで座りなおして言う。
「それで?」
「それで、って?それだけよ?」
「ふーん」
と、彼は頷く。
「それで禁断の恋に胸を焦がして悶えてるわけね」
「ちょっと、何その言い方」
さっきから、何よこの男。すごく感じが悪いわ。
彼は全然悪びれる様子もなくこう言う。
「違うの?じゃあ、その恋をどうしたいんだ?」
「殺したいのよ。殺したいけど、出来ないのよ。…いつも、理央の声を聞いちゃえば、そんな事吹っ飛ぶわ。ずっと、2人とも結婚したりしないで、一緒にいられたらって思っちゃう」
「それは、意思の弱い事で」
「何よっ!!…あなたなんかに」
「『私の気持ちなんてわからないわ』?」
言うつもりだった台詞を取られて、私は言葉に詰まる。話すんじゃなかった。
こんなに酷い言われ様するのなら。
「そういう考え方が、もうなんつーか、被害妄想みたいなもんだよな。そう言う事言うヤツは、他の人の気持ちだって分かりもしないんだ。…確かに、あんたは特殊な恋愛をしているかもしれない。だけど」
そこで、言葉を切って私の顔を覗き込む。
澄んだ目。
何でこの人、こんなに嫌な人なのにこんな目をしてるんだろう。
彼は、先ほどとは打って変わって、諭すような穏やかな声になる。
「怒りに感情任せないで、よく聞けよ?」
そう、忠告してから話す。
「アンタみたいに恋を殺す決意をする人は結構いると思うぞ?あんまり言いたくないんだが、俺の例だとなぁ」
少し、苦虫を噛み潰したような顔になって、それでも続ける。
「俺にはすっごい良い友達がいて、そいつの彼女に俺は惚れたんだ。今のアンタみたいに苦しくてしんどくてたまらなかった。だけど、意地でもこの恋を成就させようとするもんかって思ったんだ。胸に封じ込めて絶対外に出してはいけないって。…それは、何でかわかるか?」
「友達の彼女だからじゃないの?」
当たり前の事。私が答えると、彼は頷く。
「その通りだ。俺はヤツが本当に大切だし、これからも大切にしなければいけないと思っている。人によっては俺の行動を情けないとか腰抜けとか言うかもしれない。けど、でも、そんなんじゃない。俺がソレをしたらどれだけの人が傷ついてしまうか、どれだけの物を壊してしまうかを考えただけだ」
そうして、彼はまたもや私の顔を覗く。しっかりと目が合う。
私は、目を逸らした。
「俺は今だって胸が痛い。だけど、耐えようと思うし、耐えられている。だけど、別にアンタみたいに囚われたりしてない。胸が苦しくてもメシは上手いし楽しい事もちゃんと感じられるし、景色の綺麗なのも嬉しく思う。…アンタは?」
私は。
焼け付くような胸の痛みに気をとられてて。笑ってるときもなんだか空虚な感じがして。
あの部屋で、電話をしている時でさえ苦しい。
家に、理央に、囚われている。
「別に恋を殺すのを推奨しているわけではないし、アンタらは他の活路を見出すことも出来るかもしれない。だけど、アンタはこのままじゃ駄目だ。ラプンツェルみたいに塔に閉じこもって、脱出する手段も探そうともせずにどうせ脱出できないからと諦めてかかって、自分達の世界に閉じこもってちゃ駄目だよ」
私たちの世界。隣同士の部屋。壁を挟んでの会話。
「アンタは半分、禁断の恋に浸ってるだけだ。本気で叶えたいなら活路を探せよ。でなかったら切り捨てる覚悟をしろ。その前に、外に目を向けろ。自分達の殻に閉じこもるな。…まずは、公園での顔見知りに挨拶くらいしろよ。じいさんとか俺とか」
首をかしげる私に、彼は言う。
「外に目を向ける第一歩だろ。俺は大抵の人には挨拶してるぞ?挨拶するって結構、気持ち良いもんだ」
さて、と彼は立ち上がっておおきく伸び上がる。日の光が彼の茶色い髪に透けてキラキラと光る。
「説教したら腹へったな。…あんたの嫌いなナンパに該当するかもしれないけど、おごるからラーメンでも食いに行かないか?」
どうしてか、彼とこのまま別れる気にはなれなかった。彼の言葉をもう少し聞いてみたい。
そこから何か、ヒントが見つかるかもしれない。私の未来が。
私と、理央の未来が。
「おごりなら、行こうかな」
私の言葉に、彼は偉そうに頷いた。
奇跡なんて願うには、私はまだまだ甘すぎたらしい。
奇跡を願うならば、自分で精一杯出来る限りの手を尽くして、それでも出来なかった時。まだ、私には道は残されている。
だから、奇跡を願うのはまだまだお預け。