その1『携帯電話』
今日も部屋の電話が鳴る。
相手は勿論、分かっている。
私は電話を両手に抱えると、コードがめいいっぱいピンと張るのも構わずにそれを壁際まで運んで、壁を背もたれにして座り込んで、受話器を取る。
「もしもし?」
聴きなれた声が耳をくすぐる。毎度のことなのに、こんなにも嬉しくなる。
「もしもし?未央?今日も元気?」
優しい声。でも、ちゃんと男の人の声。
「元気よ。理央は?」
「元気だよ。学校は今日も変わりない?」
「変わりないといえば変わりないよ。でも、今日は数学で指されて答えられなくて恥ずかしかった。理央が教えてくれれば良いのにね」
私が言うと、苦笑する風が伝わってくる。
「そうだな。未央は理数系まるでダメだもんな」
「どうして一緒に生まれたのに、こうも違うのかなぁ」
私は拗ねた様な声を出して、もたれかかっている背中の壁をコツンと叩いた。
すぐに、壁の向こうからコツン、という軽い振動が伝わってきた。
「その代わり、未央は文系得意なんだから文句言うなよ」
「そうだけど……」
私が言いかけた時、背中の壁の向こう側で、理央が持たせかけていた体を持ち上げたのを感じた。
「あ、ごめん。未央。夕飯だ。……また後でかけるよ」
「うん。わかった」
がちゃん、と冷たい音が耳に響く。
この音は、嫌い。
本当はいつまでも話していたいのに。
私は立ち上がって電話機をまた、元通りに机の上に戻す。
ふと目を上げて、重い黒枠の窓の向こうに見える景色を見た。
薔薇などを植えている、そう広くないスペースの向こうに立つ、レンガの塀。それには少し蔦が絡まっていて、この屋敷を取り囲んでいるから、まるでおとぎ話の城に囚われた姫君の気分になってくる。
ただ、おとぎ話とは絶対に違う点は、王子様もお姫様同様にお城に囚われていることだ。
2人は一緒に囚われていて、一緒の場所にいるはずなのに、意地悪な魔女に絶対に逢わせてもらえない。
だから、お姫様と王子様の唯一の連絡手段は、ただ、各自の部屋にある電話のみ……。
そこまで考えて馬鹿くさくなって考えるのをやめた。
これじゃあ物語にならない。本当なら助けに来てくれるはずの王子様まで囚われているんじゃ。
暇なのだが、勉強をする気にもなれずに私はベッドに腰掛けて部屋にあるTVをつける。
この時間は確か、ドラマがやっている筈だ。学校でもけっこう流行っている。
しばらくそこまで興味を沸かないドラマを見ていたら、ドアがノックされた。
「なに?」
「お嬢様、お食事の時間です」
「わかった」
返事をして立ち上がる。
部屋を出てダイニングに行くと、母がテーブルに付いていた。
自身はもう、食事は終わったはずなのだが、わざわざ私にご相伴するためにいてくれているのだ。ありがたいことだ。
母と2人でテーブルに向かい、大した意味もない話をしながら食事をする。
母は、終始にこやかだったが、時々、探るような目で私を見てきた。
そんな視線には全く気づかないふりで私は食事を終えた。
食事が終わったらすぐに入浴して早々に部屋に入る。これがいつもの決まりだ。
少しでも乱れると家族みんなの予定が狂ってしまう。特に理央と私の。
部屋に戻ってしばらくしたらまた、電話が鳴った。
宿題の手を止め、急いで電話を壁際に持ち運ぶ。
これは、絶対家族には秘密のこと。
いや、家族じゃなくても、誰にも秘密のこと。
「理央?」
私の声に理央が笑う。
「未央、もし俺じゃなかったらどうするんだよ?」
「だって、こんなタイミング良くかけてくるのって理央だけだもの」
「でも、用心しなきゃだめだよ?母さんは、まだ、俺たちを疑ってるんだから」
その言葉に私は頷く。
頷いても見えるわけではないのだけど、つい。
でも、それだけで理央には伝わるらしい。
苦笑交じりに、「それで」と話を続けた。
「明日は数学ないの?」
「あるわ」
「わからない問題は?」
「……ある」
私の言葉に理央がまた苦笑するのがわかった。
「じゃあ、読み上げてみろよ。言葉で伝えられる範囲で教えてあげるから」
「ほんと?嬉しい」
私は急いで机から教科書とシャープペンシルを取って戻ってくる。
「じゃあね、四角ABCDの1辺は……」
問題を話す間の理央の真剣な表情を思い浮かべてしまう。
長い間、ずっと仲良しで、ずっと一番側で育ったのだから、そんなことは朝飯前だ。
でも、もしかしたら会えないここ数年でだいぶ大人びてしまったかもしれないけど。
「……だよ?わかった?未央」
「うん。ありがと」
言うと、コンコンと壁から振動が伝わる。
私も、微笑んでコンコン、と壁を叩く。
「理央、明日は朝練だっけ?」
「うん」
「そう。ならもう切らなきゃね」
「……うん」
理央の残念そうな声が少し嬉しい。
「じゃあ、おやすみ理央」
「おやすみ、未央」
コンコン。
少し勉強をして、それからベッドに入った。
明日の朝も、理央に会うことはない。
私達はここ数年、同じ家に住んでいながら一度も会っていない。
元々、私と理央は双子で、すごく仲が良かった。
幼少時はそれを微笑ましく思っていた母も、私達が成長するにつれてそれを不安に思うようになっていった。
いつも、2人。お互いだけいればそれで良いというような親密さは、母の目にはいくら双子とはいえ異常に映ったのだろう。
段々と、母は恐れるようになっていた。
私たちがお互いに特別な感情を抱いているのではないかと。
それは、全く事実無根のことだったのだけど。
そう、まだその頃は、私たちは本当に、ただ気の会う姉弟なだけだったのだ。
ただ、母はそうは思わなかった。
母は段々と私達を引き離しにかかった。
理央は電車で2時間もかかる遠い男子中学校を受験させられた。
私は地元の私立。自転車で15分で行ける。
それで、朝と帰りは顔を合わせることがなくなった。
それでも、私はなんとなくリビングでTVを見たりして理央が帰ってくるまでダラダラしていて、理央も帰ってきてからそこで私と話していくのが習慣のようになった。
そうすると、母は今度は私達の各部屋にTVを入れてくれた。
これで、リビングにいる口実がなくなった。
私は今度は理央が帰ってくる頃を見計らって友人とリビングで電話をすることにした。そうして理央が帰ってくると電話を切ってついでのように話をするのだ。すると、今度は母は各部屋に電話を繋いでくれた。もう、ここまでされたら今までも薄々と気づいてはいたが、母の意図は明白だった。
母はお互いを差別することはなく、どちらも平等に扱ってくれたけど、お互いが一緒にいるのは良しとはしなかった。
私たちは、これ以上母を刺激しないためにも、これ以上条件を厳しくしないためにも、母の意図に従うしかなかった。
朝、早くにかけておいた目覚ましが鳴った。
私は急いで飛び起きて、パジャマのまま窓に駆け寄る。早朝なので、素足が少し冷たい。
少し待つと、すぐに、窓から見える塀の向こうに学生服の理央の姿が現れた。
このひと時だけが、私が理央を目にすることの出来る唯一の機会なのだ。
遠くからなので、そんなにはっきりとは見えないが、それでも理央が成長しているのが分かる。この時期の男の子はなんて成長が早いのだろう。もう、会えなくなった頃の声の高い、私と同じくらいの背丈の少年ではない。
理央はすらりとしていて、なんだか大人びていて、クラスの男子達とはなんだか違う感じに見える。それとも、理央も教室に入ったら彼らのように馬鹿みたいに大はしゃぎしているのだろうか。それを想像すると、少し笑えた。
理央が少し、こちらを見上げる。そして、軽く手を上げた。
私も手を上げる。
『行ってきます』
『行ってらっしゃい』
決して言葉にしては言えないけど。
理央が見えなくなると、私は目覚ましを掛けなおして、またベッドに潜り込んだ。
そして今夜もまた、電話のベルが鳴る。
私は壁にもたれて受話器を取る。
「もしもし、理央」
私達、一体いつまでこんな関係を続けているんだろうね?
お互い、もう、母の懸念はただの懸念では済まなくなってしまったのを知っている。
お互い、分かっていてそれでも言葉に出せない。それは超えてしまうにはあまりに恐ろしい一線。
時々、思う。
私達は会えないからそこそ、こういう気持ちを抱いてしまったのではないだろうか?
いつも側にいて、それでいて絶対に顔を合わせることの出来ない歪んだ家族の形。そんなものが私と理央の感情さえも歪めてしまったのではないだろうか?
今更そんなことを考えてもしょうがないのだけど。
私達は、こうしてこの想いを胸のうちに隠したまま、こうして今日も電話をする。
唯一の、コミュニケーション手段。
「ねえ、未央」
理央の声が不機嫌そうだ。
「どうしたの?」
「今日さ、中学の時の卒アル、学校に持ってったらさ、指田ってヤツがお前を気に入ったんで紹介してくれって言ってきたんだけど」
卒業アルバム?なんでまたそんなものを。
どうせ面白半分で見せ合いをしたんだろうけど。
呆れていると理央の不機嫌そうなままの声が続ける。
「断ったけど、いいよな?」
不機嫌さと、そして不安が混じった声だ。
私は、思わず苦笑する。
きっと、私は理央がいる限り、どうしようもないと思いながらも、この蔦絡まる屋敷から出ることはできないだろう。
こんな気持ちを持て余しながら、それでも理央から離れることなどとてもできない。
「いいよ」
言うと、理央のホッとした感じが伝わってきた。
私は背中の壁をコンコン、と叩く。
待ちかねたようにコンコン、と返事が返ってきた。