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「う……」
「気がつきましたか?」
ぼんやりした意識で目を開けると居間の天井が見えた。
仄かに涼しい風が送られてくる。
顔を上げると琴音さんがうちわで僕を扇いでくれていた。
「えっと……」
どうして僕はのぼせているんだっけ?
記憶を辿ると湯船で動けなくなったのを思い出した。
「目が覚めましたか?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……なんか凄い効果音が聞こえるような気がした。
青い顔をしたルードと麻奈が柱の影に隠れてこちらを見ている。
効果音のするほうへ目を向けられない。
「まさか覗きをするとは思いませんでしたよ」
誓子さんが絶対零度の目で僕を蔑む。
声が怖い! 今すぐ逃げ出したい!
「ち、違うんだ!」
「何が違うのです?」
うわ! 桜花さんの顔が怖くて直視できないものになっている!
「どう言い訳しようと貴方が浴槽に入っていた事実は変わりませんよ?」
「は、話を聞いてくれ! 僕は――」
「いいえ聞きません!」
バッサリと僕の言い分を聞かずに誓子さんは切り捨てる。
「少しは信用しようと思っていたのが間違いでした。口も聞きたくありません!」
誓子さんは僕に背を向けて歩き出す。
「所詮はスライムですね。脆弱でその癖、頭の中は煩悩で一杯。暗い所を好み他者は利用するしか考えていない。弱いのなら努力して強くなれば良いのにそれさえ放棄する。挙句の果てに覗き、最低です」
「お、おい、誓子?」
桜花さんが怒り狂う誓子さんを見て眉を寄せる。
「いくら何でも期待しすぎでは?」
「何をキョトンとしているのですか桜花? このスライムはルード様の命の危機に風呂でのぼせていたのですよ。早急に警護から外すべき、いえ追放するのが一番の手段です!」
麻奈に視線を合わせると、どうも僕が風呂で溶けている間に勇者志望の襲撃が我が家に来ていたらしいのだ。
「だが、居ないとこのような騒動に――」
「もしや……ルード様を敵に売ったのですか!?」
「い、いや。それは知らな――」
あまりにもタイミングが悪い。これでは言い訳の仕様が無い。
「出て行きなさい!」
「落ち着け誓子――」
△
「あれ?」
気がついたとき、僕は家の門の前でスライムの姿のまま放り出されていた。
そういえば今夜は満月、満月は魔物を本来の姿に変えてしまう力が溢れる。
こんな夜、僕は一歩も外に出ることは無い。
だってスライムの姿になってしまうから。
服を括り付けた棒だけが今の僕の所持品となってしまっている。
これは……すぐには家に帰れそうに無いなぁ……。
家の中からルードと怒り狂う誓子さんと宥める桜花さんの声が聞こえてくる。
桜花さんは最初、僕に怒ろうとしていたのだけど誓子さんの怒りに擁護側に回ってしまった。
怒りが収まるまで、どこかで時間を潰すしかなさそうだ……。
ズル……ズル……う、体が溶けていてうまく動けない。
難儀だ……お湯に弱いスライムの体は。
僕はスライム姿でお風呂に入るのが苦手なのだ。溶けてしまうから。
ちなみに下水に流された事も経験している……その時は下水管から抜け出して事なきを得た。
むしろ追い炊き状態のお風呂に放置されるのが一番きつい。
……僕は重い体に鞭を打って、出かけた。
△
級友の家に泊めてくれと頼みに行くにも、僕がスライムだと公言するようで行き難い。
魔物化している人々が目に付くスーパーを横切り、公園のベンチで僕は月を見ていた。
のぼせた体では一歩進むのにも億劫で、とりあえず冷さねばと夜風に当たっている。
水道の蛇口を捻るにも、もう少し体が冷えないと力が入らない。
うーん……どこかのネット喫茶辺りで夜を明かすのが無難かなぁ。
問題は身分証明が出来る品を置いてきてしまった所だ。
まあ……一晩位、過ごすのはそんな厳しくは無いけどね。
魔王領の部隊に居た頃は当たり前だった訳だし……今でも時々キャンプに行ったりもするからさ。
「こんな所にいました」
「え?」
聞き覚えのある声に振り返ると琴音さんがいました。
どうしたの? と、尋ねる前に理由はなんとなく察しがつく。
優しい彼女の事だから迎えに来ただろう。
だけど、こんな夜に琴音さんのような美少女が出歩いていたら色々と危険な事だってあるだろうに。
筋肉馬鹿の麻奈とかに頼めば良いものを。
「誓子さん達はどう?」
僕の問いに琴音さんは首を横に振る。
相当怒っていたからなぁ……。
「だろうね……」
「ルードさんが明日には家に入れるようにしておくからと言ってました」
「そうだとありがたいなぁ……」
とにかく、どうしようか……琴音さんには帰ってもらえば問題ない。
「あーら? こんな所で見覚えのあるスライムを見つけたわ」
すっごく……馬鹿にした声音が僕に耳に聞こえてきた。スライムに耳は無いけど。
「懐かしいねぇ。何年ぶりかしら」
「えーっと……」
右目に眼帯を付けた高校生位の女の子。
昔はあんな眼帯をつけてはいなかったけれど、それでも美人の方に入るだろう。
髪はウェーブが掛かり、肌の色は白、一目で良い血筋の生まれだとは大抵の奴が理解できるが何故かビキニアーマーという時代錯誤の衣装を着ている。
色っぽいと言えば確かにそうなのだろうが、安っぽいと表現する方が正しい気がする。
名前はなんだっけ?
確か……ラーなんとか。スライムが生き辛いというのを拷問を持って教えてくれた知り合いだ。
奴と、奴の取り巻きを見て琴音さんが殺気を出す。
僕も出来る限り戦おうと重い体を起こした。
「ま、アンタと次期魔王がどういった関係なのか良く知らないけど、人質になってもらいましょうか?」
「いやぁ、僕を人質にして呼び出すのは無理だと思うけどなぁ」
僕とルードとでは天秤に掛けるのすら間違っている。
桜花さんも誓子さんも鼻で笑うに決まっているだろう。
「させません!」
琴音さんがラーなんとかから僕を守るように前に出る。
「お穣ちゃん、アンタ一人でこれだけの戦士達を相手に戦うって言うの?」
ラーなんとかは笑いを堪えるように琴音さんに問う。
僕達を囲むようにラーなんとかと取り巻きの勇者志望達は各々の武器を向ける。
「はい。今度は私が幸長くんを守って見せます!」
「な、何を……それよりも早く琴音さんは逃げて――」
く……湯辺りした体が重たい。
「ついでに連れてけば良い人質になるだろうさ、お前達、やっちまいな!」
「琴音さん!」
僕の声に琴音さんは振り返り、優しく笑う。
「貴方達は本当に愚かです。日本でも有名な話ですよ」
満月の日には魔物達の血が騒ぎ、人間の犯罪が減るというのが世界各地で通例となっている。
それはなぜか?
元より魔物達の犯罪が活性化するのが原因であるのだが、人間が魔物に返り討ちに会うからである。
とある痴漢が満月の日だけは避けて犯行に及んだというのは有名だ。
夜の一人歩きをする女性に返り討ちに会う。
よくよく考えてみれば麻奈だけで僕を探さなかったのはこういった理由があったからだ。
バキンと何かが割れるような音が聞こえた。
それは琴音さんに振るった勇者志望の剣が折れる音だ。
戦闘状態に入った琴音さんの背中には蝙蝠の羽が生えている。ただそれだけだというのに見えない壁のような物が剣をへし折っていた。
琴音さんは右手を軽く横に凪いだ。
地面が抉れて勇者志望たちがまるで紙くずのように宙へ舞う。
「グハ!」
「ば、馬鹿な……」
静かに佇む琴音さんだけど、辺りに振りまくプレッシャーは並の物ではない。
「へ、何の魔物か知らないが、前線に出た事のある俺たちに敵うわけがねえ!」
オーラを展開する勇者志望達、かなりの熟練者が混じっている模様だ。
「馬鹿ですね……その程度で私に勝てるとお思いで?」
立ち上る魔力の渦に僕は全身から何かが溢れてくるのを感じた。
琴音さんから見えない何かが出てきて僕を守っている。
「お前達、獲物はスライムだ。最優先で確保しなさい!」
さすがはラーなんとか、状況をいち早く察して目的である僕に狙いを定めた。
だけど一つ間違っている。
今の琴音さんに勝つ手段が無いのなら逃げるが、もっとも正しい選択であると。
「うりゃあああぁああああああああ!」
僕に向けて動きの早い者が走ってくる。しかしその進みは琴音さんの……実体化していない尻尾で叩き落とされた。
「へぐう!」
「遅いです!」
固まっていた勇者志望の真ん中に向けて琴音さんは右手を振り下ろした。
その衝撃で地響きが起こる。
「ば、馬鹿な……」
辛うじて勇者志望達は琴音さんの攻撃を避け切る。しかし公園に刻まれた琴音さんの右手の跡に絶句する。
そこには2メートルに及ぶ巨大な爬虫類を連想する足跡が刻まれていたのだ。
羽の生えた巨大な爬虫類から、この魔物を連想出来ない勇者志望は存在しない。
「行きます」
「て、撤退!」
まだ変化の途中である琴音さんは本気を出し切れていない。それでも中途半端な勇者志望は自分達が敵わない相手と相対しているのを理解したのだろう。
「この屈辱は絶対に返すわよ! 雑魚のスライムが!」
ラーなんとかがそう吐き捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「逃がしません!」
羽を大きく広げた琴音さんが飛び立つ直前、咄嗟に僕は琴音さんを呼び止める。
「琴音さん待った!」
「はい!?」
「深追いは危険だ。幾ら琴音さんだって罠に掛けられる可能性がある」
「ですが」
僕が説明すると琴音さんはハッとなってラーなんとかが逃げた方角を睨む。
「とにかく、幸長くんも狙われる立場なのですから絶対に一人にしませんからね」
「わ、分かったよ」
琴音さんはクスリと笑ったかと思うと、安心したように胸を撫で下ろす。
「やっと、恩返しが出来ました」
「恩返し?」
「はい、私は昔……本当に小さな頃に幸長くんに助けてもらった事があるんですよ?」
「え?」
「幸長くんと初めて会ったのは勇者軍が魔王領の城下町を襲撃している時です。あの頃の私は今とは雲泥の差の小柄なドラゴンでした」
「という事は……」
「はい、あのときのドラゴンなんですよ」
△
僕の記憶の中では小さなドラゴン。それが琴音さんと結びつく要素が殆ど無いに等しかった。本人に言われても実感は無い。
「あの時はありがとうございました。幸長くんが助けてくれなかったら今の私は存在しません」
「いや……アレは任務だったわけだし、当たり前の事をしただけだよ」
「それでも、私は幸長くんに助けてもらった事実は変わりません」
琴音さんは瞳を輝かせて僕にお礼を言う。
今更感謝されるというのも照れくさいなぁ。
あの後が凄く大変だった。なんせその後直ぐに僕は魔王領から日本に来たわけだし。
初めて魔王領から出て人間の姿になった。
琴音さんと別れた僕は魔王様を守る為に出撃した隊長の命令を受けて魔王の息子を救いに行った。
増援が来るまでの間、僕は必死に相手に喰らい付いて時間を稼ぎ、魔王の息子の安全を確認してから隊長と合流。
それから勇者と戦う魔王様との戦いに参加し、勇者の必殺技を受けて死に掛けた。
魔王様のお陰でどうにか助かったのだけど、どうもそこで僕がただの魔物じゃないというのを魔王様が気づいたのが魔王領での生活の終わり。
「懐かしいなぁ……」
みんな今頃何をしているのかな。満月に目を向けて異国の戦友に思いを馳せる。
ふと、気づく。
「よく僕だって分かったね」
琴音さんも記憶力が良い。
類稀なほど早熟な僕と比べて琴音さんはあの頃、10年前だから5歳だったはずなのに。
「幸長くんが転校してきて直ぐに分かりました」
小学生の時に僕はちょっとした問題を起こして琴音さんがいる学校に転校した。
「え、そうだったの?」
「はい。声だけで分かりましたよ」
琴音さんは僕を抱き寄せる。
ドクン……やば、琴音さんの顔が眩しくて見えない。
僕はスライムだ。そして琴音さんはルードの婚約者なのに……。
落ち着け……落ち着くんだ僕。
「と、とりあえずどうしようか」
家にはまだ帰れそうに無い。泊まるあても無い僕はどうすればいいのだろう。
妙な所で野宿をすると奴らがまた襲ってきそう。
「泊まる場所が無くて困っているのですよね?」
「あ、うん」
「では私の家に来てください。もう準備は出来ているので、お母さんもいますから大丈夫です」
「はい?」
なぜか僕は琴音さんの家に厄介になる事になってしまった。
△
移動の前に僕は琴音さんに頼んで公園にある水飲み場の蛇口を捻ってもらう。
まだ体が安定しておらず、うまく動けない。おまけに琴音さんが僕を抱き抱えようとしてくれたのだけど、腕の中で蕩けて滑り落ちてしまうので体を冷まそうとしているのだ。
「本当に水を掛けて良いのですか?」
「うん。お願い」
ジャー……水が火照った僕の体に降り注ぎ、スッキリとした感覚の元、体が安定していく。
「ふぅ……」
プルプルと満遍なく火照った部分に水を当てる僕を琴音さんはクスリと笑った。
「どうしたの?」
「いえ、幸長くんが何か可愛らしく見えてしまいまして」
「うー……」
だからお湯は苦手なんだ。こうして体を冷さないと思うように動けなくなるし、琴音さんには笑われる。
しかも放熱が遅くてしばらく動けなくなる。
可愛いって言われても嬉しくないよー……。
と、しばらくして琴音さんは蛇口を元に戻した。
「これくらい冷えれば大丈夫、かな?」
失った体力は回復していないが、体のとろみは無くなった。
「それでは行きましょう」
さも当然のように僕を抱えて歩き出す琴音さん。一応、僕は男なんだから恥ずかしいのだけどなぁ。
公園を出た所で麻奈が走りよってきた。
「幸長が見つかったのだ?」
「はい」
それから琴音さんは公園で襲われた事を麻奈に説明した。
「とりあえず大事が無くて良かったのだ。じゃあ予定通り琴音の家に行くのだ」
「はい。麻奈さんも一緒ですね」
「なのだ!」
「ちょ!」
おいおい、エンシェントドラゴンの家に竜殺しがお邪魔するの!?
幾らなんでも問題ない?
「どうかしました?」
「ぬ?」
当人の琴音さんは元より麻奈も何かおかしい所でもあるのかという顔をしている。
「いや、なんでもないよ」
まあ……問題が無いのならいいけど。
琴音さんの家に到着するなり麻奈が虐殺を開始、なんて事がありそうで怖い。
そうして琴音さんに抱えられたまま僕は琴音さんの家に到着した。
「狭い家ですがゆっくりしていってくださいね」
高級住宅街の一等地にある。大きな庭付きの一戸建てが琴音さんの家だった。
赤い屋根のなんていうか幸せ家族が住んでいそうな家、確かに琴音さんの家だと言われたら納得できる。
洞窟や遺跡のような家を想像するのはさすがにどうかと僕自身も思ったけどね。
「小さい家なのだ」
「お父さんがこの家が良いって買った家なんですよ。本当はもっと大きな屋敷もあるってお母さんが言ってました」
「へ、へぇ……」
つまり別宅が存在するわけか、さすがは次期王妃の家。財力もあるのは最低ラインだよね。
「麻奈の実家は山で道場を開いているのだ」
「平賀道場かぁ……小さい頃に行ったきりだなぁ。すっごい山奥にあるんだよ」
ずいぶんと昔、麻奈と初めて会ったのが麻奈の家だったのは覚えている。
「すごいですねぇ」
「でも麻奈は家には帰れないのだ」
「幸長くんから聞きましたよ。大変ですね」
「そうなのだ」
結構危ない橋を渡っている! 琴音さん。くれぐれも言葉には気をつけて。
と、冷や汗を流していると琴音さんの家の扉が開いた。
家の中から琴音さんをそのまま大人にしたような綺麗な女の人が出てきてこちらに手を振っている。
「琴音ー」
「あ、お母さん。ただいまー!」
なるほど確かに琴音さんのお母さんだと言われれば納得の外見だ。
なんていうか、琴音さんよりものんびりしてそうな顔をしているなぁ。
「貴方が幸長くんね。ゆっくりして行ってくださいね」
「は、はぁ……よろしくお願いします」
「貴女が平賀麻奈さんね」
「そうなのだ」
琴音さんのお母さんと言うことはドラゴンである確率が高いわけだけど……大丈夫だろうか。
「うふふ、琴音がこれくらいやんちゃに育ってくれたら楽しそうなのに」
「えっへんなのだ」
「え?」
陽だまりのような笑みで琴音さんのお母さんは麻奈との挨拶を終えた。
琴音さんは苦笑いを浮かべている。手の焼きそうな子供が好きなのかな?
「お父さんは?」
琴音さんがキョロキョロと辺りと家の中に視線を向ける。
「大丈夫よ。せっかく琴音がお友達を連れてくるのにお父さんが居たら迷惑でしょ」
どうやら琴音さんのお父さんはいらっしゃらないようすだ。
別に何も負い目になるような要素は無いけれど、どうも顔を合わせたくない。
「ちょっと……空の果てへ出張してもらったから」
「そうなんだーじゃあ安心ですね」
「おじゃましますなのだー!」
「ゆっくりしていってくださいね」
「すごく不気味な理由で琴音さんのお父さんが留守じゃない!?」
「何言ってるんですか幸長くん。何もおかしい所はありませんよーお父さんがちょうど出張に行ってるだけですよ」
何だろう、僕はまだ見ぬ琴音さんのお父さんがとても心配になった。
「どうしたのだ? 早く琴音の家でゆっくりするのだ」
「そうですよ幸長くん。私のお父さんを気にしなくても良いですよ」
なんだか触れてはいけない話題のようで、僕はこれ以上追及することは出来なかった。