婚約者と親友に裏切られたので、第二王子の針子になりました
「ごめんなさい、アリシア。許してちょうだい。私……レオンを愛してしまったの」
親友マリアの声が、婚約者レオンの実家である伯爵邸のサロンに落ちた。
マリアの華奢な肩は小さく震えている。
「マリア。泣かないでくれ」
その姿に庇護欲を煽られたらしく、婚約者レオンが――いや、正しくは『つい先ほどまで私の婚約者だった』レオンが、マリアの肩を優しく抱き寄せた。
「……僕も、マリアを愛している。アリシア、君には申し訳ないと思っているが……自分の心に嘘はつけない」
マリアを抱いたまま、レオンは睫毛を伏せ、演技じみた仕草でフルフルと首を振った。
「ああ、レオン……」
マリアは美しいエメラルドの瞳に涙をいっぱいに浮かべてレオンを抱き返している。
この二人の姿をそっくりそのまま模写することができれば『愛し合う二人』というタイトルの名画ができそうだった。
(………………何この茶番?)
ヒュウ……と、音を立てて、私の心に冷たい隙間風が吹き抜けていく。
レオンから珍しく呼び出され、手作りクッキーを携えていそいそと訪ねてみれば、待ち受けていたのは親友(だった女)と抱き合う姿。
走馬灯のように脳裏によみがえったのは、幼い頃、陽光が降り注ぐ庭園を三人で走り回った日のこと。三人で風に舞う花びらを追いかけたこともあったし、花冠を贈り合ったこともあった。
十二歳の秋の収穫祭で、レオンは「君が好きだよ」と耳元で囁いてくれた。大人になったら誓いを交わそうと言ってくれた。十五歳の時、正式に彼の婚約者に選ばれたときは、涙を流して喜んだものだ。
――しかし、それも全ては過去の話。
この二人は、私の胸の中にあった温かな思い出を木っ端みじんに打ち砕いてくれた。
(ここ数か月、レオンは私の誘いを断ってばかりだったけれど。マリアとの浮気で忙しかったというわけね……)
「……そう。わかったわ」
口から出てきた声は、自分でも驚くほど冷ややかだった。
マリアの肩がビクリと震えた。
私が怒っていて、平手打ちでもされるとでも思ったのだろうか。
(まさか。そんなことするわけないじゃない。というか、怒る価値もないわ)
信じていた二人が陰でコソコソと絆を深めていたと知った瞬間、長年育んできたはずの愛着も情も、一瞬で跡形もなく吹き飛んで消えた。
こんな不誠実な人たちに、心を砕く意味などない。
「もっと早く言ってくれれば良かったのに。私、いつでも身を引いたわよ?」
私は両手を胸の前で合わせ、ニッコリと笑った。
「どうぞマリアとお幸せに。一応言っておくけれど、結婚式の参加は遠慮させてもらうわ。もう二度と、金輪際、あなたたちの顔を見たくないから。それじゃあね」
くるりとドレスの裾を翻し、部屋を出ようとする私に、レオンが慌てたように叫んだ。
「ま、待てアリシア! なんだその態度は! 金輪際って――本当にそれでいいのか!? 君は僕をあんなに愛してくれていたはずだろう!?」
戸惑いを隠せない様子のレオンに、私は足を止め、首だけで振り返った。
「ええ。でも、親友に手を出すような男に執着するほど、私は暇でも愚かでもないの。今までありがとう。さようなら」
極上の笑顔で言い捨て、私はサロンを後にした。
婚約破棄から数ヶ月後。私は王宮の夜会に顔を出していた。
両親から『そろそろ家に引きこもるのは止めて、新しい婚約者候補を探してきなさい』と厳しく言い渡され、仕方なく参加した夜会だった。
私自身はもう二度と恋なんてする気もなく、誰かと結婚するくらいなら一日中部屋に引きこもって趣味の刺繍に没頭していたいのが本音だ。
だからこそ、適当に壁際に佇んで時が過ぎるのを待つつもりでいた。
身に纏っているのは、夜空を切り取ったような深い紺色のドレス。
袖口から肘にかけて銀糸で細やかな植物模様を縫い込んだ、お気に入りの一着だ。
「……ねえ、ご覧になって。あのドレス」
壁際に並べられた椅子の一つに座って葡萄酒をちびちび飲んでいると、女性の囁き声が聞こえた。
「銀糸が光を反射して、星屑のようにキラキラと輝いて……なんとも美しいわ」
「ええ。どこの名工房で誂えたのかしら? 王都の名匠でもそうそう作れないわよ」
会場のあちこちから漏れ聞こえるのは、婚約破棄された令嬢に対する嘲笑ではなく、興味と感嘆が混ざった声だった。
着飾った女性たちだけではなく、男性たちもチラチラと私を見ている。
きっと目が合えば声をかけられ、ダンスに誘われることになるだろう。互いに結婚相手に相応しいかどうか、品定めが始まるというわけだ。
(結婚なんてしたくないわ。もう恋なんてこりごりだっていうのに……)
「――君」
うつむいていると、低く透明感のある声がかけられた。
顔を上げると、そこに立っていたのは第二王子クロード殿下だった。月光を溶かし込んだような金髪に、鋭い翡翠の瞳。
「これはこれは……クロード殿下」
慌てて立ち上がり、カーテシーを行おうとすると、手を上げて止められた。
「かしこまらずとも良い。君に聞きたいことがあるんだ。そのドレスはどこの工房が作った?」
「あ、いえ。工房ではなく、私自身が仕立てたものでございます」
「なんと。腕を少し動かしてみてくれ」
「はい」
言われるままに腕を上げると、殿下の瞳に感銘の光が灯った。
「ほう。腕を曲げた時、布の引きつれに合わせて銀糸の蔓が伸び、花が咲くように計算されている。ただの飾り刺繍ではない。実に良い仕立てだ」
私だけのこだわりに気づいてくれたことに、思わず笑みがこぼれる。
布の可動域と刺繍の密度を計算し、動いた時に初めて完成するよう設計した工夫を、このお方は一瞬で見抜いた。
「腕を動かした時に、花が揺れて見えるように工夫いたしましたの」
「素晴らしいな」
クロード殿下は心底楽しそうに口元を緩めた。
「君、僕の針子にならないか?」
「えっ。針子ですか?」
「そうだ。お抱えの針子は腐るほどいるが、僕が求めているのは型通りの豪華な服を作る人間ではない。僕がどう動き、どう魅せたいのかを理解し、それを服という形に昇華できる人間だ。君ならできるだろう?」
「……!」
期待に満ちた眼差しで見つめられて、胸が震えた。
(願ってもない話だわ! 殿下の針子になれれば誰とも結婚せず、堂々と王宮で大好きな刺繍と裁縫に没頭できる!)
「喜んでお受けいたしますわ、殿下!」
私は満面の笑みで深く頷いた。
翌日から、私の世界は活力に満ち溢れた。
王宮の一角に与えられた仕立て室で、最高級の布地に囲まれながら、私は夢中で型紙を引き、針を刺した。両親にも「王室にお仕えすることになりましたので」と報告し、結婚の催促もかわすことができた。
「殿下、次の観兵式の服ですが、馬に乗る際にも腿が突っ張らないよう可動域に工夫を入れましたわ。裾も歩行の邪魔にならないよう調整してあります」
「……完璧だな、アリシア。全く動きに負担がない」
仕立て上がった服を着た殿下が嬉しそうに頷くたび、私は誇らしさと達成感でいっぱいになった。
――私を裏切った元婚約者たちのことも、親から向けられる縁談の重圧も、全ては過去の話。
慣れ親しんだ針と糸を手に、私は今日も笑顔で新しい型紙に向き合っている。
〈了〉




