淡雪
師走の末、北山の裾野に踏み迷ったのは、偶然とも宿縁ともつかぬことであった。
清隆が供の者を都に残したのは、ほんの気まぐれからである。縁談の話が持ち上がってよりこのかた、屋敷の中が妙に息苦しく感じられ、一人馬を駆って北の方角へ向かった。行き先を決めぬまま、ただ都の空気から離れたかった。それだけのことであった。
雪が降り始めたのは、日が傾きかけた頃合いである。はじめは細かい粉のように舞っていたものが、気づけば辺りを白く塗り潰していた。杉の梢から雪が滑り落ちるたびに、森全体がかすかに揺れるような気がした。その白さの中に、人の影を見た。
――人か。
清隆は思わず手綱を引いた。女が立っている。木々の間に。まるではじめからそこに在ったかのように。白い狩衣のような衣をまとい、長い黒髪だけが雪の中に色として存在していた。不思議であった。こんな山中に、供もなく立っているとは。しかし不思議よりも先に、清隆の胸に来たものは別のことである。その女が、少しも寒そうでないということであった。雪が肩に積もっても払わず、ただ遠い空を仰いでいる。その佇まいに、人の世の匂いがなかった。
「……そこにおわすは」清隆が声をかけると、女はゆっくりとこちらを向いた。顔が白い。雪そのもののように白く、しかし冷たくはなかった。目が静かで、驚きも怯えもなく、ただ清隆を見ていた。見ているというより、映しているようであった。
「お迷いになりましたか」女が言った。声は低くも高くもなく、しかし耳の奥に残る種類の声であった。
「左様……少し、道を見失った」
「この先は、人の踏み入る山ではございません」それだけ言うと、女は踵を返した。清隆はなぜか馬を降りていた。自分でも気づかぬうちに。
「名を、聞いてもよいか」
女が、ほんのわずかだけ振り向いた。
「雪乃と申します」
それが清隆と雪乃の、最初の言葉であった。
その後も清隆は北山へ向かった。月に一度、二度と、やがて数えることをやめた。雪乃はいつも同じ場所に在った。あるときは雪の降る中、あるときは曇り空の下、しかし必ず清隆が来る前からそこに立っていた。待っているのか、ただそこに在るのか、清隆には分からなかったし、問う気にもならなかった。ふたりは多くを語らなかった。清隆が詠んだ歌に、雪乃が返した。それだけのことである。
——降り積もる 白きに紛れ 消えやせん それとも春を 待ちわぶるらん
清隆がそう詠むと、雪乃は少し間を置いてから、
——春など知らぬ 身でありながら 消えもせず ただ在るのみの 淡雪かな
と返した。
歌を詠みながら、清隆は思った。この女は詠むのではなく、告げているのだと。歌の形を借りながら、自分の性質を言い置いている。消えない。しかし残ることもできない、そういうものなのだと。
清隆は雪乃が妖であることを、どこかで知っていた。知っていながら問わなかった。問えば何かが変わる気がした。変えたくなかったのかもしれないし、変えることが怖かったのかもしれない。そのどちらかを選ぶことも、清隆は避けた。
雪乃はときどき、人間のように見えた。清隆が詠んだ歌に小さく笑うとき。梢の雪が落ちて、驚いて空を見上げるとき。そういう瞬間だけ、ひどく人に近く見えた。しかしすぐに、元の遠さへ戻っていった。その遠さが、清隆には心地よかった。都の誰も、これほど静かではなかったから。
縁談の話が固まったのは、梅の頃である。相手は右大臣家の娘で、聡明な姫君であるという評判であった。清隆が初めて対面したのは、几帳越しのことであったが、その気配だけで充分であった。気品というよりは、揺るがなさ、と言う方が近い。衣の香も声も、何もかもが整いすぎていて、乱れる余地がなかった。
「清隆様には、いずれ左近の将監のお役目もと、父が申しておりました」姫君はそれだけ言った。感情のない声ではなかった。しかし感情を置く場所がない声であった。清隆は曖昧に応えた。断れなかった。断る理由を、言葉にできなかった。几帳の向こうで、姫君がわずかに間を置いた。
「……北山は、この頃も雪が深うございましょうね」
しばしの間の後、姫君は静かに続けた。
——散る花を とどめもやらぬ 春の風 行方知られぬ 人の心は
「冷える折、どうか御身をお厭いなく」
それだけであった。それ以上は言わなかった。咎めるでも、問い詰めるでもなく、ただそれだけを置いた。清隆は答えなかった。答えられなかった。姫君が何を知っているのか、あるいは何も知らずにただ言っただけなのか、確かめる術がなかった。確かめたくもなかった。
沈黙が落ちた。その沈黙の重さが、清隆には応えた。責められる方が、まだ楽だったかもしれない。
翌日、屋敷に叔父が訪ねてきた。五十を過ぎた、太った男である。声が大きく、都の噂に明るく、そのくせいつも親族の利のことしか考えていない。清隆はこの叔父が子供の頃から苦手であった。
「清隆よ、右大臣殿との縁は千載一遇の機ぞ。おまえが近頃、北山の方角へ頻繁に出かけておるのは聞いておる。あのあたりには、人ならぬものが棲むと言うぞ」
清隆は黙っていた。
「家のことを考えよ。そのような浮いた話が広まれば、縁談にも障る。おまえひとりの話ではない」
叔父は笑いながら言った。笑いながら言う方が、圧が増すことを知っているのだろう。清隆は静かに、しかし腹の底で何かが凝固するのを感じた。その何かが、自分への嫌悪であることに気づくまで、少し時間がかかった。
宮廷への出仕が始まる前日、清隆は北山へ向かった。雪乃はいつもと同じ場所に立っていた。しかし何かが違った。清隆が近づくと、雪乃は先に口を開いた。
「……あの姫君は、春を生きる方なのでしょう」
清隆は答えなかった。答えられなかった。
「私は、冬にしか在れぬもの」
しばらく、ふたりとも黙っていた。清隆は何かを言おうとして、言葉を探して、見つからなかった。その沈黙の中で、清隆は歌を置いた。言葉にならないものを、歌の形に逃がすように。
——触れぬまま 消ゆるものとは 知りながら なおも手を伸ぶ 雪のひとひら
雪乃は目を伏せた。返すまいとしたのかもしれない。しかし少しの間の後、静かに口を開いた。
——触れられぬ ものと知りても この身には ただ一度だけ 春を夢見し
詠み終えて、雪乃は黙った。清隆も黙った。歌の余韻が、雪の中に溶けていった。雪乃は少しの間、口をつぐんだ。風もなかった。杉の梢が、ただそこに在った。
「……ほんの一度でよいのです」声が、かすかに揺れた。「選ばれとうございました」
清隆は息を止めた。雪乃がこれほど直截に言葉を置いたのは、初めてのことであった。
「あなたが選ばぬことも、分かっております」
清隆は思わず顔を向けた。雪乃の目が遠い空ではなく、清隆を見ていた。真正面から見ていた。その目の中に、嫉妬と呼ぶべき何かがあった。嫉妬というにはあまりに静かで、しかし嫉妬以外の名前では呼べない、そういう光が。
「雪乃」
「構いません」
雪乃は先を遮った。遮り方があまりにも早かった。慣れているのだと、清隆は思った。遮ることに。諦めることに。そしてその諦めを、慣れた仕草でまとめることに。
「ただ……少しだけ、寂しゅうございました」
少しだけ、と言った。清隆はその「少しだけ」の重さを、計ることができなかった。あるいは、計ることから目を逸らした。
帰り際、雪乃は笑った。いつも通りの、静かな笑いである。清隆はその笑いを、長い間忘れられなかった。忘れられなかったが、どうすることもしなかった。
翌朝、清隆は装束を整えて屋敷を出た。空は晴れていた。冬の空の、突き抜けるような青である。その青の下を歩きながら、清隆の足が止まった。北山の方角を向いたのではない。ただ止まっただけである。
しかし止まりながら、清隆には分かっていた。今この場で踵を返せば、まだ間に合う。雪乃のいる森まで、まだ戻れる距離に、自分はいる。その先に、雪乃と過ごすはずだった未来があると知りながら、清隆は目を逸らした。雪乃と生きることを、今ここで、自分は捨てようとしている。その事実が、静かに清隆の足元に落ちた。手を伸ばせば届いたはずの温もりを、自ら手放そうとしていることも分かっていた。それが卑怯だということも、清隆は知っていた。
運命のせいにすることもできた。家のせいにすることもできた。人と妖は交われぬのだから、と言い聞かせることも。しかしそれは嘘だった。運命ではない。ただ、逃げただけだ。選ばなかったのではない。選ぶことから逃げたのだ。そしてその瞬間、清隆は自らの手でひとつの未来を殺した。清隆の中の正直な部分だけが、静かにそう言い続けていた。それでも清隆は、振り返らなかった。
足が再び動き出した。一歩、また一歩。都の方角へ。その一歩ごとに何かが確定していく感覚があったが、清隆はその感覚にも目を向けなかった。
宮廷に出仕して三月が経った頃、清隆は北山へ向かった。あの場所に誰もいなかった。
雪乃がいつも立っていた場所に、ただ白い空間だけがあった。杉の木は変わらずそこに立ち、地面には薄く雪が残っていたが足跡はなかった。最初からそこには、何も在らなかったように静かであった。
清隆は少し待った。待ちながら、自分が何を待っているのか分からなかった。雪乃が現れることを望んでいたのか。あるいは現れないことで何かが終わることを、確かめたかったのか。
日が暮れた。雪乃は来なかった。帰り道、清隆は雪乃の歌を頭の中で繰り返した。
——触れられぬ ものと知りても この身には ただ一度だけ 春を夢見し
春を夢見し。過去形で詠んでいた。あのとき既に、雪乃は終わりを知っていたのかもしれない。そのことを清隆は誰にも言わなかった。言葉にした瞬間に、自分が何を失ったかが輪郭を持ってしまう気がした。輪郭を持てば、それと向き合わなければならなくなる。清隆はその向き合うことをも避けた。
翌年の冬、清隆は再び北山へ踏み入った。雪乃がいた。あの場所に、あの姿で。清隆は息を呑んだ。ほとんど走るように近づいて、しかし近づくにつれて、足が遅くなった。
何かが違った。雪乃の目が清隆を見ていた。見てはいたが、以前とは違う見方であった。以前は清隆を映していた。今は清隆を、少し遠くから眺めているようであった。いや、眺めてさえいないかもしれない。ただ、清隆のいる方角を向いているだけのような。
「……雪乃」
「お変わりなく」雪乃が言った。声は同じである。しかし同じであることが、かえって清隆に距離を感じさせた。
「姿を消していたのか」
「冬が戻りましたので」
それだけのことだと、そう言っていた。清隆は雪乃の袖に触れようとして、触れた。触れられた。しかし触れた先に、あの頃の温度がなかった。温かくも冷たくもなく、ただ在る、というような。
「雪乃、私は……」
「よいのです」
雪乃は微笑んだ。静かな微笑みである。しかし以前の微笑みは、その静けさの下に何かを抑えていた。今の微笑みには抑えるものがなかった。あの冬に清隆が見た嫉妬の光も、声のかすかな揺れも、選ばれたかったという言葉の重さも、もうそこに何もなかった。
なくなったのか。あるいは初めからなかったことになったのか。——あるいは、それを感じ取れる自分がもういないのか。
清隆には分からなかった。分からないことが、あの朝に自分が手放したものの大きさを改めて清隆に知らせた。分からないまま、ふたりはしばらく並んで立った。杉の梢から雪が落ちた。清隆は空を見上げたが、雪乃は見上げなかった。それだけのことが、以前とは違った。
その年の末、清隆は姫君のもとへ正式に通いを始めた。姫君は美しく、賢く、何不自由なかった。清隆に対して冷たくもなく、しかし近くもなかった。互いに礼儀の中に生きていた。それが都の夫婦というものであり、清隆はそれを受け入れた。受け入れながら、受け入れたことへの後悔を、心の隅に飼い続けた。
北山へはその後も時折向かった。雪乃はいることもあり、いないこともあった。いるときは言葉を交わした。歌を詠むことはなくなった。ふたりとも、詠もうとしなかった。
ある日、清隆は問わずにはいられなかった。
「あの頃のことを、憶えているか」
雪乃はしばらく沈黙した。
「……憶えております」それだけ言った。続かなかった。清隆も続けなかった。続ければ何かが壊れる気がした。壊れると、もう二度とここに来られなくなる気がした。それを恐れた。ここに来ることは、もはや清隆の中で、罪を確かめる行為に近かった。来るたびに、あの朝に自分が何をしたかを確かめた。
最後に北山を訪れたのは、どの年の冬であったか、後に清隆は思い出せなかった。
その日雪乃はいつものように立っていたが、清隆が近づいたときに何かを言おうとした。言いかけて、やめた。清隆はその言いかけた言葉が何であったか聞かなかった。聞けばよかったと思ったのは、帰り道に入ってからである。戻ることはしなかった。
翌年、その場所を訪れたとき、雪乃はいなかった。以来、ついぞ姿を見なかった。
清隆は老いた。都で役目を果たし、子を持ち、その子が成長するのを見た。人の世のことを、ひとつひとつ重ねた。それなりの生を送ったと、言えたかもしれない。しかし冬になるたびに、清隆は北の空を仰いだ。雪が降るたびに、あの森の白さを思った。そして決まって、あの朝の自分の足を思った。一度だけ止まり、しかし振り返らなかったあの足を。
終わりの近い冬、清隆はひとり縁側に座って雪を見ていた。白い雪が、音もなく落ちていた。積もる前に消えていく、薄い雪である。清隆はその雪に向かって、声に出さずに言葉を置いた。歌の形をしていたかどうかも分からない。ただ、雪乃、と呼んだ気がした。その声が本当に届いたのか、清隆には分からなかった。
その年の雪は、音もなく降り、触れる前に消えていった。
―終わり―




