その5 最終章
頭の中に加えられていたドラゴンの圧力が消え去ったことに気づいた瞬間、マリオンは、すばやく一歩飛びすさると不敵に笑った。
「もらったのは僕だ! 君の名前はわかってるんだ」
『なにっ?』
名を縛ったはずなのにまだ自由に動けるマリオンに、あきらかにドラゴンがひるむ。
マリオンはかまわずに続けた。
「ガインの書には、聖者ザクリスが悪しき黒ドラゴン、ドラゴンを封じたと書かれていた」
『それはさっき聞いたぞ! マリオンよ』
自分を一口で飲み込めそうな恐ろしい三重に歯の生えた口を開け、威嚇したままのドラゴンに臆することもなくマリオンは早口で続けた。
「君の名前がザールだとすれば、聖者ザクリスはその名を使ってここへ封じたことになる。だが、そうだとすれば、僕がその名前を開放しなければ、君はここへ姿を現すことは出来なかったはずだ」
再び短い咆哮をあげ、ドラゴンが笑う。
『それがどうした』
「僕は不思議に思っていた。気配は感じられても姿まで現すはずがなかったから。僕はあの時まだ、君の名を解放していなかった。それなのに君は復活の兆しを見せた。では何故、君は封じられたその姿を現すことができた?」
『名前の解放などなくても、我の魔力は強いのだ、なんでもできるぞ』
マリオンはかぶりを振った。
「それは無理だ。告げねば解放は望めない。たとえ呪文なしで魔法が使えるとしても、『封じの魔法によって名前を封じられた者の解放』には、その封じた名前は絶対必要だ」
『お前の考えすぎだ』
ドラゴンの言葉を無視して、マリオンは続ける。
「ガインは予言がこう告げたと書いている。『悪しき者の真の名前を白き光にて縛り、封印せよ』とね。
だから封印に真の名前が使われたのは明らかだ。
でも僕が君の復活前に呪文の中で告げたのは、最初の白い呪文の中の聖者の名前、この森のオークの木の名前だけだった」
ドラゴンの答えはない。
マリオンはきっぱりした声でさらに続ける。
「ガインの書の中では、ドラゴンの名は最後まで書かれていない。聖者は、予言でドラゴンの名前を知った時、驚愕した、と書かれているが、名前自体は言及されていない。
最後にこう書かれている。『ドラゴンはここではザールと呼ぶ』と。何故だ? 何故、わざわざガインは『ここでは』と断っているのだろう? 聖者は『ザール』という名前のどこに『驚愕』した?
そう、『ザール』はあきらかにガインにつけられた仮の名前だ。普通は呪縛したドラゴンの名前を伏せるとは思えない。犠牲になった商家の娘の名前すらフルネームで書かれているのに」
『・・・』
「それに君は最初に姿を現したときに僕に言ったね。『誰を呼ばわる?』と。ガインが仮につけた名前を、君が知らなかったからだろう?」
動揺したようにドラゴンの影が一瞬揺れた。
「では、何故聖者は予言でドラゴンの名前を知った時、驚愕したのだろう。何故、呼ばれていない君が復活できたのだろう。そして、何故、ガインは書の中でドラゴンの名前を告げることを嫌がったのだろう」
マリオンは言葉を続ける前に、深く息を吸い込んだ。
「伏せたのは、聖者の名前とドラゴンの名前がたまたま同じだったから、と僕は考えた」
ドラゴンが再び咆哮を上げ、マリオンの頭を噛み切ろうと大きく身を乗り出してきた。
それより一瞬早く、マリオンはしなやかに体をそらし、大きく後ろへ跳躍をする。
着地と同時にマリオンは、右手を力強くドラゴンへつきつけた。
「君の名前は、『ザクリス』だ!」
『お前の名前は『マリオン・ローセングレーン』だ!』
魔力を伴った声で、マリオンとドラゴンが同時に叫ぶ。
だが、それによって動きを封じられたのはドラゴンのほうだけだった。
ドラゴンはそれに気づき、大きく身を捩った。だが出来るのはその動作のみ。
それ以上は動くことができない。
今度はマリオンが大きな口をあけて喉をそらし、哄笑した。
「お前に僕を縛ることはできない! それは僕の真名ではないんだ」
『な、んだと? そんなことができるわけがない』
マリオンは名前を否定するやいなや、左の掌をドラゴンに向け呪文を唱えはじめた。
「黒ドラゴン、ザクリスよ、我が召還に応じ、姿を具現せし、その偉大なる魔よ。影となり光の呪縛を、光となりて闇の呪縛をその身に受け、我が虜囚となりて、我が呪縛に応じ、汝の身を我が身内の闇へ同化せよ。
わが身内の白き闇にて聖なる白き炎をもって清浄となれ!」
ぐんっとマリオンのほうへ体を引き込まれるのを感じて、ドラゴンが慌てた。
『ばかなっ! 我が魔力を飲み込めるほどの魔法容量がお前にあるものか』
だが、マリオンの魔法は容赦なくドラゴンの体に纏わりつき、その体から力を奪っていく。
ドラゴンは身を捩り、ゆすりあげ、激しく咆哮をあげてそれに抗った。
しかし、意外にもマリオンの魔力は強い。
マリオンは、一心に意識を白い光に集中していた。
普通の人間が、修行によって身に付けた魔法とは種類が違う、ということにやっとドラゴンが気がついたときはすでに遅かった。
ドラゴンの禍々しい巨体は、かすかに煌きを放ちながらマリオンの左手に徐々に吸い込まれはじめた。
マリオンの白い額から、汗が滴り落ちていった。
自分の意識に取り込まれていくドラゴンの魔力と、その穢れと罪の深さに愕然とする。
こんなにも深い穢れとその罪を浄化しながら吸収していくことは、マリオンに多大な負担を強いる行為だった。
意識の集中が途切れたとき、ドラゴンは再びマリオンを食い殺そうとするだろう。
中からも外からも。
ドラゴンの意識の中の見たくもない記憶の断片が、マリオンの身内の闇に取り込まれていく。
欲と血と叫喚と罪と悪にまみれた黒い記憶。
それ自体は浄化されていくのだが、浄化されてもマリオンの記憶には残る。その記憶はマリオンに嫌悪よりも、深い傷と痛み、そして深い哀しみを残していった。
マリオンの白いなめらかな頬に涙がいく筋も流れているが、それを気にするふうもない。
涙は、浄化の役目も果たしているのかもしれなかった。
いく度となくドラゴンの長く太い絶叫が頭の中に響き渡り、マリオンは歯を食いしばりそれに耐えた。
がくりと片膝が地についたが、それでも左手は空に向けたままだ。
今ここで、引くわけにはいかない。ともすれば肩よりも下がりそうになる左手の手首を、右手でしっかり掴んで支えた。
『お前は! なんだ、この闇の深さは! お前は一体何者だ』
マリオンの華奢な体になんなく吸い込まれ、内なる闇にどんどん吸収されていくことがわかってドラゴンは、驚愕の叫びをあげた。
「僕は、魔族と人間、そのどちらの領域にも属するもの」
『・・・! お前は我ら魔族の仲間なのか!』
「残念ながら半分はね」
ドラゴンが記憶を漁ったとき、マリオンが白の障壁を築いて隠していた記憶は、名前だけではなかったのだ。
『何故だ、小僧。何故、お前は名前によって縛られぬのか。魔族だからか』
もはやこれまでと悟ったらしいドラゴンの弱々しい声は、しかし好奇心に満ちていた。
「違う。自分は、すでに縛られている。魔力を持つ仲間によって。そう、僕はすでにほかの魔術師によって『呪われて』いるんだよ。『誰にも真名を名乗ってはならぬ』ってね」
『・・・なんと! そんなことができるのか』
「呪詛は二重には効かない、かけられない。よほど丁寧に最初の呪詛を解除してからやらないとね。僕を縛ることができるのかどうかという確認を怠ったままで僕の精神を解放した。それが間違っていたんだよ。魔法の呪文は、小さな綻びから大きな破綻をきたす事が多い、そういうことだ」
『・・・・』
マリオンに答える声は、もはや聞こえない。
ドラゴンだったものの最後の片鱗をその左手に吸い取ると、肩で荒い息をつきながら、マリオンは自分の左目を押えた。
瞳の奥で何かが蠢き、息づいている。何か新しい力が・・・・・・。
そのままマリオンは、がくりと前のめりに草原に倒れこんだ。
意識がだいぶ長い時間、飛んでいたようだ。
気がついたときには、すでに夜が明け始めていた。夜明けのしるしに、少しずつあたりの色が戻り始めている。
森と草原は、マリオンと太陽によって浄化され、昨夜の禍々しい気配はまるでない。
もうこの森が恐れられ、忌避される日は来ないだろう。
太陽が半分ほども顔を出すと、新緑が今までになく鮮やかに明るく美しく色づいて見えた。
マリオンは、そのまま身体をごろんと仰向けにして蒼穹を眺めた。目にしみる青さだ。
今日もきっと晴れるのだろう。
口の中に若草から滑り落ちた冷たい朝露がぽとりと入り込み、その甘さに驚く。
「そういえば、水も飲んでないんだった」
力なく呟く声もかすれていて、マリオンは苦笑した。
体力と気力は使い果たしたが、身内の魔力は増している。どうやら自分でも自分の中の魔法限界が見えなくなった、と彼は思った。自分の力がどれだけ増幅したのか、それを測ることすらできない。
左の眼がかなり重くなったように感じて、思わず手をあてて見たが、その動作によって思い出したくない記憶の断片がふいに蘇り、マリオンは顔をしかめた。代わりに、胸に下げられていた黒曜石のペンダントにふれると、石はほろほろと崩れ落ち、跡形もなく消え去った。
思わず起き上がって、手の中を見た。残ったのは、キリルの作った金の石留めと革紐だけだった。
「キリル」
キリルの呪いは、もうそこになかった。胸の奥に鈍い痛みが走る。
「・・・・・・さよなら、キリル」
マリオンは小さくつぶやくと身体を起こし、服のあちこちについた草の切れ端をぱんぱんと叩き落した。
「マリオンっ! 無事なのか!? 結界が崩壊したようだったけど」
朝の光に明るみ、きらめきが増した草原を、息を切らしながら一人の短い金髪の青年が駆けて来た。
どこか森から遠く離れた安全な場所、街道のそばからでも駆けてきたのだろう、かなり息があがっている。
「ああ、バージル。大丈夫、僕は無事だよ」
マリオンと呼ばれた少年が短く答えながら、振り向いた。
バージルがよかったと胸をなでおろしながらマリオンを見やると、その左右の瞳の色が違っているのに気づいた。確かに屋敷を出るまでの彼の眼は、どちらもエメラルドのような緑色だったはずだ。
だが、いま朝の光の中で見るマリオンの左の目は、淡い金色に染まっている。
しかもそれは、なにか圧倒的な魔力を帯びているようで、恐ろしくてじっと見つめていることができない。
バージルの少し怯えた視線に気づいて、マリオンが肩をすくめて苦笑した。
「かなり目立つかな。前髪を伸ばさないといけないね。これから先どれだけの魔を喰らうことになるのかわからないし。そうだ、キリルにかけてもらった呪詛はとても役に立ったんだ。キリルにお礼を言わないといけないよね」
「・・・マリオン・・・」
沈んだ声で彼の名を呼ぶ五つ年上の従兄ににこりと笑って見せると、彼はふわりとマントのフードを深くかぶって顔を隠し、後ろもふりかえらず静かに街道へ向かい歩み始めた。
<幕>




