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その3 魔の森

森の入り口には、大きな古いオークの木がたっている。

まるで森番のようにそびえたつその姿は、威厳に満ち、大きく枝を広げているところは威圧的だ。

幹の周りは大人が五、六人で囲まないと届かないような太さがあり、その高さは百二十フィートほどもあろうか。

この地へやってきたマリオンは、最初にまっすぐにオークのそばへ寄ると、挨拶でもするように右手を胸に当てて軽く目を伏せ、優雅に一礼した。

彼はしばらく静かにその美しく荘厳な青葉をゆっくりと見上げていたが、やがて寄り添うように立ち、なめらかな白い頬を幹へ寄せた。

目を閉じると、地の奥底から樹液を吸い上げるこぉっという音が、人の心音のように耳に心地よく響く。

「……」

マリオンが小さな声で何かを囁いたが、それを聞き取れたものはオークだけだろう。

やがてマリオンは決心がついたように深く息を吸い、大きくその目を開けた。

そのままオークから数歩離れると、両腕を大きく広げた。腰にくくっていた銀の水筒の蓋をあけ、そこから少量の水滴を大地に振り撒く。

「偉大なる光の師、聖者ザクリスよ。我が望みに答え、我が前にその姿を現したまえ」

振り撒いた水から、煌めく細かな光の粒子がくるくると渦を巻きながら天に向かって立ち昇っていく。

その光が途切れてしまうまでに、彼は呪文をゆっくりと三度、唱えた。

だが、あたりは静謐なままで、何も起こらない。

マリオンはしばらくオークの梢を見上げていたが、やがて小さくため息をついた。

「やはり、聖者殿は我が召喚に応じぬ、か」


「白い魔法で呼べないのなら、黒い魔法で呼んでみようか」

マリオンは再び深く息を吸い込んだ。

自分が呼び出そうとしているものを、マリオンはイメージした。巨大な黒い影。血に飢えたドラゴン。

マリオンは、腰のショートソードをすらりと抜き放つ。

星明りを受けて、闇の中にかすかに銀色の光が煌いた。

「闇よりも深き闇。底よりも遠き底。影よりも昏き影。夜の中に住まう魔のものよ、我が召喚に答えよ。赤き血にまみれし、闇に住まう魔のものを、我、ここに召喚す」

マリオンが一片のためらいもなく、右手のショートソードを袖を捲り上げた左腕に突き刺すと、ぼとぼとと赤い血が大地へ滴り落ちた。

大地の奥底で、ごごっと一瞬だけ揺れが起こる。

その揺れにマリオンの眉が微かにひそめられた。

「早い」

すでに黒い魔法が効いているのか?

呪文はまだ不完全だ。まだ僕は召喚する魔の名前を告げていない。

だが、確かに召喚は成功しているらしい。

風の中に血なまぐさい匂いが混じり、地の底から瘴気が立ちのぼり始めていた。

「僕の推測は、当たっていたみたいだね」

マリオンは、小さくひとりごちた。


彼は、慣れた手つきで剣の血を服の裾でぬぐい、腰に戻すと腕に無造作に血止めの魔法を施し、森から数ヤードほど離れた草原へ歩いていった。

自分の血を吸い込んだ大地とオークのよく見える場所に膝を立てた姿勢で腰を落とし、マリオンはそのまま身動ぎもしない。

大きく見開かれた緑の眼は、オークの木の辺りから離れなかった。


長い長い夜が明け、あたりは五月の陽光に満遍なく照らされた。

その間は、大地のざわめきが静かになる。禍々しい空気も朝の光とともに霧散していく。

大地の表面は、次第に静けさを取り戻していった。

何者かの気配も薄れ、普段どおりのどこにでもある春の一日が始まる。

マリオンは相変わらずこそりとも動かず、あいかわらずじっと眼を見開いたままだ。

ときおり何かを聞き取ろうとするようにその眼をつぶり、注意深く耳をすませているが、今のところ草原を渡る風の音以外、何も聞こえてこない。

じりじりと一日が過ぎていった。


だが、ひとたび夜が訪れ、さらに更けていくとそれにつれて大地の奥のざわめきは次第に増していく。

大地から陽炎のように立ち昇る瘴気もだんだんきつくなってくる。

徐々に空気が穢されていくのが、目に見えるようだ。

濃くなる夜の闇とともに、吸うことすらはばかられそうな穢れた空気が作り出されていく。

普通の人間ならば、すでにその場にいられないほどの禍々しい気配がじわりと大地を覆い、黒い霧のように渦巻いているようだ。

マリオンは覚悟していたのか、それにも顔色一つ変えない。

まるで呼吸すらしていないようで、ときおりゆっくりと行われる瞬きだけが生きているしるしだった。

どうやらマリオンは、自分の術がどのような結果を引き起こすのか、ある程度は予測していたようだ。


やがて、地の底のざわめきは、収まるどころか最初のそれよりもさらに大きくなっている。どこからともなく魔獣の咆哮が地を這うように低く響く。

「・・・復活する」

マリオンの唇が動き、小さく一人ごちた。

「でも、まだ時間がかかる」

マリオンの眉がきゅっと寄せられる。

最初の兆しは早かったが、その後の時間のほうは、彼の目算よりかかっているらしい。

「しかたがないね」

ひゅっと鋭く息が吐き出され、マリオンの意識はまた地の底の闇の中に滑り落ちていく。



**..**..**..**..**..**..**..**..**..**..**..**



日が落ちると、辺りには妖気が漂い始める。

さきほどまで澄んでいた大気は、濁りを帯び、黒い気配を含んでいく。

再び、昨夜と同じ、いや、それ以上に禍々しい瘴気が立ちのぼり、大地を覆っている。

空気の中には、はっきりと生臭い血の匂いが混じり始め、吐き気を催すような穢れが辺りを染めていった。

これまで以上に重苦しく、不浄の気配が闇を染めている。

何処からともなく聞こえる魔獣の咆哮が前よりもひときわ大きく響き渡り、唸るように地を揺るがしている。


マリオンは、再び腰の水筒を取り出し、口の中で清浄の呪文を静かに唱えながら自分の周りに水滴を振り撒いた。

呪文が終わると、みるみるうちに彼の周りだけ空気の色が白く清められ、そこだけ結界が張られたようだ。

黒い穢れた霧が、結界を避けて流れていくのが目に見えるようだった。

無表情だったマリオンの顔に、緊張が一瞬だけ浮かんで消えた。

小さく息を吐く。深く息を吸う。

失敗は許されない。

「失敗はしない、絶対に」

恐れを断ち切り、自分に言い聞かせるようにきっぱりとマリオンは言葉にして口にだした。


夜が深くなり、闇が濃くなった。

地を揺るがすような咆哮が、今度はすぐ足下から聞こえた。

思わず耳を塞ぎたくなるような残忍で凶悪な響きが大気を震わせる。

じっとりと濡れた赤黒く濃い霧が、またたくまに足下の草むらを濡らしていく。

霧が流れて移動していくにつれて、結界の張ってあるマリオンの周りをぐるりと囲むように緑の下草が、ざぁっと音をたてて赤く濡れていくのが見える。

赤黒く穢された若草からは、たった今生き物から滴り落ちたかのような生ぬるい蒸気と血の匂い。

大地が悲鳴をあげて大きく揺れた。

「来る!」


マリオンはゆっくりと立ち上がり、黒々と視界を覆う森を見上げた。

魔力を込めた言葉がその口から漏れ出でる。

「血に濡れし黒き魔よ、我が前にその姿を現したまえ」

ごぉっと風が唸り、森の木々がざわめき若葉をちぎらんばかりに吹きすさぶ。

大地がきしみ、森の奥から草原にむけて深い亀裂が走り、斜めに大きくもり上がってマリオンを引き倒そうとしてきた。


だが、白い結界がそれを阻止する。

マリオンの前で、亀裂は見えない白い障壁に跳ね返されてとどまった。

やがて大地が激しい悲鳴をあげて、亀裂から大量の赤黒い血を噴き上げた。

噴きあがった血は、まるで雨のようにざぁざぁとあたりに降り注ぎ、それとともに生暖かい風が、血の匂いと腐った空気をあたりに撒き散らしていく。

その空気に触れた森の木々が若葉を腐らせて端から枯れていくようだ。

辺りの様子に臆することもなく落ち着いた仕草で、マリオンは静かに呪文の残りを唱えた。

「我が前にその姿を具現せよ、黒ドラゴン、ザールよ」


マリオンの凛とした声が辺りを制し、彼の声の届いた範囲の空気が、瞬間、浄化されていく。

白い浄化のきらめきが赤黒い穢れに触れると、血潮が叩かれたようにはじけとび、後には元の色に戻った木や草が残る。

だがマリオンは、それ以上積極的に浄化を行おうとはしない。

それは本来の目的ではない。

あちこちで白と黒のせめぎあいがしばらく続いたが、それもつかの間、浄化より速い速度で腐乱と穢れが森を塗りつぶしていった。


『誰・を・呼・ば・わ・る?』

ぶんっと低く空気を震わすような声ともいえないような黒い響きが、マリオンの声に呼応した。

『誰・を・呼・ば・わ・る? こ・ぞ・う』

森全体を押し潰しそうなほど巨大な禍々しい影が、空を覆っている。

その巨大なドラゴンの体は透明で、向こう側に星が透けて見えた。

その黒い影を通すと、清浄な星の光すら穢れて見える。

その耳元まで大きく裂けた口からは、血と腐肉の匂いがする息がマリオンに向かって大きく吐き出された。


『お前は誰だ? 何故に我をこの世へ引き戻す?』

地の底から湧いて出るような暗い響きが、闇の言葉を成す。

「僕は魔術師だ」

黒い闇がぶぶっと震えた。

どうやらドラゴンが嘲笑っているらしい。

『魔術師? 見習の間違いではないのか? 小僧、お前はいくつだ? 確かに我を呼び出せただけでもたいしたものだが』

「歳なんか関係ない。僕は君の魔力を我が物にする。そのために呼び出した」

落ち着いた涼しい声が、マリオンの口から発せられると、再び黒い闇が笑った。

今度は、はっきりとした笑い声の形をとっている。

『ひさしぶりに面白い冗談を聞いたぞ。どれくらいぶりかな?』

「君がこの地に聖者によって封じられてから、ということなら三百六十年ほど経っている」

律儀なマリオンの答えに、ドラゴンが今度は厭らしくにやりと笑った。

『そんなに経つか。あの小娘はうまかったぞ』

「・・・! 愚かな殺人者の手にかかったというフリーディア・クロスのことか? 」

ドラゴンの口から赤黒い血ともよだれともつかぬものが滴った。

『ほう、そんな名前だったか、あの娘』

ぎろりと赤く血走った鋭い眼が、マリオンを見た。

『先ほどのはお前の血か? お前の血もなかなかうまかった。楽しみだぞ、小僧』

「僕は黙って食われるつもりなんて、ない」

ドラゴンは、首を高くかかげ喉をそらした。やはり笑っているものらしい。首のなかほどのたくましい筋肉と、厭らしく光るうろこが見えた。


黒ドラゴンは笑い声をあげながら、その太い胴体を左右にゆすった。

ゆするたびに長い尾がびしゃりびしゃりと大地に打ち付けられ、血のしぶきを上げる。

胸の辺りで汚らしい長いかぎ爪が、獲物を掴んだときのように、ぎちぎちと音をたてて握りしめられるのが見えた。もう幻というよりは、半分生身に近いほどまで復活しつつあるらしい。


『あの娘の中に生まれた絶望の味は忘れられぬ。泣きながら命乞いをしたあの声もな』

マリオンは、愕然として緑の双眸を大きく見開いた。

「フリーディア・クロスは、まだ生きていたのか?」

マリオンの声に答え、ドラゴンが低く唸る様な歓喜の伴った声をあげた。

『おお、そうよ。生きていたとも。我が今のように復活したときには、半殺し状態だったが生きてはいたぞ。奴めは上等の生贄をくれてやるといっていた』

マリオンの潔癖そうな眉が、きゅっとひそめられた。

苦いものが口の中にあふれる。

今、改めてマリオンは、この黒ドラゴンに激しい嫌悪感を抱いた。

「一体、誰がフリーディアを使って君を復活させたんだ」

『名前など知るか!第一、我はあの娘の名前すら知らぬわ。お前のほうがよほど詳しいぞ』

狡猾そうな眼が笑いを含んだまま、マリオンを覗き込んだ。

『ということは、お前は我が名も知っているのだな?』

マリオンは、答えない。

唇をきつく引き結び、ドラゴンを睨みつけている。


『どこかに我が名と行いを、記した書でもあるのだな? 小僧』

微かに誘惑の魔法をにじませた力の言葉を、ドラゴンがマリオンにむけて発した。

ふいをつかれたマリオンは、その口調に逆らいかねて厭々口を開く。

「ガインの書に、聖者ザクリスがフォートワースに蘇った悪しき黒ドラゴン、ザールを封じた話が載っている」

『・・・・・・ほほうぅ。我も有名になったものだな』

ドラゴンが興味を引かれたような声をあげた。

「それはどうかな? ガインの書はさほど有名な写本ではない。君がそれほど有名になったとは思えないね。実際、たいしたことはしてないじゃないか。単なるろくでないドラゴンってだけだろう」

ことさらに尊大な口調で、マリオンが馬鹿にしたような笑いを浮かべてそれに答えた。

『・・・小僧! いまに後悔するぞ』

ドラゴンが眼をむき、耳まで避けた口をマリオンを一飲みに出来そうなほど大きく開けて威嚇した。


マリオンは深く息を吸い、左の掌をドラゴンに向けて呪文を唱えた。

「ザールよ、我が召還に応じ、姿を具現せし、その偉大なる魔よ。影となり光の呪縛を、光となりて闇の呪縛をその身に受け、我が虜囚となりて、我が呪縛に応じ、汝の身を我が身内の闇へ同化せよ。

わが身内の白き闇にて聖なる白き炎をもって清浄となれ!」

『無駄だ!』

ドラゴンが音のない笑い声で、辺りの夜気を震わせていく。

マリオンはもう一度、同じ力の言葉を唱えた。

だが、ドラゴンの笑いは止まない。

ごおぉんと大気が震える。

大きく羽ばたきその大きな翼を誇示し、ぐるりと回転して身をよじり長く力強い尾で血に濡れた大地を叩くことで、動けることをマリオンに見せつけた。

『未熟なのだ、お前自身が』


「魔法は、小さな綻びから大きな破綻をきたす事が多い」

よく師はそう言っていた。

本来は、多少言葉に間違いがあっても、強い意志と力が込められていさえすれば魔法は完成するはずだ。

しかし、魔法をわざわざ呪文を使うことによって完成させる、ということは、その中に根本的な間違いがあっては完成することが出来ない。

魔術師の意識の代わりに、呪文あるいは魔道具や薬草というものによって魔力が集束されるからだ。

呪文が大きく間違っていれば、力はその開放の方向を見失う。

間違った方向へ向かった力は、開放されずに終わってしまう。

まるで何もない空にむかって放たれた矢のように、目的を果たせず意味をなさない。

その場合、間違った呪文を唱えるよりは、何もなしで魔法を行ったほうが成功率はまだ高いといえるかもしれない。

ましてマリオンのように呪文なしで魔法が使える者にしてみれば、呪文は「間違いが起こりやすい邪魔なもの」でしかない。

水に対する呪文を火に向かって唱えたところで何も起こらないが、意識を火に集中しておけば魔力はきちんと「火に対する魔法」として完結するからだ。


しかし、呪文がなければ行いにくい魔法も、この世には存在する。

たとえマリオンのように他の魔術師とは異なり、呪文自体はただの言葉の羅列にすぎず、力をこめさえすればその魔力は自然に開放されるという魔術師であっても、あるいはドラゴンのような存在自体が魔法的な魔族にとっても、ある種の魔法に限れば、呪文があったほうがより行い易い。

その中で名前によって呪縛を行う魔法は、呪文が有効な魔法のひとつだ。

この場合に重要なのは、呪文自体ではなく標的である相手の名前である。



「やはり、仮の名前ではだめなのだな」

わかっていたことだが、やはり少しだけ悔しい。マリオンは唇をかんだ。後はもう一つの可能性に賭けるだけだ。それが効かないのであれば、呪縛は行うことができない。

それは取りも直さず力の逆転を意味し、自分が逆にドラゴンに食われてしまう可能性があるということである。ドラゴンは、マリオンの名前を何とかして聞き出し、それを元にして取り込もうとするだろう。

ひとつ間違えば自分の命を失うのみならず、魔獣を、血に飢え復讐に燃える黒ドラゴンを、この地へ三度、野放しにしてしまうことになる。

誰かが封印に成功するまで、黒ドラゴンは近隣の町や村を襲い続けるだろう。

何百年もの間、封印されていたこの黒ドラゴンについて詳しく知る者は今はほとんどいない。

予備知識なくしてはマリオンの師でさえも、封印に成功するかどうかわからない。

念のため、自室にガインの書を残してはきた。あれを見れば、どこで何をしたのか、バージルならわかってくれるだろう。

また森の周り、六箇所に聖水晶を埋めてある。六芒星を描く護りの水晶だ。たぶん、自分が失敗しても、この森から外にドラゴンは出て行けない。

とはいえ、それもあくまでも「たぶん」でしかない。

たとえ自分とこの森が消滅してしまおうとも、決してドラゴンはこの森の結界の外へは出さない。ともに地獄へ堕ちるまで、だ。


『終わりか?ではこちらから行くぞ』

やはり呪文は効いていなかった。

いきなり頭の中身を全部ぶちまけられたような衝撃が、マリオンを襲った。

マリオンを喰らい、その生命力と魔力の両方を獲て、己の肉体をより確実に復活させるために、ドラゴンがマリオンの精神体へ逆襲をはじめたのだ。

ドラゴンはマリオンの頭の中に侵入し、記憶の引出しとも言うべき部分を荒らしている。

たくさんのどうでもいい記憶が、大切な記憶が、忘れていた記憶が、遠い過去から近い過去までぐちゃぐちゃに再現され、崩されていく。

とりとめのない自分の記憶の幻影をぐるぐると高速で見せられて、マリオンは眩暈と吐き気を感じた。

頭の中の大事な記憶の一部分を読まれないように最大の注意を払いながら、その衝撃に耐える。

ドラゴンの起こす闇の奔流に押し流されそうになりながら、マリオンはその部分に白の障壁を築いた。

その部分の記憶だけは、読まれてはならない。

たえまなく続くドラゴンの攻勢に、マリオンは荒く息をついた。


『なかなかおもしろい経歴を持っているな、小僧。やはり只者ではないようだ』

記憶の混沌の中から正確にある程度の情報を読み取ったドラゴンが、マリオンを見下ろしながら何か考えこんでいる。

『だが、名前がわからん。隠しておるな、小僧』

「僕の真名などお前に教えるわけがないだろう」

マリオン自身がドラゴンの魔力に屈し、自分の名をその口から告げなければ取り込むことは難しい。これについて、すでに三年前にキリルと安全策を話し合っていて、対策をしているのだ。

「真名を知られても大丈夫」

だが、本当の名前を知られることは、小さな決壊を生むかもしれない。

マリオンは、それを恐れた。

小さな綻びは、大きな破綻を生む。そういうことだ。


頭の中をかき回しても有益なことが何も得られなかったドラゴンは、それ以上障壁を崩そうとすることをあきらめて、じかにマリオンに名前を尋ねた。

『お前の真名を名乗れ』

魔力を伴った力の言葉が、無造作にドラゴンから発せられる。

魔族特有の強い魔法の言葉だ。

さきほどの誘惑の魔力からはのがれられなかったが、今度は攻撃があることをあらかじめ予想していた。

必ず訊かれるであろうその問いに、マリオンは言葉を口に出して答えることで抗った。

「い・や・だ」

『お前の名前をよこせ』

いやに優しげで甘ったるい声がマリオンに名前を尋ねた。

決して脅しはしない。それだけに撥ね付けにくくなる。

だが、マリオンは全力でそれをはね返す。

「・・・い、いやだ」

マリオンの精神にさらに圧倒的な力がかかる。膝ががくがくと震えだしていた。

『お前の名前を教えろ』

「・・・ぃ・や・だ」

マリオンの額にびっしりと汗が噴出す。

崩れそうになる身体を、ただ気力だけが支えている。

ショートソードの柄に手がかかり、拳が固く関節が白くなるまで飾り石を握った。

石によって傷ついた掌から、じんじんとしびれが伝わってくる。


『名前をよこせ』

マリオンの歯を食いしばる音がきりりと聞こえた。

苦鳴とともにひとつの名前が吐き出される。

「っ!・・・マ、リオン・ローセングレーン」

『マリオン・ローセングレーン! お前の名前をもらったぞ!』

うぉーーーんという音のない歓喜の咆哮をあげ、ドラゴンがマリオンへ向かって大きな死のあぎとを開けた。

『お前の名前はマリオン・ローセングレーン。我に従順を誓う者。我にお前のすべてをよこせ』

さぁ、ここからが勝負だぞ、しっかりしろ、マリオン。

どこからかキリルの声が聞こえた気がした。


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