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黒い影

 気がつくと、俺は薄暗い洞窟の中に立っていた。目の前には、どこかで見覚えのあるシルエットがぼんやりと浮かんでいる。


「……あれは」


 滑りやすい岩肌に足を取られないよう慎重に歩を進める。それは――以前、取材で訪れた“水の悪鬼”が封じられているとされる祠だった。


 どうして俺はこんな場所に? ――まるで記憶が抜け落ちたように、思い出せない。それに、やけに蒸し暑い。こんな空気だっただろうか? 前に来たときは、もっとひんやりとしていた気がする。額を流れる汗を拭い、重たいまぶたをこすりながら周囲を見回す。


 そのとき、不意に祠の扉が――きしむような金属音を響かせて、ぎい……と、ゆっくり開いた。誰かが開けた気配はない。自らの意志を持つかのように、扉はひとりでに動いた。正体のわからない不安が胸を刺し、心臓の鼓動が急に速まる。


 暗がりの中、祠の奥にぽっかりと空いた漆黒の空洞。その“闇”の底から、なにか――得体の知れない影のようなものが這い出してくるのが見えた。まるで昔見たホラー映画の一場面だ。井戸から現れた怨霊が、這いつくばりながらテレビを突き破って現実ににじり寄ってくる。いま目の前で繰り広げられている光景は、あのシーンに酷似していた。


 それは明らかに“人”の形をしていた。祠の奥から、ねっとりと這い出してきた影が、地を這うようにしてこちらへと向かってくる。独特な粘性の液体を擦るような音が洞窟内にこだまする。背筋が凍るような恐怖。だが、なぜか身体が金縛りにあったかのように動かない。


 ――逃げなきゃ、逃げなきゃ……!


 心が叫んでいるのに、足はまったく反応しない。視線だけが縛りつけられたように、その影を凝視していた。やがて、それは俺のズボンの裾に、骨ばった指をかけてきた。ぬるりとした感触が布越しに伝わる。痩せ細り、土で汚れた腕が、じわじわと俺の身体を這い登ってくる。


 それは、女の腕だった。――異様なほど細く、皮膚が張りついたような乾いた腕。その両手が俺の胸元を掴み、ついに顔がすぐ目の前に現れた。目元は深く窪み、黒ずんだ隈が濃く刻まれている。頬はげっそりと痩せこけ、まるで生気を失ったようなその顔――確かに見覚えのある女だった。静奈。……静奈の顔だった。けれど、その顔は俺の知る彼女とはまるで違う。水に濡れ、朽ち果てた亡者のような姿をしていた。


「う、ああああああああッ……!」


 気がつけば、俺は喉の奥から叫びをあげていた。その時、急に視界が暗転し、気がつけば目の前にはパソコンのディスプレイが映っていた。……夢だったのか? 高鳴る心臓を押さえ、喉の奥でひゅうひゅうと音を立てる息を整える。全身から吹き出した汗で、Tシャツの襟首はぐっしょりと湿っていた。


 机の上のデジタル時計。その温度計は、三十五度を示していた。――暑いわけだ。下手をすれば外より暑いんじゃないか?


 天井のビルトイン型エアコンからは、もはや冷気とは呼べないぬるい風がゆるやかに吹き出している。どうやらまた調子が悪いらしい。このまま寝ていたら、脱水症状で死んでたかもしれない――。そう思うと、悪夢で目を覚まさせてくれた静奈に、少しだけ感謝の念すら湧いた。


 窓の外に目を向けると、日はすっかり落ち、中庭は夜の闇に沈んでいた。けっこうな時間、眠ってしまっていたらしい。身体がだるく、喉の奥はカラカラに乾いている。デジタル時計の表示は「20:38」。


 ……まずい。たしか、21時に隣町のファミレスに集合だったはずだ。俺はエアコンのスイッチを切り、急いで部室の鍵を閉めて学務課へ向かったが、すでに窓口は閉まっていた。しかたなく警備員室に立ち寄って鍵を預け、大学をあとにする。


 駅に着くと、電車を待つわずかな時間に、ふと山崎先輩のことを思い出した。先輩は、いったい何を思って線路に飛び降りたのだろう。元気だったころの笑顔が、ふいに脳裏に浮かぶ。視線を線路に落としたその瞬間――


 闇の中、蠢く“何か”が目に入った。黒く、ぼんやりとした影。夢で見た、あの“人型の影”にそっくりだった。目がその影に吸い寄せられるように釘付けになる。逸らそうとしても、どうしても外せない。

 心臓がどくん、どくんと波打ち、冷や汗が背筋を伝う。喉が張り付いたように乾き、唾を飲み込むことすらできなかった。


『――番線に、電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください』


 駅構内にアナウンスが流れた。その音に瞬きをした瞬間、影は跡形もなく消えていた。……幻覚? 本当に? 目前に電車が滑り込んできて、仕事帰りのサラリーマンたちがぞろぞろと降りてくる。


 俺は深く息を吐き、そっと目を閉じた。――なんなんだ、いったい。どこにもぶつけようのない、形のない苛立ちが胸の中で膨れあがる。


 俺は電車に乗り込み、窓の外に流れる夜の風景をぼんやりと眺めた。冷房の効いた車内で、汗ばんだシャツがひんやりと肌に貼りつき、今度は寒気すら覚え始めていた。


 隣町の駅に着くと、タクシーを拾って行きつけのファミレスへと向かう。普段なら絶対にタクシーなんて使わない。けれど、今日はもう遅刻している上に、バイト代も入って少しだけ余裕があった。だから、ほんの少しだけ“甘え”たのだ――自分に。


 全体がガラス張りのファミレスは、夜の闇に浮かび上がるように明かりを放ち、その光が周囲の植え込みや駐車場を白々と照らしていた。タクシーを降りた俺は、料金を支払いながら携帯を確認する。時刻は二十一時二十九分――完全に遅刻だ。


 急いで店内に入ると、奥のテーブル席には遠藤先輩を除いた三人が既に揃っており、何やら話し込んでいた。俺が駆け寄ると、同時に三人の視線がこちらに向けられる。まるで、なにかを見透かすような、妙に静かな視線だった。


「すみません、遅れました」


 頭を下げた俺に対し、刈谷先輩がぽつりと呟いた。


「……これは、あれやな」


 彼はじっと俺を見つめ、唇の端をいやらしく持ち上げる。次に何を言われるか――だいたい予想はついていた。


「――ここ、お前持ちな」


「ですね」


 青山先輩が頬杖をついたまま、片眉を上げて薄く笑う。その隣で、静奈もわざとらしく小さく笑い、視線をそらした。つまり、今夜の会計は俺が負担するということだ。――まあ、想定の範囲内だ。反論しても無駄だろう。俺は観念して、素直にその“罰”を受け入れることにした。見たところ、注文されているのはドリンクバー三人分と山盛りポテトだけのようだった。


「刈谷、言質(げんち)とった?」


「もちろんや」


 刈谷先輩は得意げにスマホを取り出し、録音アプリの画面を俺に見せつけるように差し出してきた。その瞬間、三人は一斉にメニューを広げはじめる。まるで、ずっと“その合図”を待っていたかのように。


「俺は厚切りサーロインステーキだな。最近、食欲がなくてな」


 ――それ、食欲がない時に頼むメニューじゃないですよね? そうツッコミを入れようとした俺の横で、間髪入れずに刈谷先輩が言葉を挟んできた。


「じゃ、わいはビーフハンバーグ&カットステーキにしよか」


 俺はメニュー表に視線を落とす。どれも揃いも揃って、高額なメニューばかりじゃないか。気づけば、嫌な汗がじわりと背中を伝っていた。


「じゃあ、私は――」


 静奈が、探るような視線をこちらに向けてくる。その目には、どこか悪戯めいた光が宿っていた。その瞬間、俺の頭の中では反射的に電卓が動き出していた。道中に買ったジュースの代金、移動にかかった電車賃、タクシー代――そして、このファミレスでの支出。


 最近ついた悪い癖で、全てを時給換算してしまう。つい今しがた青山先輩と刈谷先輩の頼んだメニューの合計額は、俺の三時間分のバイト代にほぼ等しい。このままいけば、一日働いた対価が、そのまま夕食代に消える。そんなネガティブな思考が、頭から離れなかった。


「じゃあ、今のドリンクバーにサラダセットをつけるね」


 静奈が、軽く微笑みながらそう言った。その声には、ほんのわずかに優しさが滲んでいた。――もしかして、俺の顔に悲壮感っが滲み出ていたのかもしれない。安いセットを選んでくれたことに、胸を撫で下ろす自分が情けない。……俺は、まだまだ“男”として未熟なんだろうな。


 青山先輩がテーブル備え付けのタブレット端末で、全員分の注文をさっさと入力してしまう。ちなみに俺は、節約のつもりでドリンクバーだけにした。このまま浪費すれば、残高が危うい。そう判断せざるを得なかった。


 しばらくして料理がすべて揃い、ファミレスのテーブルは一気に色とりどりの皿で賑やかになった。“楽しい夕食”の始まりだ。――おもに先輩たちのね。俺は2杯目のジュースをすすりながら、豪快に肉を頬張る先輩たちを恨めしげに見つめた。


「そういえば、遠藤先輩は来ないんですか?」


 テーブルを囲むメンバーに問いかけたのは、素朴な疑問というより、どこか淡い期待が混じっていたからだ。もし遠藤先輩が遅れて来れば、会計は割り勘に――そう思ったのだ。


「ああ、連絡があった。病院行ったらしいけど、結局は夏風邪でな。点滴だけ打って帰ったらしい。今日は家で大人しく寝てるってさ。……ああ、そういえば病院の帰りに子犬に噛まれたとか愚痴ってたわ。泣きっ面に蜂ってやつだな」


 青山先輩が、あっさりと答える。そういえば、昼間にも静奈がそんなことを言っていた気がする。遠藤先輩が寝込むなんて、よほど体調が悪いのだろう。……となれば、お代はやっぱり全額俺持ちか。


 夕食を終える頃には、俺は六杯目の烏龍茶を飲んでいた。満腹感の代償として、せめて飲み物で元くらいは取らないと損だ。そう思って、ドリンクバーの限界に挑戦するようにグラスを口へ運んだ。


「さてと、今日の議題は……まぁ、わかるよな」


 青山先輩の声が、テーブルに落ちた空気を切り裂いた。


「今回の二人の死。それと、昼間の事情聴取の件だ」


 その一言で、空気がぐっと重くなる。誰もが言葉を失い、自然と視線を落とす。ファミレスの店内は他の客の姿もなく、妙に静かだった。店内BGMだけが、無機質に流れ続けている。どこか現実感のない、その音楽が、逆に耳に残って仕方がなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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