呪いの刻印
「このお札、なんて書いてあるんだ?」
そう言って、遠藤先輩が祠の外側に貼られていたお札を、何のためらいもなく一枚剥ぎ取った。紙は湿気を含んでいて、べりっと鈍い音を立てて破れながら剥がれる。俺と静奈は思わず顔を見合わせた。どちらの表情にも驚きと、どこか不安が滲んでいる。そのとき、すぐ後ろで青山先輩が俺の肩を軽く叩き、小声で囁いた。
「撮れ、今のうちに」
罰当たりだなと思いつつも、俺はデジカメのRECボタンを押した。ファインダー越しに遠藤先輩を捉えていると、不意に山崎先輩が静奈の手を引っ張って、無理やりカメラのフレームに入り込んできた。静奈は唐突な展開に面食らい、俺の方をちらりと見る。その視線は、明らかに「助けて」と訴えていた。
「えー、今回の“水の悪鬼伝承”、この企画を言い出したのは河合ちゃんです! じゃあ詳細を説明してもらいましょう~!」
山崎先輩は満面の笑みでそう言い、刈谷先輩にライトを近づけるよう合図した。刈谷先輩は「はいはい」と苦笑しながらライトの距離を調整する。青山先輩が「次のシーン行くぞ」という意味のサインを出し、山崎先輩は小さな声で「お願いね」と静奈に囁き、ウィンクを残してフレームから出ていった。静奈は一瞬だけ俯き、ため息をついてから俺のカメラに向き直った。
「……ど、どうも。河合と言います」
普段よりも明らかにぎこちない口調で、上目遣いに視線を向けながら話し始める。その照れくさそうな表情が、逆に新鮮で妙に魅力的だった。俺は少しニヤけてしまい、それに気づいたのか、静奈はわずかに眉をひそめて俺を睨んだ。
「――えっと。図書館で偶然見つけた古書に、こういう伝承が載っていて……」
静奈は、“水の悪鬼伝承”について、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……昔、この村の近くに住んでいた男が、ある日突然『水が、襲ってくる』って言い出したんです。それから家に引きこもって、誰とも会わなくなった……」
彼の異変は、日を追うごとに酷くなった。頬は痩せこけ、眼窩はくぼみ、目の下には濃い隈が浮かぶようになった。まるで、何かに蝕まれていくかのように。
「心配した隣人が様子を見に行ったんですけど――その日、夜になっても戻らなかった」
翌日、妻が心配して隣人の家を訪ねると、そこには血まみれで倒れた旦那の姿があった。体中には、無数の噛み跡と裂傷。隣人に襲われたのだと気づいた時には、もう遅かった。
「……男は、まるで獣のような声で咆哮して、奥さんにも襲いかかったんです」
彼女の悲鳴を聞いて、近隣の村人たちが駆けつけた。そこにいたのは――もはや人ではなかった。理性の欠片も感じさせない、血に塗れた“何か”。奥さんの腕に噛みついたまま、ぎょろりと村人たちを睨みつけるその目は、狂気に満ちていた。
「村人たちは、必死でその男を取り押さえようとしたんですけど……力が人間離れしてて。鎌や鍬で、どうにか……殺すしかなかったみたいです」
けれど、それで終わらなかった。男に関わった村人たちに、次々と同じ異変が起きはじめた。やせ細り、怯え、やがて誰かを襲う――。呪いのようにそれは広がり、村は静かに、確実に壊れていった。
「そんな時、ちょうど村を訪れた旅の僧が、事情を聞いて……この近くの洞窟に祠を建てるように言ったそうです。そこに仏像を供えて、二日間、念入りに祈祷をした。そしたら……それまで続いていた“悪鬼”のような発症が、ぴたりと止まったんです」
静奈はそう言って、ふと後ろの祠に目を向けた。俺もカメラを向け、ズームして画面を祠に合わせる。それは半ば朽ちかけた木造で、古びたお札があちこちに無造作に貼られていた。お札は湿気と年月にやられ、すでにその役目を終えたかのように風に揺れていた。
「……てことは、この祠の中に、その封印の仏像が入ってるってこと?」
山崎先輩が、首をかしげながら訊ねる。静奈は少し戸惑いながら、ぽつりと「たぶん……」と小さく呟いた。
「開けてみようぜ!」
遠藤先輩が注連縄を手際よく外し、祠の扉に手をかけた。俺は少し身を乗り出し、遠藤先輩と観音開きの扉がしっかりフレームに収まるようカメラを構え直す。祠に近づいた途端、カビのような湿った匂いが鼻をついた。足元にはコウモリの糞が積もっており、その刺激臭と合わさって、鼻の奥がひりつく。まともに息を吸うのもきつい。
それでも、皆どこか期待しているのか、無言のまま祠の周りに集まっていく。この扉を開けたら、何かが起きるんじゃないか――そんな漠然とした不安と好奇心がせめぎ合う。遠藤先輩がゆっくりと扉を開いた。中にあったのは、いくつかの古びた蝋燭立てと、くすんだ緑色をした銅製の小さな仏像だった。高さは十五センチほど。想像していたよりずっと地味だ。
皆、どこか拍子抜けしたような表情を浮かべていた。正直、映像映えするような“呪いの煙”みたいな演出を少しだけ期待していたのかもしれない。まあ、現実はこんなものか。
遠藤先輩が仏像を持ち上げ、上下に振ってみせる。その動きが妙に卑猥に見えてしまうのは、俺の心が汚れているせいだろうか。それとも、遠藤先輩の普段のイメージのせいだろうか。
「先輩、私にも見せてもらって良いですか?」
静奈が遠藤先輩から仏像を受け取り、じっくりと様々な角度から眺め始めた。黒塚先輩も収音機を地面に固定し、祠の中を覗き込んで調べていた。
「意外と地味やったな。なんか演出とか追加するん?」
刈谷先輩がライトの角度を変えながら、独特のイントネーションで青山先輩に尋ねた。青山先輩は少し考え込み、やがて蝋燭立てに新しい蝋燭を差して火を灯した。その後、仏像を元の位置に戻し、全員で手を合わせて拝むシーンを撮ることになった。どうやら、供養して締めくくる――という演出に落ち着いたらしい。
最後にMCのふたりがまとめのコメントを入れて、これでクランクアップ。ちなみに「クランクアップ」は和製英語で、本来の意味とは少し違うと青山先輩に教わった。昔の手回し式カメラに由来する言葉らしい。
撮影を終え、祠を後にした帰り道。刈谷先輩と黒崎先輩が、ぬかるみに足を取られて盛大に転んだ。誰かが「呪いの始まりだ!」と茶化し、皆で笑った。黒崎先輩は、どうやら自重に負けたらしく、新品のジーンズが見事なダメージジーンズへと変貌していた。膝を擦りむいて、うっすらと血がにじんでいる。本人は苦笑いを浮かべ、ぽりぽりと頭をかいていた。
洞窟を抜けたころには、陽はすでに傾き始めており、空は茜色に染まっていた。最寄りの無人駅に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。誰もいない小さな無人駅には、どこか不気味な静けさが漂っている。まるで、何か怪異が始まりそうな気配がある。その空気感が面白くて、俺はカメラを回してみた。……ひょっとしてここから、“きさらぎ駅”編が始まるんじゃないか? そんな妄想が頭をよぎる。
カメラをふと右に振ると、線路際に佇む青山先輩の姿がレンズに収まった。口にくわえた煙草の火が、赤く小さく明滅している。それが一瞬、「鬼火」のように見えた。
「なんや? 本命は部長かいな」
肩にずしりとした重みを感じて横を見ると、刈谷先輩がいつの間にか肩を組んできていた。汗と土埃にまみれた先輩の体温が、やけに近い。最初は何を言われたのか分からなかったが、どうやらカメラを青山先輩に向けていたのをからかっているらしい。
「……何を訳の分からない事を言ってるんですか。もう、暑苦しい」
泥まみれの上に、汗で湿った服が密着してくる。気持ち悪さと先輩の馴れ馴れしさが重なって、不快感が倍増する。さっきの涼やかな夕空が、嘘のように思えた。
「……つれへんな、そこはこう。”なんでやねん!”とかノリツッコミしてくれな」
刈谷先輩が、困った子どもを見るような表情で、俺の頬を指先でつつく。普段なら笑って返せるのに、今日は違った。暑さと疲労、そして汚れた服の不快感が重なり、とてもそんな気分にはなれなかった。よく見ると、皆も一度は転んだのか、切り傷や擦り傷に加え、泥や糞尿であちこちが汚れていた。
「なんか、今回は意外と地味な調査でしたね。もう少し、祠の中に不気味な物とかあれば良かったんですけど」
「せやな。結局、気ぃ狂ったヤツが暴れたんと、流行り病が重なったんやろな。伝承なんて、そんなもんかもな」
刈谷先輩は肩をすくめて、苦笑した。そういえば、帰り道で静奈も、どこか拍子抜けしたような感想を口にしていたのを思い出す。この話を持ち込んだのは、静奈だったから無理もない。実際に祠が残っていたことには驚かされたが、当時の惨劇を示すような痕跡は、結局ひとつも見つからなかった。まぁ、現実なんてそんなものだろう。
しばらくして電車がやってきた。俺たちは無言で乗り込み、それぞれの帰路についた。当然といえば当然だが、”きさらぎ駅”に辿り着くこともなかった。
――こうして、「水の悪鬼伝承」の現地取材は終わりを迎えた。その後、約四日間かけて映像を編集し、メンバー全員のチェックを終えたうえで、動画サイトにアップロードした。静奈が撮影した映像はワイプで活かし、テロップも駆使して、できる限り臨場感を演出したつもりだ。結果として、再生数はそこそこ伸び、反応も悪くなかった。
残りの夏休みは、バイトに明け暮れていた。サークルには顔を出さず、特に何事もなく、時間だけが過ぎていった。
――この時、俺はまだ知らなかった。「水の悪鬼」の呪いが、静かに、着実に。俺たち全員を、蝕みはじめていることを――。
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