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反撃

 俺は朝早く、大型のホームセンターを訪れた。自衛のための道具を買いそろえるためだ。得体の知れない追跡者、突如現れる黒い影――恐怖に怯えて暮らすなんてまっぴらだ。それに、静奈や刈谷先輩とも連絡が取れない。あの二人も、きっと殺されたに違いない。


 俺は空手の有段者だ。並の一般人に負ける気はしない。だが、水の悪鬼という正体不明の悪霊を素手で相手にするのは、あまりに危険すぎる。まずは物理的な武器を確保する。候補は既に絞ってある。携行しやすく、近接戦闘向きの「鉈」か「キャンプ用の斧」が最適だろう。


 防刃ベストや防刃アームカバー、ネックカバーはネットで注文済みだが、武器だけは実物を手にして選びたかった。ネイルガンやチェーンソーも考えたが、大きさのせいで持ち歩きには不便だ。手頃な重さと形状のものを選び、一点ずつカゴに放り込む。


 次は精神的な攻撃手段だ。古来より、悪霊には聖水と天然塩が効くと相場が決まっている。塩は天然塩と書いてある二キロ袋を購入するとして……聖水は売っていない。なら、純水を買って教会で神父に祈ってもらえば良いのだろうか? 良く分からないので諦める。


 ああ、そういえば、某消臭スプレーが霊に効くとネットで読んだことがあった。手頃だし、それも試そう。ついでに虫よけスプレーも追加する。あとは雑貨をいくつかカゴに入れ、レジへと向かった。会計を済ませて帰宅すると、すぐに盛り塩を部屋の四隅に置いた。


 設置にあたり、改めて盛り塩の由来や作法、配置場所を調べてみた。どうやら日本由来と中国由来の二つの説があるらしい。今回、俺が求める用途は日本由来の「厄除け」のほうだ。水回りは避けたほうが良いとする説と、水回りにも置いて構わないとする説――二つの情報があり、少し迷った。だが、今回の目的は悪霊の侵入を防ぐことであって、運気上昇ではない。俺は各部屋の要所要所に、説明どおり盛り塩を設置した。


 次に、消臭スプレーをカーテンやベッドなど部屋全体に吹きかける。現代的な魔除け――信憑性には欠けるが、今は取捨選択している余裕などない。それこそ、藁にもすがる思いだ。


 スプレーの霧が漂う中、不意に携帯の着信音が部屋に響いた。俺は携帯を手に取り、画面を見て息を呑む。表示された名前は――「刈谷和彦」。良かった。先輩はまだ生きていた。俺は急いで通話ボタンを押す。


「先輩、お久しぶりです。――今、どこですか?」


「――篠。助けてくれ」


 確かにそう聞こえた。先輩は、今まさに何かに襲われているのか?


「先輩、今どこですか。助けに行きます!」


「――今、大学の近くの……廃ビル」


 大学の近くの廃ビル――ああ、あったな。裏路地を進んだ人気のない場所に、ひっそりと佇むコンクリ打ちっぱなしの建物。マンション建設の途中で経営が破綻し、そのまま数年放置されている。不良のたまり場だという噂も聞いたことがある。そんな場所に逃げ込むほど、先輩は追い詰められているのか。いや、きっと先輩も俺と同じだ。水の悪鬼と戦っているんだ。――助けなきゃ!


「先輩、今行きます! 絶対に死なないでください!」


 俺はそう叫び、通話を切った。携帯をポケットにねじ込み、先ほど購入したキャンプ用の斧をズボンの背面ベルトへ差し込む。その上から薄手の七分袖のカーディガンを羽織った。一見すれば丸腰に見えるだろう。水の悪鬼が襲ってきても、不意を突けるはずだ。――俺が呪いを断ち切ってやる。


 小型リュックには収納に特化した寝袋、着火剤、十徳ナイフ、固形燃料など、コンパクトなキャンプ道具を詰め込む。仮に職務質問で斧を見られても、これなら言い訳できる。そう踏んで、俺は先輩のいる廃ビルへ向かった。


 真上から照りつける日差しが、嫌になるほど眩しい。――地球はいずれ太陽に飲み込まれると聞いたことがある。この暑さや日差しの強さは、その兆しなんじゃないか。俺は強烈な陽光から逃げるように、人波を縫って走った。今日に限って、真夏のように照らす太陽が憎い。


 電車に飛び乗り、息を整える。この短い移動時間さえ、もどかしい。腰の斧が邪魔で座席には座れない。いや、それでいい。立っていた方が、すぐに動ける。この電車の中だって油断はできない。


 ◇


 約三十分後、俺は廃ビルの前に立っていた。刈谷先輩の言っていた場所だ。見上げれば、ざっと十五階はあるだろうか。窓もない無機質なコンクリートの巨塔。至る所に下手なスプレーの落書きが広がり、治安の悪さと長年の放置が一目でわかる。「先輩!」――そう叫びかけたが、ぐっと飲み込んだ。わざわざ敵に自分の位置を知らせるなんて、愚の骨頂だ。


 高さはあるが、フロアはさほど広くない。俺は周囲を警戒しながら柱の陰に身を隠し、一階、二階、三階……と慎重に登っていく。エレベーターなど設置される前の建物で、帰りも徒歩だと思うと気が重い。それでも、日陰で薄暗く、熱を吸い込んだコンクリートと風通しの良さが相まって、外よりは幾分か過ごしやすかった。


 十階から十一階へと続く階段の途中で、俺は足を止めた。そこには、乾ききったばかりのような黒ずんだ血痕が、床や壁にまだらに広がっていた。胸の奥の不安が一気に膨れ上がる。――まさか、先輩の血じゃないだろうな。高鳴る心臓を抑え込むように深く息を吐く。


 十年以上、空手で鍛えた肉体と精神がある。焦れば相手の思うつぼ――それは試合で何度も学んだことだ。だが、その精神力も、十一階に足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれた。十代か二十代ほどの若い男が三人、血塗れで床に倒れている。


 頭は固いもので何度も潰されたのか、潰れた頭部から大量の血とゼリー状の液体が滲み出ていた。その光景を目にした瞬間、俺はこらえきれず、胃の中のわずかな内容物をすべて吐き出した。ほとんどが胃液だったせいで、喉が焼けるように痛い。現実離れした惨状が脳の回路を灼き切る音が、幻聴のように耳の奥で鳴った。


 ――逃げたい。今すぐここから。だが、これも水の悪鬼の仕業なのか? こんな凄惨で物理的な殺し方まで、あいつにできるのか? 抑えていた恐怖が、再びじわじわと蘇ってくる。それでも――刈谷先輩を助けなければ。そう思った瞬間、背後から人の気配がした。それは、これまで感じたことのないほど濃い殺気を帯びていた。


 振り返った俺の視界に、血のこびりついた金属バットを大きく振りかぶる刈谷先輩の姿が飛び込む。咄嗟に両手で頭をかばった。先輩と目が合う――だが、バットは勢いそのままに振り下ろされ、鈍い衝撃と激痛が左腕を走る。


「せ、先輩! 俺です、篠原です!」


「うわあああああっ!」


 先輩は正気ではなかった。血走って充血の目、口端から垂れるよだれ、返り血でまだらになったシャツ。そして止まることなく振り下ろされる、凹みと血にまみれたバットが、俺の両腕を容赦なく叩きつける。何度呼びかけても反応はなく、代わりに恐怖と憎悪が混じった目で睨みつけ、明らかな殺意を向けてくる。


 たまらず俺は、階段を駆け上がった。走りながら、最悪の可能性が脳裏をよぎる。――刈谷先輩は、もう水の悪鬼に取り憑かれてしまったのではないか。


 伝承にあった――水の悪鬼に取り憑かれた男が、村人を襲うという記述。今まさに、その光景が目の前で繰り広げられているのではないか。走りながら、俺は恐る恐る後ろを振り返った。そこには、悪鬼そのものの形相をした先輩が、叫び声を上げて俺を追ってくる姿があった。


 気づけば俺は、屋上のコンクリの縁まで追い詰められていた。――もう、逃げ場はない。


「先輩、やめてください! 俺です、篠原です! わかりませんか!?」


「うるあああああぁっ!」


 次の瞬間、曲がった金属バットの角が脇腹を抉る。あまりの痛みに膝が砕け、息が詰まる。背中、腕、膝――容赦なく振り下ろされるバットの衝撃に、我慢の限界が訪れた。もう、これは刈谷先輩じゃない。水の悪鬼そのものだ。このままでは、確実に殺される。――ならば、やるしかない。


 俺は腰の手斧を握りしめ、悪鬼の頭部めがけて横から振り抜いた。意表を突かれた悪鬼の頭に、斧が深々と突き刺さる。目を大きく見開き、驚愕の表情のまま、涙のように血をこぼす悪鬼。頭には、小型の斧が突き立ったままだ。


「あ……ああ……」


 バットが手から落ち、悪鬼はよろめきながら後退る。そして、屋上のひび割れた縁に足を取られ――そのまま、落ちた。


 胸が激しく波打つ。血に濡れたバットが足元に転がっている。これは幻覚なんかじゃない。現実だ。全身の痛みに耐えながら、俺は恐る恐る縁から下を覗き込む。そこでは、建設途中で放棄された鉄骨が悪鬼の頭部を貫き、柘榴が爆ぜるように頭蓋が砕けていた。脇には、血に汚れた俺の新品の斧が転がっている。


 ――俺が先輩を殺した。


 いや、違う。正当防衛だ。いや、それも違う。あれは先輩じゃない。悪鬼だ。俺は悪くない。悪くないんだ。そう自分に言い聞かせるように、涙を流しながら――無我夢中で走り出した。

お読みいただきありがとうございます。

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