松田メモ②
夕方、都内で狂犬病の発症者が確認されたという一報が警察署に届いた。もはや日本国内では根絶されたと思われていた感染症――その“再発”という異常事態に、保健所(自治体感染症対策課)、所轄署生活安全課、さらには厚生労働省までが騒然となった。
ほどなくして、ニュース速報で報道が流れた。その時点では感染経路も不明で、報道内容は「都内在住の20代男性」という曖昧なものだった。だが、夜の全国ニュースでは事態がさらに拡大し、感染症対策に関する専門家のコメントと共に、大々的に取り上げられていた。
――翌朝。
俺はデスクで新聞と照らし合わせるようにして、警察庁から送られてきた発症者リストを見た。その名前を見た瞬間、思わず目を見開く。
――遠藤健司(21歳)。
メモ帳をめくり、先日事情聴取した大学のオカルトサークル関係者リストを確認する。間違いない。同じ名前、同じ年齢。……あの時話を聞いた、あの学生だ。
「五十嵐さん……これ、見てください」
俺は静かにその名前を告げ、手帳を差し出した。
五十嵐さんは一瞥しただけで、すぐに電話を取り、病院担当医との事情聴取の手配を始めた。「感染症だから事件性は無い」――形式上はそうなるはずだ。しかし、五十嵐さんの目は、もっと先の“異常”を見据えているようだった。
以下は、医師による口頭説明と現場確認の簡易記録である。
発症者:遠藤健司(21歳・大学生)
現在、意識混濁状態で昏睡に近い。面会謝絶。搬送時には重度の幻覚症状、恐水症による錯乱状態で、自傷・他害の恐れがあるため四肢を拘束する必要があった。
直近の通院履歴として、数日前に近隣クリニックで夏風邪との診断を受け、点滴治療をしていた記録がある。その後、症状が急激に悪化し、狂犬病が疑われた時点で国立国際医療研究センター病院へ緊急搬送。狂犬病は一類感染症・四類感染症に指定されているため、厳重な感染管理下に置かれている。
感染経路に関しては、右手甲に小型犬による噛傷跡があり、これが感染源であると医師は説明していた。ただし、搬送時にはすでに傷口は治癒しており、感染経路の特定は困難を極めている。
「事件性は確認されていない」という名目で、それ以上のカルテ情報や詳細な経緯の開示は拒否された。あくまで感染症患者としての扱いであり、警察がこれ以上踏み込むには、新たな“裏付け”が必要になる。
俺の予想は、やはり的中していた。先日事情聴取を行った大学生――遠藤健司。発症者として名前が挙がったのは、まさにその人物だった。
気になったのは、病院の医師が口にした「恐水症」という言葉だった。その症状は、黒塚航と山崎茜が死亡直前に残した最後の書き込み――「水が怖い」と、あまりにも酷似している。
俺は改めて、狂犬病の症状について調べ直した。――急激に水への恐怖(恐水症)が現れ、水分を受け付けなくなる。光や音に異常に敏感になり(過敏反応)、次第に幻覚や幻聴が現れる。そして、錯乱状態となり、壁に向かって叫ぶ、暴れるといった行動が顕著に見られる。
しかし、今回の件は“小型犬の噛み傷”が原因とされている。発症までに長い潜伏期間を要する狂犬病が、このタイミングで症状を現し、しかもこの状況下で発覚した――。そして、発症した以上、生存率は限りなくゼロに近い。いや、現実的に言えば、遠藤はもう助からないだろう。
大学の同じサークルで、短期間に立て続けに死者が出ている。腐乱死体、投身自殺、そして今回の狂犬病。一見すれば無関係に思える事象が、こうも連鎖するのは、偶然にしては出来すぎている。誰だって“何か”を疑いたくなる。そう思わせるに十分な材料が揃っていた。五十嵐さんは、腕を組んでしばし黙考していたが、やがてポツリと呟いた。
「……もう一度、サークルの連中に直接会って話を聞こう」
俺は、その言葉に小さく頷くしかなかった。
河合静奈が話していた「水の悪鬼伝承」。あの時は“昔話”として聞いていたはずなのに、いまや、その禍々しさが現実の皮膚感覚として背筋を撫でてくる。「水が怖い」――あの言葉が、伝承の中から這い出し、現実の中を一人歩きしているような、不気味な錯覚に囚われていた。
その後、五十嵐さんは誰かに電話をかけ、夕方に会う約束を取り付けていた。相手の名前は告げられなかったが、その様子は、すでに動き出した“何か”を追うかのように、冷静でいて、どこか急いでいるようにも見えた。
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