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始まりの祠

 俺たちは今、とある洞窟を目指して、群馬県の山際に広がる森を歩いていた。ありていに言えば、夏休みを利用したサークル活動だ。大学のオカルトサークルに所属している俺たちは、興味深い伝承の現地調査に向かっている。

 

 ――「水の悪鬼伝承」


 江戸時代よりも前の時代、ある村で“水の悪鬼”と呼ばれる怪異に憑かれた男が、突如として暴れ出し、村人を次々と襲い始めた。村人たちはその男を取り押さえて殺すが、関わった者も全員、奇妙な苦しみの末に死んだという。


 恐れを抱いた村長はそれを“祟り”と断じ、村の奥にある洞窟へ小さな祠を建て、悪鬼を封印した……という伝承が残っている。今ではその村は地図からも姿を消し、口伝と文献に記録されたこの怪談だけが、ひっそりと語り継がれている。


 俺は篠原圭吾(しのはらけいご)。某・東京の大学に進学したばかりの一年生だ。このサークルには暇潰し程度の気持ちで入ったが、気さくな先輩たちに囲まれて、予想外に居心地は良かった。活動内容は、オカルトめいた噂や伝承の調査、それを動画にしてSNSへ投稿するというもの。


 最近では廃墟や立入禁止区域の扱いが厳しく、撮影許可のない場所では炎上案件になりやすいらしく、探索範囲も限られてきていると先輩はぼやいていた。サークルのメンバーは全部で六人。動画の収益は月に数万円程度、それを活動資金にして細々と続けているマイナーな団体だ。


 今回の目的は、「水の悪鬼伝承」に登場する祠の調査。東京から吾妻線へ、さらにローカルな上毛電鉄へと乗り継ぎ、そこから森の入口までバスで移動。さらに、湿った山道を二時間ほど歩き続けている。


 木々が直射日光を遮ってはいるが、日本の夏特有のねっとりした湿気が、身体の奥まで染みついてくる。シャツの内側が常にぬめついていて、時折、靴の中で湿ったような不快感を感じる。暑さと疲労、そしてなにより不快な湿度が、メンバーたちの口数を減らし、苛立ちを助長していた。空気の匂いもどこかおかしい。腐葉土の匂いにしては、鼻の奥がひりつくような刺激がある。


「おい、圭吾。ちゃんと撮れてるか?」


 突然、青山先輩の声が背中越しに飛んできた。彼――青山悠(あおやまゆう)はこのサークルの部長で、四年生。オカルト全般に詳しく、話も面白い頼れる先輩だ。けれど、今日はいつもより口調が強い。その顔は、うっすらと汗に濡れていたが、どこか不機嫌そうだった。暑さのせいだ。たぶん。こういうときは、余計なことは言わない方がいい。


「はい、ばっちり撮れてます。でも、暑さのせいかバッテリーの減りが早いですね」


 俺がそう返すと、前を歩いていた山崎先輩の顔がフレームに映り込んだ。額の汗をぬぐいながら、彼女は軽く笑う。


「ほんと、暑すぎだよねー」


 そう言って、タンクトップの裾をつまみ、前を扇ぐようにパタパタと動かす。そのたびに布が揺れ、谷間が一瞬だけ覗く。思わずデジカメのピントを下げそうになるのをぐっとこらえて、画角を空へと逸らした。


 彼女の名前は山崎茜(やまさきあかね)。二年生で、ルックスもスタイルも、大学内ではけっこうな有名人らしい。うっすらと桃色に染まった頬に汗が流れて、どことなく色っぽい。ただ――重度のオカルト好き、というギャップがネックになって、恋愛対象にはされにくい……と、本人がどこか寂しそうに話していたのを覚えている。


「こら、篠原くん。どこ撮ってるのよ」


 後ろから頭を小突かれ、振り向くと静奈が不満げな表情で睨んでいた。彼女は河合静奈(かわいしずな)。俺と同じ一年生で、このサークルで出会った。民俗学専攻で、今回の「水の悪鬼伝承」も、もともとは彼女が資料を掘り出してきた話だ。何かと絡んでくるタイプで、同い歳ということもあってか、妙に距離が近い。そのくせ、やたらと真面目な顔をして、冗談に引っかかってこない。


「いや、森の風景を撮ってただけだけど……」


 軽く笑い飛ばしたつもりだったが、目線を合わせるとうまくごまかしきれなかった。顔のどこかが引きつる感覚――自覚しているだけに、なおさら情けない。こういう時、自然に振る舞える大人ってやつになるには、あと何年かかるんだろうか。


「篠原と河合って、本当に仲ええなあ。もしかしてもう付き合ってるんちゃうん?」


 急にカメラのフレームに顔を突っ込んできたのは、刈谷和彦(かりやかずひこ)先輩。エセ関西弁が板についた、このサークル一番のムードメーカーだ。青山先輩と同期だけど、バイトに明け暮れたせいで単位を落とし、二度目の三年生をのびのびと満喫している。


 なにかにつけて、俺と静奈をカップル扱いしては、からかってくるのがいつものパターンだった。


「違います」「違います」


 俺と静奈が、反射的にぴったり同じタイミングで返すと、周囲から笑いが起きた。刈谷先輩は「やっぱ仲ええやんか〜!」と漫才さながらにツッコミを入れて、また一笑い誘う。


 こういう空気に包まれると、少し照れくさい。それはつまり、静奈のことを――どこかで“女の子”として意識しているという証拠だと、自分でもわかっている。俺は正直、女性と付き合ったことがない。アプローチの仕方も、距離の詰め方もよく分からない。だから、こうして何気ない会話のなかで見せる彼女の表情や言葉に、一喜一憂してしまう。


「じゃあ、河合ちゃん。僕と付き合わない?」


 前列から軽い声が飛び、それに反応してデジカメのレンズを向けると、ファインダー越しに遠藤先輩の笑顔が映った。彼――遠藤健司(えんどうけんじ)は、大学でも名の知れた“ナンパ師”。甘いマスクに巧みな話術、それに慣れた手つきで女性を誘うのが得意で、噂によれば、彼に振られた女子が「被害者サークル」を作っているとかいないとか……。


「……先輩、そのうち刺されますよ?」


 静奈の素っ気ない返しに、俺は思わず小さく笑ってしまった。少しだけ胸を撫で下ろしたのは、彼女が想像よりずっと“ブレない”反応を見せてくれたからだ。


 自分でも驚くほど、心の奥で湧き上がった小さな独占欲。それに気づいてしまったとき、少しだけ自分が幼く感じた。もっと自然に、もっと軽やかに、女性と会話ができたら……。それは、俺にとってまだ少し遠い場所にある技術だった。


「おっ、みんな、見えたぞ!」


 先頭を歩いていた黒塚航(くろづかわたる)先輩の声が、森の静寂を破るように響いた。彼は三十一歳の社会人で、このオカルトサークルのOB。趣味と実益を兼ねて引率役を買って出るという、なかなかに奇特な人だ。温厚で、どこか親戚の優しいおじさんのような雰囲気があり、最近は代謝の衰えも手伝って、お腹まわりの膨らみが目立ってきていた。


 黒塚先輩の指差す先にカメラを向けると、森の奥、切り立った崖の根元に、ぽっかりと口を開けた小さな洞穴が見えた。……洞窟というより、本当に「穴」といったほうが近い。入り口は高さ二メートルあるかないか、長く伸びたツタが内側から這い出し、崖の表面を覆い尽くしている。ツタの葉はまだ若く瑞々しい緑色で、そこだけ異様に生き生きとして見えた。


 内部の様子は暗くてよく分からないが、奥行きはありそうだった。自然にできた空間なのか、人為的に広げられたのか……今の時点では判断がつかない。俺は手早く、様々なアングルから入り口を撮影しはじめた。素材は多ければ多いほど編集が楽になる。足元に注意しながら、ツタをかき分け、洞窟の入り口へ一歩踏み出す。


 その瞬間、ふわりと何かが鼻先をかすめた。獣のような、生臭い匂い。けれど、それだけでは説明できない違和感があった。古びた雑巾のような……いや、傷口に触れた時のような、どこか“肉の匂い”に近い。足元の岩肌には、苔がしっとりと広がり、踏むとぬるりとした感触が靴底越しに伝わる。頭上では、岩壁の割れ目から小さな水滴がぽつ、ぽつと音を立てて落ちていた。


「撮影、大丈夫か? 今のうちにバッテリー替えとけよ」


 青山先輩の声が背後から飛んできて、現実感が戻る。それぞれの準備が始まった。刈谷先輩はライトを点検し、黒塚先輩は収音マイクの感度を確認している。俺は念のため、予備のSDカードとバッテリーを交換する。メインカメラは俺、サブカメラは静奈が担当。


 このサークルでは撮影役が先に進み外観映像を収める。次に後方を向いて、正面から進んでくるアングルを撮る。そのため、自然と俺が先頭を歩くことになるのだ。そして、静奈は最後方から別アングルを狙う。まずは恒例、洞窟入り口でのオープニング撮影からだ。


「どうも、オカルトサークル“(うつろ)”の遠藤です!」


「山崎茜でーす!」


 メインMCはこの二人。大学内でも有名な“美男美女”のペアで、顔の良さは映像映えにも直結する。リアルさを演出するために、他のメンバーも随所で顔を出すが、やはり中心はこの二人に任せている。目指しているのは、心霊ドキュメンタリーに、ほんの少しのリアリティを添えた、よくあるスタイルの映像作品だ。


 実際のところ、今まで本物の心霊現象に出くわしたことはない。それっぽく見える映像は撮れても、光の反射や音の反響といった物理的な現象ばかりだ。編集時には、ノイズを加えたり、音声に歪みを入れたりして“それっぽさ”を演出する。


 俺がサークルに入ってから、まだ数ヶ月。そんな加工の裏側を知った今でも、どこかで――本当に、なにかが起きたらどうするんだろう。そんな考えが、ふと脳裏をかすめることがある。だが、口に出すほどのことではないと、自分に言い聞かせた。


 洞窟前でのオープニングトークを終えると、いよいよ内部の探索が始まった。俺は腰を少し屈め、慎重に足を踏み入れる。トレッキングシューズを履いていても、湿った岩肌と苔のせいで足元は滑りやすく、うっかりするとバランスを崩しそうになる。洞窟内は外の気温よりも幾分か低く、温度差からか涼しさを感じる。


 狭い洞窟の空間に、自分たちの呼吸音と足音が重たく反響する。まるで、洞内そのものが息をしているような、妙な圧迫感があった。俺は前を照らすライトの中で、慎重にカメラを構えながら進んだ。時折立ち止まり、左右の壁や天井にレンズを向ける。


「しっ、何か聞こえる」


 低い声で制止したのは、黒塚先輩だった。収音マイクを構え、ヘッドホンをぐっと押さえる。俺たちは足を止め、無言のまま、その動作を見守った。ライトの明かりがなければ、目の前すら見えないほどの暗闇。ヘッドライトと撮影用の照明が、鈍い色を反射しながら濡れた壁を照らす。そのわずかな光の下、全員が固唾を飲み、耳を澄ます。


 遠くで、何かが……擦れるような、くぐもった音が、確かに聞こえた。一つではない。複数の何かが重なり合い、擦れ合っているような音。動物か、人か、それとも……。


 音は、間違いなく洞窟の奥から――闇の向こうから響いていた。ぞわりと背筋に冷たいものが走る。皆の視線が、自然と同じ一点に集まっていた。真っ黒な深淵、先の見えない闇。その先に何があるのか、誰もが一瞬、想像することを躊躇した。


 ――その時だった。暗闇の奥から、黒い霧のような“何か”が、ふわりと蠢くように現れた。俺は反射的にカメラを下ろし、肉眼で確認しようとした。しかし光量が足りず、何もはっきりとは見えない。カメラを再び構えた、その瞬間。


 ――バサッ! 闇の奥から、数え切れないほどの黒い影が一斉に飛び出してきた。


「うわっ!」「うそ、コウモリ!?」「やばい、来る!」


 叫び声とともに、洞窟内が混乱に包まれる。何百、いや何千という数のコウモリが渦を巻くように押し寄せ、俺たちの頭上を掠めて飛び抜けていく。慌てて身を屈め、カメラを守るように体を丸めた。羽音と風圧、反響する悲鳴が、狭い空間に充満する。視界は一瞬、羽ばたく黒い影で覆われ、空気そのものが蠢いているようだった。


 やがて、暴風のようなコウモリの群れは、洞窟の外へと流れ出ていった。それでも、しばらくの間は全員がその場で動けずにいた。あたりには、コウモリ臭――血と汗と泥を混ぜたような、生臭くて濁った匂いが立ち込める。


 俺は咳き込みながら姿勢を戻し、自分のズボンが地面の水滴でずぶ濡れになっているのに気づいた。生温かく張りついた布が、不快に肌へまとわりつく。壁に寄りかかった背中も擦れて、ヒリヒリと痛む。皆も似たような状態で、咳き込みながら苦笑いを浮かべ、よろよろと立ち上がっていた。


「いたた、すりむいちゃった」


 山崎先輩が右肘をすりむいたようで、軽くさすっている姿が見えた。


「ゲホッ……映像、撮れてたか?」


 誰かがそう呟いた。正直、暗すぎて画としては微妙かもしれない。でも、ライトの揺れと叫び声、それに羽音の混乱――素材としては、悪くない。そう思いながら、俺は黙って録画ボタンの点灯を確認した。


「さ、さすがにびっくりしたな……」


「怪我はないか? 機材も無事か?」


 先輩たちも徐々に落ち着きを取り戻し、それぞれ身の回りや装備を確認しはじめた。幸い大きな問題はなく、俺たちは再び撮影を再開。洞窟の奥へと歩を進めていった。進むにつれて洞窟は徐々に広がり、三列で歩いても余裕があるほどの広さとなった。


 およそ一時間ほど歩いたところで、暗闇の中に何かが浮かび上がった。刈谷先輩がライトを向けると、そこには高さ約一メートルほどの、古びた祠が静かに佇んでいた。祠は周囲を注連縄(しめなわ)で囲われ、何枚もの古びたお札が所狭しと貼られている。不思議なことに、この場所だけは時が止まったかのような、江戸時代以前の空気がそのまま残っているように感じられた。


 このフロアだけ天井が高く、自然光は届かないものの、どこか広々とした開放感がある。地面は黒っぽいコウモリの糞でびっしりと覆われており、この洞窟が彼らの巣であることを物語っていた。


「これが……水の悪鬼が祀られている祠」


 俺の隣で、静奈が小さな声で呟いた。彼女の瞳は祠から離れず、まるで釘付けになっているようだった。カメラを構えることすら忘れ、その場に立ち尽くしていた。俺はその姿をじっと見つめながら、いったい何が彼女をそこまで惹きつけるのか、心の中で問いかけていた。


 そして、メンバー全員が言葉を失い、静寂だけが洞窟内に満ちていった。

お読みいただきありがとうございます。

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