みかがみ
ねぇ、と隣の席から声がかかった。
各自、タブレットを用いた調べ学習の時間だ。教室は程よく騒めいていて、担当教員はずっと離れた机間で質問を受けていた。顔を向けると、見てとばかりにその子のタブレット画面を向けられた。
「・・どこ?」
初夏の季節に行われる宿泊学習の中で行われる自主研修箇所を調べている筈なのに、やたらにきらきらしい建物である。第一次産業の体験がメインの行事だから、自主研修先の町も小さな地方都市だ。その小さな町にあったのなら浮きまくるような建物とお洒落なストリートである。案の定、首都圏の有名な街の一画だった。
「行きたいところ、もう決めたの?」
控えめに指摘したが、悪びれない笑みが返ってきた。
「神社とかお寺とか、江戸時代の古い建物とか渋すぎ。わたしは行きたいという人に付き合ってあげるタイプだから。」
とか言いながら、いざそういうコースを組むと文句をえんえん言うタイプだと、小学校時代の経験でピンときた。
班の組合わせは行きたい場所別で希望を取って先生が調整すると聞かされているが、このクラスだけなら組む可能性は六分の一、学年ならば十八分の一か。
一緒になりませんようにとの祈りは、当然顔に出すはずもないから、
「ほら、これ。」
と、会話を続ける気満々で、とあるストリートビューの画面を指し示された。喉の奥に溜息を潰して目を向けた。
整えられた枝ぶりの街路樹、工夫を凝らした構えの店が軒を連ねるお洒落な石畳の歩道だった。その一部に不自然な靄がかかっている。
「なに?」
違和感に首を傾げると、
「知らない?」
と嬉しそうに言を継がれた。
「写っていたらだめなものとかこうして消すんだよ。有名人だと事務所がチェックするらしいよ。肖像権とかあるんじゃない?」
「そうなんだ。」
さすが都会。家の近くをいつか検索したら近所のおじいさんが散歩している後ろ姿が写っていたが、だれも通報しないから、たぶんいまもそのままだろう。
「・・実はね、たぶん推し。」
見えるわけもないのに靄を見つめて嬉しそうだ。
「ライブで、って教えてくれたの。」
それが自慢したかったらしい。
曖昧に頷いていると、ぱっとタブが切り替えられて、苔むした狛犬が画面に現れた。教員が移動してくるのを察したらしい。澄ました顔で姿勢を正す級友から、自身のタブレットに目を戻した。
狛犬の神社からストリートビューに地図を切り替えた。車が入って行けないところは見れないだから、急な階段は登れない。級友が見ていたような、空が見えないように建物が軒を連ねた場所とは対照的な、田んぼと畑、低い家並の集落が交互に現れるだけだ。消した痕跡は一つもなく、人が純粋に居ない。ある意味、セットのような無人の景観だ。
「・・超、ぼっか的~、」
いつの間にか、今度はこちらの画面をのぞき込んでいた級友が言った。教員は通りすぎていったようだ。
「ねぇ、その先、」
指さしたのは、突き当ったところ。
急に止めるのも何だからと、黙って道を辿り続けていたら、林の中に入って、森というように鬱蒼として。その先にも道は続いているように見えるが車が通れる幅ではないのだろう。
「・・なんか、看板ない?」
「ある、かな?」
「あるある。」
拡大しようとしたところで、二人ともに気づいて思わず顔を見合わせた。
「・・消えて、ない?」
「消えてるよね?」
声が被った。
近隣の池に立てられている「遊泳禁止」のような、四角柱に長方形の板を括りつけたかたちのものだろう。学校とか町内会が立てる手作り感のある、よくある代物のかたちなのに、その文字が書かれているだろう板の部分に白い靄がかかっている。
「やばいことが書かれてるのかな?」
「プライバシーに関することでも書いてあるの?」
見えないと何があるのか気になるものだ。
首を捻って、もう少し近づけないかと指を画面に這わせる横で、級友は自分のタブレットを掴んで検索を始めた。
「・・池? かな。」
普通の地図画面で位置を確かめて、それから口コミサイトに入ったらしい。口コミ、といっても都会やメジャーな観光地ではないから、この町全体の口コミといった感じで、
「〇〇温泉よかった。近くの神社も寂れ方がまさに和!」
とか。
「〇〇寺のそばの和菓子屋に行って、黒糖のまんじゅうを買ったらおいしかった。」
のような具合だ。
「・・これっぽい。」
ややして画面をさしだしながら、級友は声に出して読んだ。
「・・・旅の最後の訪問地はありきたりな場所ではないところでしめたい。そういう思いで旅館で地図を眺めていた小生の目に、天啓のようにみかがみ池なる地名が飛び込んできた。持参した観光ガイドにも、駅で無料配布していた市作成の観光マップにも、いっさいの情報はない。ホテルのフロントで尋ねてみたが、首を傾げるばかりだった。逸話をもっていそうな名前だというのに。俄然興味が湧いた。集落からかなり離れており、バス路線もないためタクシーを手配しようとしたが、田舎で台数がないため対応できないと言われた。今夜の旅館からは歩けない距離ではなく、季節もいい。ハイキングと思って徒歩にて参る。しょうせいって、何?」
「おじいちゃんとかが使う一人称だと思う。」
突き当りから動かない(当たり前なのだが)ビューに諦めて、級友の画面をのぞき込む。
「写真とかは一緒に投稿されてないの?」
お薦めするのなら基本じゃないかと思うが、ない、という答えが返った。
「おとしよりだから?」
「じゃない? そもそも、これ、転載っぽい。べつのサイトからの?」
その後、二人であちこち検索してみたが、それ以上に引っかかってくることはなかった。
授業後、改めて配布された調査フォームの「行ってみたい(興味のある)場所」にそれぞれが「みかがみ池」と書いたことは言うまでもなく、二人が仲良く調べ物をしていたことを教員はちゃんと見ていて、後日発表された研修グループが同じになったことは必然である。
自主研修日は二泊三日の行程の最終日だ。
一日目は学年全体で田植え活動をし、二日目は別のグループで地域の農家さんにお邪魔して畑作業や林業、きのこ栽培などそれぞれのお家で考えて下さった体験をする。複数の町と村が合併してできた広い市内は、旧来の地元意識が強いというのが、会話の端端から感じられる。
以前は農家さんに泊まっての活動だったらしく、遠来の孫がきたように迎えてくれた農家のおばあさんは、「以前はねぇ」と繰り返して朝来て夕方帰るというスケジュールをしきりに嘆いていた。来る前は他人の家に泊まるなんてとんでもないと思って、日帰りなことにほっとしていたのだが、こうして一日過ごしてみると、もう終わってしまうのがとても名残惜しい気持ちがしてくる。
生徒が世話になっている家を、送迎のマイクロバスが順に巡ってピックアップしてくれるから、それを待つ間、おばあさんは玄関先に置いてある鉢で餅を焼き始めた。
「おやつにしようね。」
と、炭火のまわりに串にさした餅を並べて焼いていると、近所の人らしいおばあさんたちがいつの間にか増えていた。
やってきたおばあさんたちは生徒たちに興味津々である。餅やきを手伝いつつ、今日までの活動について口々に問うてきた。
「明日はどこに行くんだね。」
との問いは、この家のおばあさんとおじいさんと息子さんとお嫁さんにもそれぞれ聞かれていたが、これで最後だと愛想よく端から答えていった。
今日のグループは明日のグループとは別だから、各自違うメインの見学地を挙げて、一言ずつコメントをもらう・・みたいな流れの最後、
「みかがみ池です。」
今回もぴた、と会話が止んだ。他県から嫁いできたというお嫁さんだけが、「そういう場所があるのね」的に流したが、あとの面々はこのようにぴた、と止まったのだ。
「よ、よく知っていたね?」
おばあさんの一人----手拭いを数本腰にぶら下げている----が、ちら、とこの家のおばあさんに視線をやった。
「ネットで見ていたら紹介されていたので、」
「若い子はそういうのが得意なのねぇ。」
別のおばあさん----手拭いで髪を覆っている----も、ちらと視線をやる。
「とても・・ふべんな場所だと思うけど、どうやって行くの?」
「泊っている施設の車で送ってもらうことになってます。」
「そ、そうなのね?」
おばあさんたちが、つつつ、とこの家のおばあさんの周りに集まっていき、
「市の担当はだれなの?」
「挨拶にきたけど、知らん顔だった。◆◆地区の出身と言ってたな。」
「海のほうの若い子は知らんかもなあ。」
「・・あの地区からは役所に入らんからねぇ。むかしっから。」
「施設長は、〇▽の次男坊でしょう? 知らんのかね?」
「そっちからは、農家体験の引き受けの時電話もらったけれどね。町めぐりは学校さんの活動だから、」
「----あのっ、」
一日もやもやしていたから、思い切って口を挟んだ。
「もしかして、行ってはいけないところなのですか? 先生から班の計画書は旅行会社の見てもらったから、大丈夫、と言われたんですけど。」
おばあさんたちは顔を見合わせ、微妙に眉とか瞼とか唇をぴくぴくさせた。
「わたしらも・・行かないところだからねぇ。」
「同じ市っても、ずいぶん奥まっているし、不便だからねぇ。」
「せっかく遠くから来てくれたのに、つまらない思い出になったら気の毒だからねぇ。」
「----おや、バスが見えるね。お餅、早く食べてしまいなね。」
垣根に沿って停車したマイクロバスからは、教員と施設の職員が降りて来た。教員は近所の人も集っている様子に目を瞠って、それから大きな声で「お世話になりました~」と挨拶を述べた。
先生も食べていきな、と餅を渡され、この家のおばあさんと「何かご迷惑をおかけしませんでしたか?」「とっても真面目に働いてくれたよ」と会話している間に、他のおばあさんたちは職員を囲うようにしてしきりに訴えていた。
職員は、帰りのバスの中であまり口をきかず、お風呂の後、就寝の少し手前の時間に開かれた明日の班長会に出席した生徒から、困惑と憮然の中間のような表情で、明日の彼等の自主研修に引率者が付くことと時間の変更が伝えられた。
ワンボックスカーには、生徒が五人と教員、それから運転席に職員が乗り込んだ。
「----先生が付いてくる自主研修ってさぁ、」
三列シートの一番後ろに座った男子が、小声で、けれど狭い車内のこと、十分聞こえてしまう不平を呟き合っている。
「しょうがないじゃない!」
二列目の女子が振り返ってたしなめるが、
「だって、うちだけじゃんか~!」
「だから、こんな遠いとこやめとけって言ったのにさあ!」
「はあ!? 計画丸投げしたそっちだよね!?」
「うちらしかいかないローカルさが面白い、って納得したじゃない!?」
「まあ落ち着いて。」
助手席からのんびり声がかかった。
「バスもないからもともと送迎してもらう計画だったろ? 先生は、地元の人に挨拶したら遠くで見守ってるから、あとは自分たちでじっくりやんなさい。」
「ごめんね。うちも打ち合わせが不足していて。お昼の予定のお店の前までちゃんと送るから勘弁して?」
バックミラーを見ながら職員も言った。先生になら不平を言えても、知らない大人に謝られて言葉を継ぐことはできない生徒たちはこく、と頷いて、ひとまず車内は静かになった。
五分もすると、生徒たちはたわいのない話を始めた。それを聞きながら、職員は教員に話しかけた。
「先生もすみません。」
職員はもう何度目か分からない謝罪を述べた。
「先生方も事前のスケジュールがあったでしょうに、変更することになってしまって。」
「いや大丈夫ですよ。」
朝から----昨晩遅くのミーティングに施設長と合流してからずっと職員には謝られているから、もう気になさらずと教員も再た繰り返す。
「予定なんてよく変わるものですし、幸い体調不良者も出ていないから養護教諭もフリーで動けますし、」
そこで教員はやや声を潜めた。
「後ろからつかず離れず追いかけるより、こうして車で運んでもらえるのはありがたいです。」
自主研修とはいえど野放しではなく、素行面や人間関係で配慮が必要ならば付いていくものらしい。後部席の彼らは自分達だけが引率付きと嘆いたが、実のところ、ひっそり引率付きは他にもあるのだ。
「あと、わたしも興味があったんですよ。名の響きもいいし、知られていない感じがいいじゃないですか。」
そうなんですね、と言うと、そうなんです、と笑って教員は窓の外に目を向けた。ただの田畑が続くだけの風景だが、緑がきれいですね、と呟いて目を輝かせている。
大人の話は途切れたが、生徒たちの声は絶えずに続いており、車内の空気は賑やかだった。
青空の、申し分のない朝なのに職員の心だけが沈んでいく。
「あんたさん、」
と、手拭いを腰に下げた老婦人が眉を顰めていた。
「だれが許したんだね?」
「え?」
「みかがみさんに余所者を連れていくと、あの地区のだれから許可を得たんだい?」
「・・え?」
生徒たちからのリクエストで職員も初めて知って、私有地ではなく市が管理する自然地区だと確認した。
「許可、が要りますか?」
「・・には伝えたのかい?」
なまり強めに口の端に上ったのは施設長の名字だ。首を横に振ると老婦人たちは顔を見合わせ、ぎょろ、とそれぞれ目を動かした。
「----あんたさん、◆◆地区の・・さんとこの曾孫じゃったか?」
それはもう亡い曽祖父の名だが、老婦人らはまだ生きているように肩書にする。
「・・さんは、この地区から嫁取りしたが、」
「そうじゃったか?」
「あんたが嫁いでくるずっと前じゃ、たしか柿の家じゃが、・・その子の嫁も、孫の嫁も外から迎えたんじゃなかったかいな?」
「----わたしは、生まれも育ちもこの市です。」
人の行き来が自由なこの現代に、外だの内だの、そして外の血が入った者はそれゆえに物知らずだと言われて、どうして黙っていられようか。
「・・皆さん、バスに乗ってください。忘れ物がないように気を付けて。」
老婦人たちに浅く会釈してその場を離れようとしたが、声が追いかけて来た。
「悪いことは言わん。戻ったらすぐに・・さんに明日の話をしてどうするか一緒に考えてもらいんさい。」
「まだ間に合う。・・本当に面倒なことになる前に。」
憐れむような目がただカンに障った。
彼女たちなのか、はたまた他の農家で別の生徒から同じ情報があったのか、バスが施設についた途端、同僚が待ち構えていて、施設長室に行くように告げられた。
老婦人たちの言いざまなら生粋の生まれである施設長は、はっきりと難しい顔をしていた。
「禁足地だ。」
施設長は言った。
「聞いたことがありません!」
何と言われようとも、事実、生まれも育ちもこの市だ。そんな滅多な場所があれば耳に届かないはずはない、のに。
「きみの知り合いにあの地区の出はいるか?」
小学校は市内に三つ。しかし中学校は一つ。高校はない。
小中共にスクールバスが巡回しているが、中学校は自転車の生徒も多く、職員もそうだった。おかげで行動範囲は相当広くなり、市内あちこちの同級生先輩後輩の家に遊びに行ったものだが。
「・・ないと思います。」
つまり縁がなかったということだ。
高校は隣の市、大学も家から通える県内だった。市役所職員として採用され、改めて市内を巡る研修があったが・・その時にも。
その地区の名をついて知っている。けれど、知識としてだけだと、どきり、とした。
「この時代に何だが、閉鎖的な地区だ。高齢化も群を抜いて高い。転出も転入もほとんどなく、子どもも・・今は何人かいるようだが、保健師の巡回さえいい顔はされないと専らだ。」
「はあ、」
それでも、施設長たちの危惧が何なのか職員にはよく分からないでいる。
「天候による中止ができれば良かったが、生憎明日は晴天らしいから、一方的に取りやめにはできない。今の子だから、理由もなく一方的に取り止めて失望させるほうが、SNSとかで風聞が飛び交う事態になるかもしれないと、」
炎上すると言いたいのだろう。
「向こうに申し入れをしてもらっている。今回の教育旅行誘致は副市長の肝いりだ。御本人に伝手があったのが幸いだった。」
返事待ちの末、動いたのは生徒の消灯寸前で、消灯後の教員ミーティングに参加して告知、生徒たちに伝えられたのは当地に向かうバスの前だった。
恐ろしく寝不足だが、連絡もなく連れて行って、問題が起きるよりマシだったな、と恩着せがましい施設長に見送られて出発した。
初めてメインで任された仕事で、うまく回っていたはずなのに、突然ちゃぶ台をひっくり返されたようで・・気分が悪い。
「----案内人の指示に従う、か。」
呟けば、聞きつけた教員が見返った。
「わざわざ案内の人を出して下さるなんてありがたいです。」
職員にはこんな田舎そのものの事情をどう事分けていいか分からなかった。
「あまり人が入らぬ場所だから、生徒さんだけで入って、虫とか蛇とかにあっても大変だし、まして水辺ですから土地に慣れた者を付けたいのですよ。突然で申し訳がないが。」
夜半のミーティングでは施設長がずい、と進み出てお為ごかしに説明した。
「ご親切に。」
「それから、もしもの為に先生もお一人ついてきてもらえれば。うちからも運転手がてら一人同行しますが。」
「・・もしかして、昔何か事件でもあった場所なのでしょうか?」
何か不穏なものを感じたのか、一人の教員が問うた。
「いえいえ、そんなことはありません。」
事件の記録はない。それは「ここに行きたいと言う生徒がいるがどんな場所か」と、最初に問い合わせられた時に、職員が村史などネットには載らないものも調べた。伝承も事件も、なにも出なかった。
「本当に人里離れているので、大人は多い方が生徒さんは安心でしょう。」
「危険とかではないのですね?」
念押して尋ねられた。教員としては気になるのはそこだろう。
そうだ、と言ってしまえば訪問自体を中止にしてしまえるが、理由が難しい。スズメバチには季節が早く、熊だと影響が大きい。
「向こうでは案内人に従ってもらえば問題ありません。」
その案内人はちょうどストリートビューが切れるところで待っていた。
季節には早い、つばの大きな麦わら帽子を被った、職員と同年配だろう若い男だったが、どこか老成した空気を纏っていた。
面積こそあるが人口的な話なら狭い社会だ。同世代なら何となく覚えがあるものだが、まったく心当たりを覚えず、職員は内心首を傾げていた。
「写真機を持ち込むな。」
こんにちは、と元気よく挨拶した声に頷きすらせず、言い捨てるように告げた彼に、生徒たちははっきり困惑の色を浮かべた。頑と結んだ口に、
「飲み物は持って、あとの荷物は車に置いていったらいい。鍵もかけるし。」
と、職員は取りなすように、
「心に焼き付ければいいさ。」
と、教員も励ますように言ったが、案内人が継いだ言葉に絶句することになる。
「いっさいの他言を禁ずる。」
「待ってください、どういうことです?」
聞いていない、と職員はぎょっと眉を跳ね上げた。
「今どきの子はなんでもエスエヌエスとやらにあげるから、見せてもらえなかったと書かれて、そういうのに興味を示した輩に嗅ぎまわられては厄介だろう、とそちらの里の上役はお為ごかしたようだが、」
鼻で笑った。
「みかがみさまを御守りしているのはこちらだ。承服しないのなら引き返すといい。」
「え・・っと、生徒たちは学校でまとめを提出しなくてはなないのですが、そこに書くのも駄目ということですか?」
返ったのは鋭い一瞥で、肯定だった。
断られたのではなく、断ったというアリバイ作りかと職員は苛立って身を乗り出したが、
「分かりました。」
男子生徒のひとりが進み出て、あっさりと言った。
「他言無用って言いましたが、この場にいる面子ならば話してもいいってことですよね? 」
「・・ああ。」
「なら、王様の耳はロバの耳みたいなストレスに晒されることはなさそう・・・問題は、我々が普段世間話をするほどの仲良しじゃないということだけれど。でも、こんな思い出を共有できるのは人生においてスパイスになるんじゃないかと思うのだけれど、どうかな?」
「お前、人生何週目かか?」
別の男子は少し引いたように言いつつも、頷いた。
「行かない後悔は性格的に無理。」
これも男子。続けて女子も同意を告げる。
「行きます。」
「あたしも。」
「ここで帰ったら、それこそ人生賭けて気になりそうじゃない?」
案内人の高圧的な態度にはじめ、やや消極に傾いていた生徒間の空気は、男子生徒の発言に触発されて、固まった。
「先生はどうします?」
生徒が少し意地悪く、問う。
「大人の方が秘密は守りにくいですよね? 報告とかしなきゃだめなんでしょ? 先生たちがよくする、ここだけの約束は、対生徒は我慢しても、ここ学校じゃないんで止めたほうがいいてすよ? 」
「おまえなあ、」
かちんと苦笑いの中間の表情をして、やや沈思した。
「・・おれも、王様の耳はロバの耳~と叫ばしてもらっていいか?」
生徒たちは笑って頷き、案内人に向き直った。
「と、いうことで、お願いします。」
「----都会の子どもというのは随分と肝が据わっているものだ。」
呆れたように首を振った。
「若い身空であえて荷を背負い込もうとは、」
「あなたも、そんなにお年じゃないのに、すごい大時代的な言い方しますね?」
軽やかに男子生徒は切り返した。
「神職とかですか?」
「ただの地区の者だ。」
授業でもそれくらい積極的に発言するといいのにと、苦笑いしつつ、教員は生徒と自分の携帯端末類を袋にひとまとめにして、助手席の足元に置いて扉を閉めた。
すでに運転席の扉を閉めて立っている職員に
「お待たせしました。えーと、最後尾お願いします!」
と声をかけ、なし崩し的に移動を始めている生徒を小走りに追っていった。男子3人が案内人のあとにつき、その後を女子3人が歩く。教員は男女の間に入っていった。
職員はロックボタンを押し、言われたように一行の最後に付いた。
ストリートビューで靄がかかっていた木の看板は、「許可なく立入を禁ずる」と墨書きされた何の変哲もないものだった。
なんでこれが消えていたのだろうと、計画当初隣席だった女子2人は首を捻って、そして看板の向こう、ストリートビューでは入り込めなかったさきへと歩み入る。
その境の部分こそ、低木の茂みと枝垂れる木々が何層にも折り重なり行く手を遮っていたが、垣根のようなその部分を越えれば、人の手が入ったことが判る小道が現れた。しかしなだらかなのは最初だけで、起伏を繰り返し、杉や檜などの直立する樹木の間を抜けて山の奥へ奥へと道は続いていく。
「目に枝が入らないように気をつけなさい。」
と、最初こまめだった教員の注意も、興奮したおしゃべりもすっかり止んだ頃、また樹木が枝垂れ木に戻っていた。幾重にも重なり合う枝の幕をかき分け、潜り抜ける。
案内人が足を止めた。
しるし、なのだろう。一見お地蔵様にみえるが、すこし違和感を覚える風貌のそれにそっと目礼してから、案内人は振り向いた。
「誓約を。」
疲れているけれど、一同の背筋が伸びた。復唱しろ、と察して耳をす澄ます。
「姿をあらわすことならず。姿をうつすことなく。」
森の空気は明るく、木漏れ日は柔らかいのと裏腹に、
「水と陸は交わらず。」
緊張と畏怖を孕んだ声は陰々とした響きだ。
「われらうち守りたれば、みはとどまるべしとかしこみて申し上げる。」
まるで古典の朗読だ、と思いながら復唱した。
合掌した後、案内人は見学場所についての注意事項を述べた。
「わたしが立つ位置より決して前に出ないこと。」
「出たらどうなるんです?」
わくわくしたように言う生徒に、
「帰りたくないのか?」
案内人の顔はシリアスから全く揺るがない。
冗談が通じない、と肩をすくめたものの、池とあったが、実は断崖なのだろうかと緊張して、しるしの像の向こうへと踏み出していった一行は、すこし先、最後の枝垂れ木の枝を抜け、す、と開けた景観に息を飲んだ。
かがみのような池、だった。
まさしく。
だ円の鏡を縦に置いたようなさまだった。
岸辺は柔らかくそよぐ草でぐるりと取り囲んでいるのがまず目に入った。水面へ様々な木々が枝を差し掛けて、聖堂のドームのようにまろい天蓋を作っている。
水面は枝のとりどりの緑が映りこみ、空の光を反射して煌めく。あまりに美しくて、もっと近くで眺めてみたいと、だれもが前に踏み出そうとして、案内人の手に気づいた。
案内人は目を伏せて、池ではなく地面を見ていた。大きく両腕を広げて、この先には行かせないと意志を示している。
空と翠を吸い込んで、かがみのような池は、きっと底深くまで澄んでいるのに違いない。ほんのちょっとだけ進めれば叶えられるのに、と案内人の手ギリギリから首を伸ばすが、緑が映る以上の深みはとうてい見えないのだった。
やがて諦めて----許された位置から時間も忘れて、光を揺らし緑を深くする、留まることなく変化していく水面を眺めづけた。
案内人がす、と掌を返した。終わり、を告げる仕草に、ふうと誰かがついた溜息が現実に彼らを立ち返らせた。名残惜し気に強く目を瞠って水面を眺め、断ち切るように首を揺らしてから、次々に身を返した。
職員は行きと同様に一行の最後に付いた。
生徒たちがちらちらと肩越しに名残りを惜しんで池を振り返るのを、案内人は注意深く見ていたが、職員を含めた全員が木立の中に入ると、前を向いて進み始めた。その背は、明らかに、緊張が解けていた。生徒たちは満足感に頬を緩めて、余韻に浸っていた。
職員がふ、と足を止め、ズボンのポケットから端末を取り出し、す、と回れ右をして木立を再び出て行ったことは、気づかれなかった。
「なにが撮影禁止だ。」
ずっと口の中で呟いていたのだ。
「市の大事な観光資源じゃないか。なにが誓約だ。だから過疎るんだよ。」
職員の脳裡にはこの風景をもとにした企画のプレゼンが組み立てられていた。
先ほどの位置から、パチリパチリと撮影ボタンを連射する。
「田んぼと畑と、自然しかないんだ。活用すべきだろ。」
この写真、一枚SNSにあげるだけで話題騒然だ。#禁忌の池 でも、なかなかの字面だがタグはもっとセンセーショナルにしたい。
今にも案内人が背後から手を伸ばしてきそうで、はらはらはしながら、ざっと撮影データをスクロールした。
「・・脅しに、きまっているじゃないか。」
この位置からの写真でも透明度は高いと予測できるが、水底を映したデータもほしい。
一歩、二歩、腕を伸ばして水面を撮る。
振り返る。まだ引き返してこない。もしかすると、このまま何食わぬ顔で合流できるかも知れない。
もう一歩、大きく出て、普通に一枚。それから自撮り画面にした。
少し緊張した自分の顔を笑顔にして、良いアングルを探して一、二歩下がり、腕をあげて、上から自分と池を画角におさめた。
職員の後ろ姿がかがみのような水面に映り。
ひら、と舞い落ちた木の葉が水面に落ちて薄い波紋がその姿をぼやかし。
かがみに戻った水面にはまた空と緑の梢が映るのみ。
風もなく、ただ----神さびた景色だ。
きれいだったね、と満足そうな生徒たちは、
「さて、ごはん、ランチ。」
ともう次の予定で頭をいっぱいにしている。
「先生、早くドア開けて!」
「え・・ああ、うん?」
教員はぱちぱちと瞬いた。
「おれが・・運転してきたんだったよな?」
「案内の人とはここで合流したんだから先生しかいないんじゃない?」
「・・だよな。」
生徒が五人と大人が一人、車の前に立っている。
「----あれ、かぎは。」
ポケットをたたいて、それから足元を見ると前輪のかげに落ちていた。
「うわ、物騒。」
都会とは違うから盗難とかには起きないと思うけれど。
慌てて拾い上げた。ロックボタンはかちりと鳴って、開錠する。運転席の後元にあった、だれかの(たぶん昨日車を使用した施設の人の忘れ物だ)トートバックを助手席に移し、助手席のエコバックから自分の端末を出してから、後部座席に回した。生徒たちが次々に自分の端末を取り出す。
こう、だったかなと呟きながらエンジンを回す教員を尻目に、生徒たちは窓を開け、森の入り口から動かず、こちらを見送る構えの案内人に向かって、
「ありがとうこざいました!」
と叫んだが、案内人の声が返ってくることはなかった。短い時間とはいえその不愛想さを理解した生徒たちはそれを別に不快に思うことはなかった。
車が動き出す。
行きと同じ二列目の運転席側の席から何げにあの看板を見遣って、瞬いた。
「・・あれ・・?」
看板の前に白いシャツの男子が一人。顔はよく見えないが、愛想よい雰囲気で、ひら、と手を振られた。
知っている気がして、まさか積み残したかと三列目を見たが、やけに高いテンションで「腹減った」と互いを突き合っている男子は二人----女子三人、男子二人の班だ。
他の観光客? 近くの子? もう一度よく見ようと体を傾げて、徐行速度とはいえもう後ろに流れたそちらを見遣った。
「 何か忘れた?」
彼女の動きに、真ん中の座席の同級生が声をかけてきた。振り返れば、だれの顔も少しだけ、そわそわして、頬がかたい、そんな感じだった。
「・・ううん、何でも。」
そう、見間違い。
見えるのは、小さな木の看板だ。どこにも、だれもいない。その看板に、森から流れ出した(あるいは森へと流れていく)白い靄のようなものがまとわりついているのも、きっと目の錯覚に違いない。
「・・うん。」
「ああ、」
言葉にはならない、見てはならないものを見たような、何かつじつまが合わないような、ぞくぞくと背筋を震わせるような・・嫌悪感?
何か追いかけてくるような、焦燥感?
仲のいい友だち、ではないけれど、いつの間にか女子三人、手を繋いでいた。男子は後部席から身を乗り出して、教員もバックミラーでこちらを見ていた。
そわそわした感じに気づかないふうを取り繕って、彼らを乗せた車は、逃げように速度を上げていった。
※
※
※
あと。
枝垂れ木のベールをかき分けて、彼らほどの年齢の、今風ではない着物姿の娘がひとり森から出てきたこと。
案内人は娘をまじまじと見つめたのち、「あねさま、ようやっと。」と顔をくしゃくしゃにして泣きだしたこと。
許可なく立入を禁ずる」と墨書きされた裏の、なぐり書きのような、
「みかがみに
かげをうつせば
みかくしは
ななよりあふれて
かへりたる」
その意味も。
どこにもいなくなった職員のことも。
縁なければ知らないで済むこと。
あえて手繰ろうとしなければ、ふと池の美しさを思い出して、そわそわした背筋の違和感に首を傾げる以上のことはない、ただの変わった人生の一場面であるだけだ。
※
※
※
「⋯ずいぶん、人気がないところだね? 熊とかカモシカとか出ない?」
「どうだろう? 前に来た時はそんな話はなかったけど。」
「前任の学校の、野外活動で来たんだっけ?」
「うん、本当に穴場なんだ。びっくりするよ。」
ほら、こんなふうでなければ。
現代だから当初、デジタルホラーを目指しましたが、民俗的ホラーに落ち着きました。
※ からは蛇足ではあるんですが、こちら側(事情を知らない語り手側)からはみえないところで、どうしても書きたいことについて、触れました。