泣かないから
ノックの音でレイラは目を覚ました。
窓からさしこむ光が赤みを帯びているところからみて、夕刻なのだろう。
「お食事をお持ちいたしました」
ベラがまたワゴンをひいて入ってきた。
とても良い香りがして、レイラは空腹を覚えた。
ベラはレイラが起き上がるのを助けると、レイラの前にスープとパンを置く。
今回のスープは具が少し入っていた。
とろとろに煮込んであるので、とても柔らかいお肉と野菜は口に入ると溶けるようになくなる。
体にしみてくるおいしさだ。
信じがたいことだが、この料理は紛れもなくレイラの体調に合わせて作られている。
レイラのことを知らないはずの料理人の心配りを感じた。
「たくさんお召し上がりください。何よりシェフが喜びます」
ともすれば遠慮をしようとするレイラに、ベラは笑顔で遠慮は無用と告げる。
「デザートはこちらです」
「これは?」
まっしろな削った氷に、果物がのっている。
「こちら氷のシロップかけでございます」
ベラはにこりと笑う。
「当方のシェフは氷の魔術が得意でして。喉が痛いときには特におすすめのデザートですよ」
「……魔術」
ベネトナシュ家では魔術を使って何かをすることはタブーになっていた。レイラへの嫌がらせという面だけでなく、オラルはとにかく魔術を使うことを厭う。
侯爵家のシェフが氷魔術を使って、こんなデザートを作るということは、きっと侯爵家では魔術を使うことは普通のことなのだ。この場合、ベネトナシュ家とカペイラ侯爵家のどちらが一般的なのかは、レイラにはわからない。だが、とにかく当主の考え方が真逆なのは間違いなさそうだ。
「冷たくて、おいしい」
喉が腫れているからこそ、氷の冷たさがレイラには嬉しい。
氷を使った料理なんて、本当に初めてだ。
その時、廊下をバタバタと走るような音がしたかと思うと、扉がパッと開かれた。
「レイラが目を覚ましたって?!」
入ってきたのは、長身の男性だった。短いライトブラウンの髪で、端正な顔立ち。着衣からみて、かなり高貴な身分の人間だ。
「侯爵さま! 淑女の部屋にノックもなしで入ってくるなんて、マナー違反でございます!」
ベラが鋭い声で抗議しながら、あわててレイラの肩にショールをかけた。
「え、あ、すまん」
男は頭を掻き、顔を真っ赤にした。レイラが寝間着だと気づいたのだろう。
レイラとしては、貴人に対して失礼とは思うけれど、見られて恥ずかしい気持ちはおこらなかった。
感情が鈍くなっているのもあるが、自分がいつも着ているお仕着せより、この寝間着のほうがよほど物が良いのだ。
「レイラさまはお食事中です。お気持ちはわかりますけれど、もう少し常識をお考え下さい」
「……そうだな」
男は面目ないと言う顔をする。
「……侯爵さま?」
レイラは男の顔を見る。レイラの知っている侯爵と似てはいるが、ずっと若い。それに目元がやわらかく、甘い印象を受ける。
「いやだな。レイラ。俺だよ。ゼナンだよ」
男は苦笑する。
「ゼナンさま?」
レイラは目をしばたたかせた。
五年前のゼナンは、レイラより背が低く、声も高かった。
言われてみれば、面影がある。
最後の記憶はゼナンが十四歳。少年が大人になったのだから、外見の印象が変わっても不思議はない。
「ああ。久しぶりだな。レイラ」
にこりとゼナンが微笑んだ。
「ゼナンさま、侯爵さまになられたのですか? あの、おじさまは……」
「ああ。留学から帰ってすぐに爵位を継いだんだ。大丈夫、父はぴんぴんしている」
レイラの問いにゼナンは答える。
前侯爵は領地で、第二の人生を夫人とともに謳歌しているようだ。
「……よかったです」
レイラはほっと胸をなでおろし、それからじっとゼナンの顔を見る。
「……私を助けてくださったのは、ゼナンさまでしたのね」
ベラの話では、レイラを侯爵が助けたとのことだった。ぼんやりとした記憶だから、はっきりとレイラには確信がなかったけれど、倒れかけたレイラを抱きとめてくれたのはゼナンだったのだろう。
「レイラ」
レイラの食事が終わるのを待って、ゼナンはレイラに問いかけた。
ベラは食器を片付け、部屋の隅で控えている。
「レイラは、なぜ、あそこにいた?」
街道の木陰で若い娘が倒れていると思ったら、その人物がレイラだったことに驚いたらしい。
「郵便を出して、お屋敷に戻る途中で、その、少し休もうと思ったら眠ってしまいました」
レイラは答えた。
「お屋敷というのは、ベネトナシュ家か?」
「はい」
レイラが答えると、ゼナンは眉間にしわを寄せた。
「レイラはずっとベネトナシュ家にいたのか?」
「はい」
なぜそんな当たり前のことを聞くのかわからず、レイラは首を傾げると、ゼナンはさらに顔を険しくした。
「あの?」
レイラは何か失言してしまったのかと、怯える。
「侯爵さま。お顔が怖いです」
レイラの表情に気づいた、ベラが後ろから声をかけた。
「ごめん、レイラに怒っているわけではないんだ」
ゼナンは慌てて首を振った。
「レイラは、街までいつも歩いて行っているのか?」
「はい。歩けない距離ではありませんし、私が街へ行かされるときは、お屋敷に客人が来るときなのです。だから、早く帰っては、かえって怒られますからちょうどいいのです」
レイラは苦笑した。
「あんな熱のある日もか?」
「街に行く方が、お屋敷のお仕事より楽ですよ?」
ゼナンの指摘の意味が分からず、レイラは首を傾げる。
「病気の時は、普通、仕事は休むものだ」
「でも病気になるのは私の自己管理が悪いのです。他人に迷惑をかけてはいけませんし」
レイラは大きくため息をついた。
それなのに、レイラは二日も侯爵家にとどまっていて、仕事を放棄している。
帰ったら絶対に、折檻されるだろう。
「なあ、レイラ。もちろん普段の健康管理は必要だけれど、どんなに気を付けていても病気になることはある」
ゼナンはやさしく諭すように言いながら、レイラの頭をなでた。
「病気になったからといって、レイラが悪いわけではない」
レイラはゼナンの顔を見る。ゼナンはレイラを悲し気に見つめていた。
「でも休んだりしたら、怒られてしまいます。私は、働かないといけないのです」
ゼナンの言いたいことがレイラにわからないわけではないけれど、レイラには許されないことなのだ。
「私のような異国人の孤児をおいていただくためには、そうしなければならないと」
ぽたりと何かが、レイラの手に落ちた。
見れば、ゼナンの目から涙がこぼれていた。
「ゼナンさま?」
レイラは、ゼナンが何故泣き出したのかわからない。
ぐすっと鼻の鳴る音がして、そちらを見るとベラも泣いていた。
「どうして……お二人は泣いているのですか?」
「君が泣かないからだ」
ゼナンの体は嗚咽をこらえるかのように震えている。
「私が泣かないから?」
レイラには意味が分からなかった。
けれど、二人がレイラのために泣いているのはわかる。
この五年。レイラを気遣ってくれるものなどいなかった。
「……ありがとうございます」
レイラは、胸の奥が温かくなるのを感じた。