4 宰相、不良皇帝に苦悩する
翠月国は自然豊かな美しい国である。
夏になると広大な地は若々しい香りの青さに覆われ、秋の訪れとともに一面を黄金色に輝かせる。冬は空から白い妖精が舞い降り、全てを淡い霞で覆った。そうして霞が溶けるとともに春の爽やかな息吹が駆け抜け、世界を彩り鮮やかに色づけた。
しかし五年前、翠月国に春は来なかった。
鮮やかに色づけられるはずだった大地は、王都に押し寄せる大群勢によってぐしゃぐしゃに荒らされた。
溶けた淡雪と甲冑の重みで増した兵達の両足は大地を荒廃させた。彼らが通った後は一面が茶黒い泥濘と化し、それは悲惨なものだったと聞く。
彼らは、林王朝打倒のために立った反乱軍であった。
今でこそ義勇軍などと言われているが、当時は誰もが強大な力を持った王権に敵うはずがないと思いただの反乱軍と見なしていた。
しかし、今、王宮に掲げられている王朝旗は『関』の文字である。
翠月国には数千年に及ぶ長い歴史がある。
その中でも林王朝は、約二百年ほど続いた長命な王朝であった。
『短朝迷民』――王朝が短いと民は路頭に迷う、と言う諺がある。
だが、長いことが総じて良いことに結びつくとも限らない。
林王朝は長く続いたが故に、宮廷内に奸臣をはびこらせる結果となった。
主立った官職は暗黙の了解で世襲性になり、癒着による政治腐敗が進んだ。賄賂の多寡で政策が決まり、縁故人事により権力の偏りが生まれ、富める者は総じて林王朝と関わりの深い貴族や役人、大商人のみ。
こうして、立つべくして反乱軍は立った。
その後の結果は、誰もがよく知るとおり。
冬の終わりとともに林王朝は滅び、春の訪れとともに関王朝が立った。
それから五年経った今では、あの時の無惨さなど微塵も感じられぬほどに、国は元の美しさを取り戻している。
そうして国力が戻れば、次に国が――皇帝がせねばならぬことはただ一つ。
後継者作りであった。
◆
王宮の内朝に位置する、執務室を兼ねた皇帝の私的空間である翔心殿。
翔心殿のすぐ近くには女の園が広がっているのだが、未だかつて皇帝がその花園へ夜伽を受けに行った試しはない。
「冷帝関玿」
「あ?」
「――と、最近では後宮でも呼ばれていることをご存じでしょうか」
「知らん」
自分のことなのに無関心にそう言い切る皇帝に、宰相は額を抑えた。
「知らんですってぇ!? 後宮を再建するまで一年。女人を入れるまで五年。まさか夜伽まで十年……なんて言いませんよね! もう妃嬪入宮から三ヶ月が経つのに、一度も後宮を訪ねてませんよね!?」
「そうか」
「そうかぁ!? このままでしたら、妃嬪方のほうから愛想を尽かされてしまいますよ!」
「構わんな」
「構わんんん!?」
関玿は興味はないとばかりにとことん無関心な態度をとり、こちらには目もくれず、持ってきた書類にばかり意識を向けている。
おざなりな返答が「うるさい」の意思表示だということを、宰相は長い付き合いからしっかりと把握していた。
本当は気づかぬふりして責め立てたいところだが。
しかし、責めたところで、恐らく彼の後宮に対する意欲は微々とも増さない。
むしろ余計に冷めていくだろう。
「陛下でしたら、どの妃嬪も喜んで宮の戸を開くでしょうに……羨ましい」
このくらいのぼやきは許されて然るべきだろう。
どれだけ自分が、後宮に女人を集めるために駆けずり回ったか。
書類の文字を追う目は止めず、目の前の美男は鼻から薄い溜息を吐く。
掻き上げた真っ黒な髪の下から現れた顔貌は、かつて馬を駆って剣を振り回していたとは思えないほどの繊細な美しさがある。
北部特有の赤い瞳に、濡れ羽色の髪。薄い唇から吐かれる溜息にすら色香を纏っているのだから、正直もう嫉妬すら覚えない。
「今でこそ俺は皇帝なんて呼ばれているが、元はただの地方兵で一介の民に過ぎないんだ。お家柄の良い妃嬪達のほうが俺を拒むだろうさ」
「家柄には恵まれなくとも、顔は恵まれたんですから。使えるものは使ってください」
「断る」
「もうっ!」と、宰相は後頭部を乱暴に掻いた。
せっかく纏めていた藍色髪もあっという間にボサボサだ。彼と話すといつもこうなる。いっそのこと、短く切るべきなのか。
「後宮が頼みの綱だったのにぃっ!」
「永季、うるさいぞ」
「誰のせいですか!」
巷では冷血漢という意味で呼ばれている冷帝という渾名だが、後宮の女人達の間では、『女に冷めている』という意味で使われている。まったく、彼自身の妃嬪にすらそう思われているとは頭が痛くなってくる。
「俺は……まだあの日のことが忘れられないんだよ。行けばもっと忘れられなくなる」
彼の顔が見ることができなかった。声音から、見てはならない気がした。
「あれから五年ですよ!? 過去でなくて今を見てください。もう、あそこには何も残っていないのですよ」
目の縁を滑って、彼の瞳だけがこちらを向いた。
彼の厳格さを表したような澄んだ瞳は、時として雪解けの水よりも冷たさを孕むことがある。
宰相の背に雪解けの雫が流れる。
「し、陛下は気にしすぎなんですよ。もう、義務だと割り切って行かれればよろしいではありませんか」
ハッと鼻で笑う声が聞こえた。
「それができたら苦労しない」
「……陛下は優しすぎます」
「一つの椅子を手に入れるために、多くの犠牲を強いてきた俺が優しいはずないだろ」
正直、これには言葉が見つからなかった。
言葉で表わすのなら、間違いなくそうでしかないのだから。
しかし、だからといって大人しく引き下がれはしない。
「国政も落ち着きましたし、その犠牲に報いるため……つまり関王朝を繋ぐためにも、陛下がまずやるべきことは後継者作りだと思いませんか?」
「ああ、確かに。それもそうだな」
やっとことの重大さを分かってもらえたか、と安堵したのも束の間。
「だが断る」
「もうっ!」
埒があかない。
「どうせ皆、俺ではなく、俺の肩書きが好きなだけさ。権力に目を輝かせる者と子をもうけることの危うさは、前王朝でたっぷり学んだだろう?」
「そんなこと言っても、もう皇帝の後宮にいる時点で彼女達は全員権力が好きなんですよ! 無茶言うな、このこじらせ野郎!」
「こ、こじ……!?」
のれんに腕押し糠に釘状態に嫌気がさし、つい軍時代の言葉遣いが出てしまった。
「とりあえず百聞は一見に如かず。少なくとも二ヶ月後の乞巧奠までには、夜伽とまでは言いませんが、必ず一度は行かれてくださいね。さもないと私は宰相を辞めます」
彼は口をはくはくさせ、最後には、ばつの悪そうな顔で舌打ちをしていた。
ここまで言えば大丈夫だろう。
「信じていますよ、陛下」
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