3 紅林、後宮へ入れられる
4話は21時頃です
「むしろ母様は、いつも民のことを大切に思ってたっていうのに……っ」
纏う衣一枚にすら、民が懸命に働いてくれるから自分達はこうして身に纏えるのだと、感謝の念を絶やさなかった人だ。
だというのに、この国のどこにも母を哀悼する人はいなかった。
だったら自分だけでも母に花を手向けたかった。
心優しい母を近くで弔いたかった。
おそらく、林王朝に関係した者達の墓などない。
空を焼くほどの大火だったのだ。骨すら灰になって何も残ってはいまい。
「本当は、この壁の内側で……もっと近いところに花を供えたいんだけど」
かつて母の宮があった場所に。
紅林は、目の前の白壁にそっと手を這わせ瞼を閉じた。壁の内側で生まれ育った自分が今、壁の内側へ入ることは許されない。この内側は、とうに他人のものになってしまったのだから。
「痛っ!」
チリッと唇に痛みが走ったことで、紅林は自分が唇を噛んでいたことを知る。
痛みを誤魔化すため、舌先で唇を舐めたら錆びた味がした。
『林の血は絶やせ!』――不意に脳内で蘇った声に、紅林は臓腑に重石をぶち込まれた感覚に陥る。
林王朝が滅んだことを悔しく思う気持ちはない。むしろ、耳に入ってきていた噂だけでも、充分に悪政と分かるような政を行ってきたのだ。当然の帰結だろう。
ただ、後宮まで全て燃やす必要はあったのだろうかとは思う。
紅玉時代に読んだ歴史書を思い返してみても、後宮の中の者全てを燃やしたなどというものはなかった。せいぜい、流刑か尼寺送りの幽閉だ。
「本当、よくもここまで嫌われたものだわ」
林王朝の政に関わった朝臣も鏖にされたと聞くから、どれだけ恨みが深かったのかがうかがい知れるというもの。
大奸臣であり、皇帝を傀儡として操っていた宰相の桂長順。彼は王宮で上がった火災に巻き込まれ焼け死んだと聞く。瓦礫の下からマル焦げになった遺体が出てきたという。
彼については、式典などで何度も顔を見る機会があり、紅林もよく覚えている。
腰は低くいものの、内心では見下げているのが透けて見えるような半笑いの口調と、歪んだ口元。
「……思い出すんじゃなかったわ」
気分が悪くなってしまった。
はあ、と自分の失敗に紅林は溜息を吐き、立ち上がる。
「さて、早く帰んないと。おつかいってことで出てるから、遅くなると今度はおつかいを禁止にされちゃうわ。唯一の自由時間なのに」
紅林は「じゃあね、母様」と最後に淡い笑みを向けその場を後にした。
楼主に頼まれた客用茶碗が入った懐を片手で押さえ、できるかぎり急ぐ。
もちろん、人目に付かないよう選ぶ道は隘路ばかり。
「ねえ聞いた? ついに陛下の後宮が誂えられるって噂」
すると、キャラキャラとした女達の会話が耳についた。
――後宮……ですって?
いつもなら他人の雑談など気にも留めないのだが、『後宮』という単語を聞けば、駆けていた足も止まる。
会話は先の角向こうから聞こえ、紅林は忍び足で近寄り聞き耳を立てる。
「ええ、聞いた聞いた。それでそろそろ宮女の募集もかかるんじゃないかって、お父さんが言ってたもの」
「はぁ……後宮ねえ。一度は入ってみたいわあ」
「きっと金銀七色できらびやかな美しい世界よ」
女達の夢見た会話に、紅林は唇を歪めて微笑した。
確かに煌びやかではあろう。建物も身に纏うものも調度品も全て一級品なのだし。
しかし、そこに住まう者までもが美しいとは限らない。
特に腹の中など、墨でも飲んだかというほどに真っ黒だ。
「ねえ、じゃあ……行く?」
「あははっ! それは嫌よ。万が一、妃嬪として入れてもあの冷帝の妾なんて、命がいくらあっても足りないわ」
「でも、陛下って噂では美丈夫だって聞くわよ。前の皇帝と違って自分で馬を駆って残党狩りにも出たって言うくらい、武芸にも秀でてるらしいし。それに、たった五年でここまで国を立て直したんだから暗君ではないわよ」
「そりゃあ、美丈夫の賢君はそそられるけど……でも、やっぱり無理よ。だって後宮って、入ったら皇帝が薨去なさるまで出られないって聞くじゃない。一生、冷帝の機嫌を伺いながら生きていくなんて辛すぎるわ」
「確かに。何事も命あっての物種だしね」
それで彼女達もその話題には満足したのだろう。
ケラケラと軽い笑いで流した後、すぐにどこの店の誰とかが格好良いだの、あそこの店の歩揺が一番質が良いだのと年相応の話題に花を咲かせていた。
紅林も、再び花楼へと歩を進める。
「そう。後宮が……関玿の後宮が誂えられるのね」
一瞬、後宮に入れたらもっと近い場所で母を弔えるのでは、との考えがよぎる。しかし、紅林は頭を振って、浮かんだ危ない思考を無理矢理に追い出した。
「なに考えてるのよ……もし正体がばれたら殺されるに決まってるじゃない」
まかり間違っても、後宮など入ってはならない。
反乱軍総大将であり今上皇帝でもある、関王朝初代皇帝『関玿』。
彼は、一部の民の間で密やかに冷帝などと渾名されている。
後宮を焼いたことと残党狩りの苛烈さから、血も涙もない冷血漢という意味から呼ばれ始めたらしい。
「いい気味」
しかし、嫌悪で呼ばれているというより、畏敬してそう呼ばれているといったほうが近い。同じく渾名を付けられた者同士でも、片や畏敬、片や嫌悪で少々悔しく思う。
「狐憑きなら、こんな時こそ力を発揮しなさいよ」
紅林は手巾から僅かに覗く前髪を摘まみ、白いだけのそれに嘆息した。
「私ったら本当、何もできないのね」
世に身一つで放り出されて、紅林は自分にどれだけ生活力がないのか知った。
あるのは、今や全く役に立たない後宮知識だけ。よく五年も生きて来られたすらと思う。今でも母が身を賭して守ってくれたこの命を守ることで、日々精一杯だ。
「生きることしかできないのなら、私は生き続けてやるわ」
きっと誰しもが林の血は絶えたと思っているだろう。
ならばこうして、ひっそりと林の血をもった自分が生きているのは、関玿と関王朝への意趣返しとも言えるのではないか。
そう思ったら、少しだけ気が晴れた。
「いつか、関王朝にも狐憑きの呪いが降りかかるかもね」
◆
「ただ今戻りました」
「ああ、ちょうどよかった」
裏口から入った途端、楼主が満面の笑みで出迎えてくれた。隣には同じ表情の女将が並んでいる。
今まで見たことないような綺麗な笑みに、思わずビクッと身体を震わせてしまう紅林。二人の笑顔が薄気味悪く、紅林の足も一歩後退る。
一体何だというのか。
「た、頼まれました茶碗を買ってきました」
懐から茶碗を取り出し、楼主へと差し出す。
「おお、そうだったな。ご苦労」
楼主は、使いを頼んでいたことを忘れていたような素振りを見せつつも、手を伸ばした。
しかし、楼主が掴んだものは茶碗ではなく――。
「――っ!」
茶碗を持った紅林の手首だった。
ぞわりと怖気立つ。
「な、何か……!?」
早く茶碗を置いて去りたかったが、がっちりと掴まれていて引けどもびくともしない。チラと隣の女将に目を向ける紅林。
いつもであれば、楼主と近付くだけで不機嫌に眉を顰めるというのに、彼女はニヤニヤと気持ち悪い笑みを保っていた。
ここで紅林は、何かがおかしいと気付いた。
「あの……っ! 離して……離してください!」
反対の手を使って楼主の手を剥がそうとするも、彼の指はどんどんとキツくなるばかり。
そうして紅林が痛みに持っていた茶碗を落とした時、ようやく楼主が口を開いた。
「お前は後宮へと入ってもらう」
身体の奥底で、何かが砕け散る音がした。
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