35 いずれ傾国悪女と呼ばれても
「かっ……陛下!」
「関玿でいい」
関玿は、少々粗野な動きで、紅林の隣にドスッと腰を下ろす。
彼は、紫紺色の羽織に冠姿という出で立ちで、こうして改めてみると、やはり皇帝なのだなと思う。
元将軍だっただけあって、肩幅があり体つきもしっかりして、ヒラヒラと柔らかい雰囲気の衣を着ていても、気圧されるような威厳がある。
「それで、どこから逃げるって?」
気怠げに上体を預けた背もたれに腕をかけ、少し顎を上げて妖艶な視線を送ってくる関玿。
「俺がみすみす紅林を逃がすと思うのか?」
彼は口端を緩く上げ、紅林の肩口に落ちた髪を手に取って唇を落とす。
「――っ関玿! 約束が違うじゃない。今までと変わらずって、あなた言ったわよね」
一瞬、彼に見とれてぽーっとしていた。
危うく雰囲気に流され、言いたいことも言えなくなるところだった。首を左右に振って、紅林は邪念を追い出す。
「私は、宮女でいられれば満足だったのに」
「確かに。今までと変わらず後宮にいてくれとは言ったな。だが、変わらずに『宮女のままで』とは言ってない」
「罠じゃない!」
「違う。詳しく聞かなかった紅林の落ち度だ」
詐欺だ。
ぐぬぬぬ、と紅林が口角を下げて悔しそうな顔をしていれば、フッと噴き出した関玿が、童にでもするように紅林の頭に手をポンと乗せた。
「それに、お前は隙あらば俺から逃げようとする猫のような女人だからな。貴妃くらいにしておかないと、本当に逃げるだろ」
「そ、そんなことはぁ……」
「俺の目を見て言え。さっき、早速逃げようと言っていた我が貴妃殿」
背けかけた顔を、頬を掴まれ無理矢理正面に戻される。
「それに、情が篤い紅林のことだ。侍女を置いて勝手に逃げ出すことはしないよな」
「うっ……」
すっかり読まれていた。
妃嬪には侍女がつくのだが、一度誰かに仕えた侍女は、たとえ主の妃嬪が宮からいなくなったとしても、よその妃嬪に再雇用されることは少ない。
他人の手垢が付いた侍女を、他の妃嬪達は嫌がるものだ。
そうなると、元侍女は都落ち。女官か宮女となるのはまだいい方で、最悪の場合、冷宮で下女となることもある。
つまり、朱姉妹という紅林にとって大切な者を侍女にした時点で、紅林は逃げたくても逃げられなくなっていた。ちなみに、朱貴妃についていた侍女達は、狐憑きの侍女になるくらいならと女官や宮女になっている。
「せめて宮女に……」
「諦めろ。俺に愛されたのが悪い」
いや、皇帝が衛兵のふりして後宮に来たのが一番悪い。
――でも、それがなかったら、きっと一生会うこともなかったのよね……。
紅林は、目の前で白い髪を指に巻き付けて遊んでいる男を見つめた。
多分、いやもう、自分は嘘をつけないほどに彼に惹かれている。彼のためなら、自らの死を選ぼうとするくらいには。
それでもまだ、素直にこの気持ちを口にはできない。
――だって私は、林の血を引いた狐憑き。
紅林が聖旨を受けた時、誰かがぼそっと「崔王朝の再来」と言っていた。
国を傾け、妖狐と言われた『傾国』の末喜。
そして、皇帝を誑かし朝政を疎かにさせ『悪女』と呼ばれた母。
傾国を持ち、悪女の娘である自分は、もしかすると民に『傾国悪女』などと呼ばれる日が来るのかもしれない。
「関玿、本当に私を傍に置くつもり? 皇后がいないこの状況では、貴妃が国事行為にも、代理で出なければならなくなるって分かってるの」
狐憑きを妃にしたと表側にも広まれば、きっと彼は厳しい追及にさらされる。しかも、秘密がばれて血のことまで知られたらどうなるか……。
「秘密はいつかばれるものでしょう?」
あなたにばれたように。
「心配するな。ばれないようにするし、ばれたところで俺もそんなに柔じゃない」
不安に俯いた紅林の頬を、関玿の手が優しく包んだ。
「ずっと、俺が守るから……」
そのまま上向かされ、関玿の顔が近づいてくる。
「だから、大人しく俺の寵妃でいてくれ」
かすめるよりは長く、交わすよりは短い時間、二人の唇が重なった。
唇から熱が遠ざかったところで、紅林はやけに部屋が静かなことに気付いた。
口づけを見られたのであれば恥ずかしい、などと思ったが、部屋を見回してみても彼女達の姿は見当たらない。
「朱香? 朱蘭?」
すると、関玿が「ああ」と紅林の意図を察する。
「あの二人なら、紅林が俺に見とれてる間に下がってもらったが」
「みっ!? 見とれてないわよ!」
とっさに全否定してしまった。
しかし、自分でも顔が熱い自覚があるから、きっと赤くなっているのだろう。
関玿が声を押し殺して、渋るように笑っている。
「ははっ、まあ今はそれでもいいさ」
だが、と関玿は紅林の腰をぐいと抱き寄せた。
「必ず、紅林のほうから『離れたくない』と言わせてやるからな」
関玿は紅林の耳元に口を寄せ、耳朶を甘噛みするように囁く。
「覚悟してろよ」
「~~っい、言いませんからね……」
そう言う紅林の声は、かつてなく小さかった。
自分でも、そう遠くない日に言うことになるだろうと予感がしている。
だって、ここは後宮。
何が起こっても不思議ではないところ。
最後までお付き合いくださいありがとうございました!
少しずつ増えていくブクマやPVに日々励まされておりました。
読者の皆様、本当に感謝申し上げます。
何かしらのアクションがあるのが嬉しく、「今日はどうかな。楽しんで貰えるかな」と、日々の原動力となっておりました。
重ね重ね、感謝申し上げます。
今後も様々な物語を中華や令嬢もの問わず、書いていきたいと思います。
是非、この先も長くお付き合いいただけますと幸いです。
どうか、皆さまの日常が素敵な物語であふれますように。
巻村螢




