32 私には彼しかいない
それは、先ほど首に感じた衝撃とは比べものにならないほど、柔らかくて優しい力。
次の瞬間、紅林の目の前で矢の雨が降った。
雨粒のいくつかは桂長順の身体を貫き、残りは紅林と桂長順とをわけ隔て、地面に一線を引くように打ち込まれていた。
まるで、それ以上近づくことは許さぬとばかりに。
前のめりに膝から崩れ落ちる桂長順。
背には数本の矢が突き立っている。桂長順が紅林の後ろを見て「陛下」と呻くのと、背後から「大丈夫か、紅林」と言われ抱きしめられるのは同時だった。
声を聞かずとも、振り向かずとも、紅林には自分を抱きしめる腕の主が誰だか分かっていた。だって、この場所を知っているのは彼しかいない。
彼しかいないのだ。
「――っ関玿!」
自分には。
紅林は振り向くと一緒に、関玿の首に抱きつき、つま先を立てて彼の逞しい肩口に顔をうずめた。
「無事で良かった……紅林」
後頭部にそっと触れる大きな手に安心感を覚える。
しばらく関玿は紅林の震える身体を慰めるため、背中をさすり、肩口に寄り添う小さな頭を、頬や唇で撫でていた。紅林が落ち着いたと判断すれば、関玿は次に頭上――北壁の上へと声を張り上げた。
突然の大声に、びっくりして紅林の顔も一緒に跳ね上がる。
「将軍、よくやった。だが、もう少しでこちらまで当たるところだったぞ」
どこに向かって声を掛けているのかと思い目を凝らして見れば、北壁の上からこちらを覗き込む者達がいるではないか。
豆粒のような大きさだが。
つまり雨はあそこから射られたということか。あんな、人が豆粒になるような高さから。
「当たりませんって。そんな阿呆射手が自分達の中にいるわけないでしょう。それに射手を選んだのは陛下ですし、万が一当たっても自分に責任はないです」
「ったく」と関玿は、豆粒に呆れた声を漏らしていた。
「将軍以下の後宮への出入りを許す。長官の円仁捕縛と、この男を引き取りに来い」
頭上で短い返事がされ、あっという間に豆粒は城壁から消えた。
◆
すっかり辺りは夜になっていた。
薄暗い中、足元で虫のようにうごめく桂長順の姿は、些か不気味さがましている。どうやら矢は急所を外れているようで、息は充分にできているようだった。
「順安、話は大理寺で全て聞かせてもらうぞ」
「ッハ、このようなことに、なるならば……っ、火など放たず……遺体の検分ができる、よに……しておくのだった」
「……何を言ってるの?」
うわごとのように力なく口から垂れた言葉に、紅林は眉を顰めた。
なんの話をしているのだろうか。
しかし、隣の関玿には桂長順の言っている意味が分かったらしい。
「お前が燃やしたのか……後宮は」
眉根をこれでもかと寄せ、桂長順への嫌悪を最大限に表わしていた。
――後宮? どこの?
関玿の後宮は、一度も火事騒ぎなど起きていない。
とすると、残された選択肢は一つしかない。
「え、待って……でも、林王朝の後宮を燃やしたのは……関……」
隣を見やれば、こちらを向いていた関玿と目が合った。
翠月国の民は皆、皇帝が後宮を燃やしたと言っていた。血も涙もない冷血漢だと。
「あなたじゃないなら、どうして噂を否定しなかったの!?」
困惑気味に疑問をそのまま口にすれば、最初に声が上がったのは関玿ではなく、桂長順であった。
馬鹿にしたように、鼻で一笑される。
「賢い、思ったが……っやはり、まだまだ……童か」
やはり桂長順の言うことは意味が分からなかった。
すると、関玿が閉ざしていた口を、薄い溜息を吐きながら開いた。
「宮廷内を制圧して、後宮の方へ向かったらもう火が上がっていた。助けようとしたが、熱で閂は変形していて……。確かに火を放ったのは俺じゃない。だが、あの火災は反乱がなければ起きなかったものだ。だから、俺が火を放ったも同じことだと否定はしなかった。多くの者が死んでいった中、俺だけ綺麗な身でいようとは思わなかったから」
突如、「アッアッア!」と潰れたヒキガエルのような濁声で笑いだした桂長順。笑う度に地面で身体が跳ね、本当に蛙のようだ。
「甘い! 甘いぞ若造っ、その……優しさ、が、命取り……なるぞ! 民はお前を冷帝と呼ぶ……そういう目で見る。人殺しだとなァ!」
地面から見上げてくる桂長順の目は血走っていて、得も言われぬ凄みがあった。
無意識に紅林の足は後退り、ふらりと身体が揺らぐ。
「――っあ」
「紅林!」
しかし、すぐに関玿の腕に支えられ、そのまま腕の中に閉じ込められる。
大丈夫だと答えていると、南側の方から騒がしさが近づいてくる。ドスドスと重い長靴の足音と、野太い男達の声。
どうやら先ほど頭上にいた豆達が、桂長順を捕らえに来たのだろう。
あっという間に桂長順を引っ立てる男達は、まったく豆粒ではなく皆大柄で、関玿よりも大きい者もいた。
「これからが楽しみですね、陛下」
両脇を掬われるようにして抱えられた桂長順は、最後に目線だけこちらに向け、あの気味悪い声で笑った。
「ああ。お前にこれからを見せてやれなくて残念だよ」
関玿の言葉に、桂長順は目の下を引きつらせ、何も言わずに視線を切った。
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