22 運命の乞巧奠
乞巧奠も当日を迎え、後宮は準備期間とは比べものにならないほどの忙しさだった。
一通りの儀式が終われば、あとは行事という名の酒宴だ。宴殿では舞が披露され、舞台の周囲では、妃嬪と官吏達の歓楽の宴が繰り広げられている。
日が傾き茜色と紺色が空を二分すれば、地上で焚かれている数多の蝋燭の光量が増す。薄暗い宴殿を足元から照らし、まるで夜空に輝く天の川を映したような煌びやかさだった。
昔から宮中儀式として行われているそれは、かつて紅玉だった時に紅林も出席した覚えがある。前日に念入りに髪を黒く染め、儀式中も酒宴中も、存在をひたすら薄くするためにほとんど発言もせず俯いていた。
いかに自分の息子を皇太子にするかしか頭にない妃嬪と、皇帝の傀儡師であった当時の宰相の桂長順と取り巻きだけが、酒宴で楽しそうに騒いでいたのを覚えている。
今思い出しても、不愉快な光景だ。
「はいはい、嫌なことは忘れる忘れる」
そんな中、紅林はというと調理場の裏にいた。
地面に並べられた盥には、上等品の食器たちが浸かっている。
洗っても洗っても、酒宴で使われた食器が「これもヨロシクネー」と、無遠慮に盥に投げ込まれていく。
女官、宮女、総出で酒宴を回していた。
バタバタと料理を運んでいく女達を横目に、紅林は不安げな息を吐いた。
「朱香、体調悪そうだったけど大丈夫かしら」
やはりあれからも朱香の体調が回復することはなく、今日などいつにも増して蒼い顔をしていた。それでも彼女は大丈夫だと言って、尚食局で割り振られた役目についている。
「代わって休ませてあげたいけど……私じゃ配膳はできないし」
後宮内では、紅林の存在は当然のものとなっているが、後宮と関わらない宮中官達は露知らぬこと。
後宮に狐憑きがいると知れば、酒宴どころではなくなる可能性があった。
「一段落したら様子見にでも行きましょ」
とは言いつつ、さて、様子見に行けるのはいつになることやら、と紅林は目の前に広がった桶群に口元を引きつらせた。
「ぎゃんっ! ちょっと、あんたどこに落としてんのよ!?」
ザブザブと食器を洗っていると、厨房から料理人の面白い悲鳴が聞こえた。
「なんでよりによって竈の中に茶碗を落とすのよー! だから、端によけておきなさいって言ったでしょ! 焼けて使えないじゃない」
「だ、大丈夫だって、洗えば使えるって。紙と違って茶碗は燃えないんだし」
紅林は、裏口から厨房の中をひょいと顔を覗かせ窺った。
どうやら、鍋を上げた拍子に、近くに置いていた茶碗が火口から竈の中に落ちてしまったようだ。姐御っぽい女官と妹っぽい女官二人が顔を傾け焚口を覗き込んで、火かき棒で懸命に掻きだしている。
やはり厨房もてんやわんやしていた。
次々に料理が仕上げられ、女官が毒味をして可が出たものがどんどんと運ばれていく。酒もアレに入れろドレに入れると、酒壺一つで大変な狂騒だ。間違っても竈に落ちる者が出ないといいが。
「――っよいしょー! ほら、燃えてない! 無事!」
どうやら竈の中から茶碗を救出できたようだ。地面に転がした茶碗を見て喜んでいる。
「馬鹿ねえ。ほら、見てごらんなさい、どこが無事なのよ。焦げちゃったじゃない」
「こんなの水で洗えばとれるって…………って、あれ?」
妹っぽい女官は黒くなった茶碗を前かけで掴んで、近くの水桶に放り込んだのだが、彼女の声を聞く限り、言った結果にはならなかったようだ。
「ほら見てみなさい。煤が焼き付いちゃったじゃないの」
あーあ、と呆れた声を出す姐御女官。
「もうこれじゃ使い物にならないわね」
姐御女官は妹女官から茶碗を取り上げると、ぽいっと地面に放り捨ててしまった。ゴロゴロと茶碗は転がり、裏口――紅林の足元で止まった。
「さ、新しいのに変えて、さっさと準備しましょ」
女官達は無駄のない動きで調理に戻った。
紅林も早く持ち場に戻って盥を空にしなければならないのだが、しかし、紅林はそこを一歩も動けなかった。
紅林の視線は、足元に転がっている焼けた茶碗だけに注がれている。
「……これって……」
本来ならば美しく輝いていただろう、五色の金華模様の茶碗。
しかし、今は火に焼けた部分のみ変色していた。
まるで、黒いもやみたいに。
「朱香、まさか――!?」
紅林は食器が大量に入った盥など見向きもせず、一目散に宴殿へと走り出した。
宴殿の方から、女達が空になった食器や杯を手に戻ってきていた。
紅林はその一団の中に朱香がいるのを見つけ、脇の生け垣の中へと引っ張り込んだ。
「うわ!? ――って、こ、紅林……?」
どうしたの、と朱香が口にする前に、紅林が口を開く。
「ねえ、今あの酒壺はどこにあるの」
「さ……さあ……」
腰を引いて紅林から距離を取ろうとする朱香を、紅林は彼女の肩を掴むことで制す。
「思い出して、朱香! でないと、あなたまで大変なことになるわよ!?」
「――っ!」
朱香が息を呑んだのが分かった。
視線は紅林を見ているようで、微妙にずらされている。
「その反応……知ってるのね!? あれがなんだか」
紅林の、朱香の肩を掴む力が強くなる。
身体を揺らし、朱香に返答を求めるも彼女は紅林から視線を切ったまま口を引き結んでいた。
「いえ、待って……あれは確か朱貴妃様から預かったんじゃ……じゃあ朱貴妃様が?」
朱貴妃の名を出した瞬間、逸らされていた朱香の瞳が紅林を正面から捉えた。
今度は朱香のほうが紅林の肩にしがみつくようにして迫る。
それは、先ほど紅林が迫ったときよりも真に迫っていて。
「――っ助けて……紅林」
蒼ざめた顔で、朱香は懇願を口にした。




