21 お願い、これ以上近付いてこないで
「――ということで、失せ物の事件は、ひとまず落ち着きはしたのかと」
「そうか。証拠がもう集められないなら仕方ないな」
北庭の花が供えられた場所で、紅林と永季は並んで腰を下ろしていた。
今日の供花は山梔子だ。真っ白な花弁が薄暗い場所ではよく映え、山梔子特有の甘い香りが辺りを包む。
「ただ……ずっと気になっていることがあるんです」
供えた花の一輪を手に取り、紅林は指先で歪な形の花弁を一枚ずつ撫でる。
「徐瓔さんは侍女達の間で『商人が買い取ってくれる』っていう話が回っていたって言ってましたけど、一番最初の人はそれをどうやって知ったんでしょうか」
「それは、紅林のように花楼かどこかで、似たようなことを知った者がいたんじゃないか?」
そんなことあり得るのだろうか。
元より、花楼でそのようなことは行われていない。紅林が咄嗟のでまかせで言ったことなのだから。
「知っていたとして、それを実行するにはある程度の見返りと安心材料が必要なはずです」
まず、後宮に入るまで、後宮に市が立つことすら知らない者がほぼだ。市が立つと知った後でも、普通は売って換金しようなどとは思わない。
それに換金を考えれば、並の品ではなく、やはり妃嬪が持つ上等品でないと意味がない。盗んだのがばれたときの危険性を、想像しないわけではないだろう。
「ばれない自信があったとか……?」
では、その自信の根拠は――などと、考え出すと次々に疑問が浮かんでくる。
「犯人がどのくらいいたのかも、易葉がどれくらい盗んだのかも、私達には分かりませんからね。推理するには情報が少なすぎます」
紅林は手にしていた花を、なげやりに供花へと戻してやった。
「はぁ……結局、明確な答えは出ませんね」
「俺達では得られる情報が少なすぎるしな。やはり内侍省に任せた方が早いかもな」
悔しそうに抱えた膝の上に顔を伏せた紅林を見て、永季は苦笑していた。
膝に頭を乗せたまま、顔だけを横向ける紅林。隣に座る永季の身体は大きく、膝を抱いて小さくなった紅林の視界には、首から下の部分しか映らない。
「てことは、これで失せ物のお仕事は終わりですか」
何気なく呟いた言葉だったが、視界に映った永季の身体はピクリと反応した。
身体の横に置かれていた彼の手が、こちらへと伸びてくる。
「終わりなら、また名を呼ばないつもりか」
言葉が掛けられるのと、彼の手が首筋に触れるのは同時だった。
「――っえ……ええと……」
弾かれたように顔を上げた紅林。言葉か、触れた指先か――どちらに反応して顔を上げたのかは自分でも分からない。
顔を上げたことで、視界に映るようになった永季の顔は、怒っているような、拗ねているような、それでいて少し悲しそうなものだった。
「俺と距離を置くつもりか」
「痛……っ」
首筋にチリッと鋭い痛みが走った。
首筋を撫でていた永季の手が、爪を立てたのだろう。
「……距離を……」
置かなければならない。
後宮で平和に暮らしたいのなら、人間関係は必要最低限に留めるべきであって、間違っても、他の女達から嫉妬を買うような衛兵とは、関係を続けていてはならない。
悩めば悩むほど、紅林の顔は俯いていく。
――でも……。
次の瞬間、足元を映していた顔が、無理矢理に上向けられた。
首筋にあった永季の手が紅林の顎の線を滑り、頬をとらえていた。
「…………!」
急な展開に目を白黒させる紅林だったが、お構いなしに永季の顔が覆い被さろうとしてくる。
「――っや、ぁ、待ってください」
思わず両手で彼の胸を押し返した。
彼が自分になにをしようとしているのかくらい分かる。
途端に昨日の一瞬の出来事が思い出され、顔に熱が集まる。
紅林は、供花に山梔子を選んだことを後悔した。
山梔子の甘ったるい香りで頭がクラクラする。酔って倒れてしまいそうだ。
「昨日は受け入れてくれただろう」
「あっ、あれは突然のことで……っ、……それに、受け入れたわけではなく、躓いた永季様と……顔が触れてしまっただけですから」
「そうくるか」
気持ちだけの話ならばいい。
だが、認識を伴った行為をしてしまえば、言い訳もできなくなる。
彼も自分の主人を裏切ることになるというのに。
「どうしたら俺を受け入れてくれる」
「ですから、後宮の女である限り、受け入れることはできないんです。後宮のものは全て陛下のものですから………っ分かってください」
「それは、紅林が宮女だから受け入れられないという意味か……」
いつの間にか彼の手は紅林の腰に回され、手で突っ張っていないと、あっという間に距離がなくなりそうだった。
「俺が嫌いだからというわけではなく」
「……花に酔われてますね、永季様」
「酔ってなど――」
「でなければ、私を殺したくて仕方ないんですね」
紅林は視線を上げ、永季の赤い瞳を正面から見つめ返した。
「不義密通の罪で裁かれてほしいんですね」
怯んでは駄目だ。ここで一瞬でも隙を見せれば、彼は腕の突っ張りなど簡単にねじ伏せてくるだろう。元より、自分の押し返す力など、彼の力に比べれば無いも一緒なのだから。
永遠の如き数瞬の後、腰に巻かれていた永季の手が離れた。
良かった、と紅林はほっと胸をなで下ろした。
永季の手も離れ、ようやく二人の距離が正常に戻る。永季は立てた片膝に頬杖をつき、明後日の方向へ鼻から溜息を漏らしていた。
「それに私、永季様のことを全然知りませんし」
「聞いて面白い話じゃないさ」
それはつまり、言えないということなのか。
自分にも言えないことのほうが多いし、無理に聞こうとは思わなかったが、それでもやはり突き放された感は否めなかった。
訪れた沈黙が落ち着かず、紅林はソワソワと視線を右往左往させてしまう。
「……紅林は、なぜ後宮に来たんだ」
「なぜ……?」
「やはり、皇帝の寵を求めに、か?」
彼の顔は依然として明後日を向いている。
「私が宮女になったのは、花楼の店主に売られたからです。でなければこんなとこ、自ら望んでなんて……」
「紅林は皇帝とそのような関係になるのは、望んでいないということか」
チラ、と赤い瞳だけが目の内側を滑り、紅林に向けられた。
そのような関係の意味が分からないほど、紅林も子供ではない。永季もそれは承知した上での発言だろう。
しかし、紅林は向けられた彼の視線に耐えられず顔を俯けた。そういうことを理解していると思われるのが、この上なく恥ずかしかった。
「え……永季様は、陛下に会われたことはありますか? どのような方でしょうか」
「知ってはいるが、どのような人物かは……」
「冷帝だなんて言われますが」
「衆評が全部正しいわけでもあるまい」
確かにそれもそうだ。
世間では母は悪女だったが、本当は悪女とはかけ離れたところにいたのだから。
所詮、人の噂話など当てにならない。
「でも、陛下は後宮を焼きました」
永季の空気が張り詰めたのが分かった。固唾を呑む音も聞こえた。
「何千人もの女や官達を灰にしたんです」
残ったのは自分と、恐らく石や鉄という燃えなかったものだけ。
「なぜ陛下は後宮を訪ねられないのでしょうか」
林王朝の後宮を更地にして、せっかく自分の後宮を作ったというのに。
「紅林は、皇帝が気になるのか」
「ええ、気にはなります」
頬杖から顔が浮かせた永季。驚いた、と点になった瞳が言っている。どこか、瞳の赤色がキラキラと輝いて見える。
しかし、それも一瞬。
「嫌いな人ですから」
紅林の言葉を聞いて永季の表情は変わらなかったが、赤い瞳からは温度が失われたように見えた。やはり、自分の主人を嫌いだと言われ、いい気はしないのだろう。
それでもお構いなしに、紅林は続ける。
「彼は、私がこの世で一番憎んでいる人です」
永季の赤い瞳の中で、はっきりと彼の瞳孔が揺れたのが分かった。
「……一度も会ったことがないのにか」
「会いたくもありません」
そうか、と言ったきり、永季は別れるまで喋らなかった。
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