19 どうして来ちゃうんですか
乞巧奠が近づくにつれ、後宮は慌ただしく、女達の気は段々と鋭敏になっていった。化粧に余念がなくなり、頭上で揺れる歩揺や帯飾りが日に日に派手になっていく。
なんといっても、初めて皇帝を間近に見ることができるのだ。
万が一、ここで皇帝に見初められでもすれば、冊封もあり得る。
現在、四夫人の席はすべて埋まっているが、その一つ下の九嬪や、もう一つ下の世婦の席は空いているのだから、女達が我こそはと競争心をたぎらせるには充分だった。
普段使われてない祭祀用の倉庫が開かれ、祭祀道具の点検やら品出しに尚儀局や尚服局の女官達が走り回り、皇帝や妃嬪達が口にするものには最高の食材を、と尚食局の女官達も大わらわ。
倉庫から出された道具はどれも新品で、やはり後宮は全て燃えたのだと実感してしまう。
紅林の仕事はいつもの北庭の掃除に加え、乞巧奠準備の雑用が増えた。女官にアレはアッチに、コレをソッチに、ソレはドッチに……と、こき使われまくっている。
広い後宮内を荷物を持って、大して肌触りの良くない襦裙であちらこちらへと走り回る紅林。すっかり体の良い使い走りにされてしまった紅林は、荷物を抱えて後宮門近くの内侍省へと急ぐ。
ここら辺は衛兵も宮女や女官も多く、それをよけて走るのがまた大変なのだ。
――い……いい加減、疲れるわよ……っ!
焼け出されてから五年の流浪で培った体力でも、さすがに限度がある。ぜぇぜぇと息を荒くしながら体力の限界を嘆いていたら、とうとうやってしまった。
「――ぁあっ!?」
おぼつかなくなった足がよろけ、紅林は近くで雑談していた女官達にぶつかってしまった。
「あ……っぶないわねえ!? どこ見てんのよ!」
「し、失礼……しました……」
「って……げっ、狐憑き!? やだー触っちゃった、不幸になったらどうしようー」
荷物は落とさずにすんだが、女官からの雷が落ちる。
「あんた、なんでこんな後宮門近くをうろついてんのよ。確か北庭が掃除場だって聞いてるわよ」
「あーさぼりだぁ。ただでさえ掃除しかできることないくせに生意気ぃ。ちゃんと働けよ!」
二人の女官は、俯く紅林に膝を折って謝れとばかりに、上から雑言を浴びせ続ける。
――ちょ……今は勘弁してほしいんだけど……。
正直、何を言われているのか、疲れすぎて脳が理解できていない。ただ、猿のように騒がしい奇声が耳に入るだけ。
そんなだから、紅林が女官達の言葉に反応を返せるはずもなく。
無反応の紅林を見て、無視されていると思ったのか、女官達の怒りが加速した。
「……へえ? いい歩揺してるじゃない。狐憑きの分際で、なに色気づいてんのよ! 気色悪い!」
次の瞬間、紅林の俯けていた後頭部に鋭い痛みが走った。
「痛――っ!」
力任せに髪ごと歩揺を鷲づかまれ、無理に引き抜こうと引っ張られる。髪を押さえる紅林の手を払おうと、女官が髪を握ったまま左右に振るたびに、頭皮に針が刺すような痛みが走る。
「や、ぁ……っ痛い……っ!」
「何が痛いよ。大体、失せ物も全部あんたのせいでしょ? あんたが来てから始まったんだもの。侍女一人を冷宮に入れて殺した奴が……どの口で痛いって言ってんのよ」
「この歩揺は似合わないから、もらってあげるわ。あんたは、そこらへんの木の枝でも挿してな」
疲れていたこともあり、また、やはり二人がかりの拘束には敵わず。
「いや――っ!」
紅林の抵抗虚しく、手で庇っていた隙間からするりと歩揺が引き抜かれる。
「やったぁ、もーらい!」
女官は奪い取った歩揺を、嬉しそうに高く掲げた。
「何をしている!」
「ひゃっ!?」
しかし、落雷のような突然の怒号に女官は悲鳴を上げ、手にした歩揺を地面に落としてしまう。
場にそぐわぬシャランと華奢な音が足元で響く。
同時に紅林は、突然女官達からの圧力が消えたことにより、力の均衡が崩れ、ぐらりと体勢を崩した。
――あ、駄目だわ……。
手には荷物。消耗した身体では踏ん張りもきかない。
紅林は早々に諦めて、きたる痛みを受け入れようとしていた。が、紅林を襲ったのは痛みではなく、力強くも優しい抱擁。
「……え」
驚きに顔を上げてみれば、焦った表情の赤い瞳がこちらを見ていた。
「……永季……様?」
「紅林」と掠れた声で呟いた永季は表情を緩める。しかし、次に目の前の女官達に視線を向けるときにはもう、柳眉を逆立て静かな怒気を全身にほとばしらせていた。
「彼女に用があるのなら、俺が代わりに聞こう」
「っ何よ! 衛兵の分際で口出してんじゃないのよ!」
威勢良く食ってかかってはいるが、彼女の足はジリジリと後退している。
「これは後宮内の問題だから、衛兵には関係ないでしょ!」
「関係はある。彼女は俺の大切な人だ。傷つけられれば、当然怒るさ」
紅林の肩を抱いていた永季の腕の力が増す。
一方、彼の言葉に女官達はもちろんのこと、紅林すらも瞠目して息を止めていた。
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