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星と海

星すまし

作者: 雨足怜

世界の声に包まれて。

 暗闇の中。耳を澄ませば、そこには世界がある。

 光が消えても、全てがなくなるわけじゃない。

 小さな息遣い。フローリングを歩く音。ぼくの手を引く彼女の温もり。仄かな石鹸の香り。

 音が、熱が、感触が、匂いが、世界には溢れている。

 それら全てに包まれながら、ぼくは幸福な夢を見て来た。

 そこには光があった。何も持っていなかった、空っぽのぼくが捜していた、幸せという日常があった。

 だからぼくは孤独じゃなかった。

 彼女がいてくれたから、ぼくは世界を生き続けられた。

 彼女がいてくれたから、ぼくは世界と繋がっていられた。

 もう、彼女のいない人生なんて考えらえない。

 ぼくの半身のような彼女は、今日もぼくの手を引いてくれる。

 暗闇の中、その熱だけが、恐怖を感じることなくぼくに一歩を踏み出させてくれる。


 ◆


 余命宣告を受けた。

 そのことに、落胆することはなかった。

 人生六十年ほど。この時代においては少々短いかもしれないけれど、もう十分に生きたと思った。

 ぼくは高校生の頃に失明した。

 世界から光が消えた。暗闇に立たされて、歩むべき道を失い、一時期ぼくは死を考えた。

 ぼくには、何もなかった。輝かしい未来も、幸福な世界も、何も。

 けれど、そこにはぼくの手を引いてくれる彼女がいた。

 そうして、ぼくは歩き出した。

 短くも長い道のりを、自分の足で歩いた。彼女の手を借りながら。

 思い残すことは、ほとんどなかった。けれど、彼女と離れることになるということだけが、辛かった。

 妻は――みういは、ぼくなしで歩いていけるだろうか。多分、歩いていけるだろう。彼女は強い。ぼくという自分では何もできないような人を支え続けてくれた、強い人だ。

 その事実が、心にささくれが刺さったような痛みを与えた。

 死にたくないと、思った。

 もう少しだけ、彼女と生きていたい。もう少し、もう少し、彼女と一緒に日々を過ごしたい。彼女を、一人にしたくない。

 娘と昔話をしたい。息子のお相手を見たい。

 大きくなった孫を抱きたい。

 したいことは、山ほどあった。けれど、それらの多くは、叶わない。

 届かぬものに手を伸ばすのは、もうずっと昔にやめている。手に入らないものは、どうやったところで手に入らない。そんな物分かりの良さだけが染みついた。これが、大人になるということなのだろうか。

 手に入らないものはさておき、今ぼくの手の中にあるものは、まだ失わずにちゃんとそこにある。

 だから、ぼくは今日も、ありふれた日々を送る。

 両腕で大切に抱え続けた、この幸福で胸いっぱいの、温かな日々を。


 何をしたいか――

 定年退職したみういがそう聞いて来る度、ぼくは必死に頭を働かせた。

 みういお手製の煮つけが食べたい、一緒に皿を洗いたい、手をつないで散歩をしたい。そんなありふれたことしか、浮かばなかった。

 たぶんそれらは、ぼくにとっての幸せの形の一つだった。けれど、それでみういは満足しなかった。

 少しずつ、ぼくの体は衰えていく。

 死が、近づいていく。

 体が痛むようになる。

 考える。一人になったみういが、生きていくための思い出を。

 考える。ぼくが、みういと一緒にしたいことを。

 時刻は深夜。冬の冷たい空気が一層冷え、暖房がきいている部屋も床からの冷気で底冷えしそうだった。

「……海に、行きたい」

 娘が家を出てからもうずいぶんと海に行っていないことを思い出した。

 三寒四温でころころと気温が変わり、春だと思えば真冬かと錯覚するような寒気が襲って来るような日々を過ごす中、ぼくは久しぶりにみういにしたいことを提案した。

「海、ね。いいわよ。行きましょうか」

 そんな風に告げたみういが早速立ち上がる。こたつの中の熱が失われ、足を冷気が襲った。あまり動かないからか、ぼくの体は寒さに弱い。防寒具を何枚も重ねて着ているにも関わらず、ぼくは寒さで小さく体を震わせた。

「……え、今から?」

 なにやら準備を始めたらしいみういの動きを感じながら、ぼくは大きく首をひねった。ぼくの気のせいでなければ、とっくに夜になっている。小さな音で流れるラジオも、勘違いでなければすでに十一時過ぎの番組だ。

「あの、みうい?」

「ほら、行くわよ。立って」

 有無を言わさぬ調子で、彼女はぼくの手を取る。柔らかさを失ったその手には、たくさんの苦労が刻まれていた。多分その半分以上は、ぼくによる苦労だろう。

 いつだって、みういはぼくを支えてくれた。弱音一つ吐かずに、ぼくの横にいてくれた。

 そんなみういと、少しでも多くの思い出を残したい。

 だからぼくは、急かすみういに苦笑を返しながら立ち上がり、彼女にマフラーを巻かれ帽子をかぶせられながら肩を竦めて見せた。

 扉の先、冷気が体に刺さる。逃げるように乗り込んだ先、軽自動車の車内も冷え切っていた。

 慣れた様子でぼくのシートベルトなどを止めた彼女がエンジンを入れる。

 動き出した車のシートに身を預けながら、ぼくは年甲斐もなく興奮していた。

 夜。寝静まった街にぼくたちはくり出す。老爺と老婆である点に目をつむれば、それはひどくロマンティックだと思った。

 そういうロマンス溢れる時間は、ぼくたちにはなかった。そんなロマンスめいた時間を、ぼくはみういに与えることができなかった。

 仕方がないと言えばそれまでだけれど、ぼくは気が気じゃなかった。だって、世界を探せば、間違いなくぼくよりもいい相手がたくさんいたはずだから。いつかみういが別の男のもとへ行ってしまうんじゃないか。ぼくのことを捨てるんじゃないか。そんな恐怖は、きっと今もぼくの心の中に在る。

 暗闇の中、手探りで伸ばした手が、みういの柔らかな肌に触れた感触を思い出した。小さく漏れる熱い吐息。求めるように重ねられた手。顔が沸騰したように熱くなった。

 高揚のまま、ぼくは流れだした音楽に耳を澄ます。

 その中に、みういの息遣いが混ざる。ゆっくりと、小さく音楽にみういの歌声が重なる。

 彼女はまだ、ぼくの隣で生きている。ぼくといっしょに、歩いてくれている。

 それを実感するだけで、ぼくはまだ当分、生き続けることができる気がした。


「ごめんね。いきなりこんなわがままを言って」

「気にしないで。たまにはこういうのもいいでしょ」

 みういの手を取って車から下りれば、耳朶を潮騒が揺らす。

 引いては打ち寄せる海の音。香るのは、むせかえるような潮の匂い。強い潮風がぼくたちを撫でるように吹きつけ、みういの長い髪を揺らす。その毛先が首を撫で、ぼくは小さく身じろぎした。

 一歩、また一歩、暗闇の中をぼくは歩く。

 久しぶりに、恐怖を思い出した。

 闇の中、一歩先には足元がないんじゃないかなんて、そんなことを思ったことがある。

 思春期をやや外れた高校生の終わり、失明後すぐ。精神的に不安定だったぼくは、たった一歩、自分の部屋から、自分の足で外に出ることすらままならなかった。ふさぎこみ、現実逃避し、ただ悪夢という現実が過ぎ去るのをじっと身を潜めて待ち続けた。――そんなことをしても、現実は何も変わらないのに。

 そんな過去を思い出しつつ、けれどぼくの心に巣食う恐怖はすぐに溶けて消えていく。

 ぼくの手を引くみういの熱が、ぼくの恐怖を払う。その手があるだけで、その熱を感じているだけで、ぼくは何者にでもなれる気がした。

 踏みしめる地面が、コンクリートから砂に変わる。足を取られそうなその感触を懐かしみながら、ぼくはまた一歩、闇に踏み出す。

 さくり、さくりと砂浜を歩く。みういと共に、歩いていく。

 どちらからともなく砂浜に座った。そのまま寝そべる。

「星がきれいよ」

 みういが言う。そっか、とぼくも返事をする。

 衣擦れの音がした。ぼくの手を取ったみういが、一緒に空の一角を指し示す。

 様々な星座が、みういの口からこぼれる。鈴の音のような心地よい音が、ぼくの魂にしみわたる。

 ふと、その手が止まる。再びゆるりと動き出した腕は、空のある一点、やや低い位置を指し示す。

「……あれが、北極星よ。わたしのおじいちゃんと、そのお父さんの導きの星」

 導きの星――それは、みういが時折使うフレーズだった。道に迷った人々を導く、空に輝く星。多分、そこにはぼくの知らない意味がこめられている。

 わたしはもう、わたしの導きの星と共にあるから――懐かしい声が聞こえた気がした。もうずいぶんと昔、みういが誰かの墓前で告げた宣誓。

 あれからずいぶんと経った。そうして今も、ぼくは彼女と共にいる。

 みういの手が離れる。

 なんとなく、そのまま天へと手を伸ばした。そこにあるだろう無数の星々へ届けと、手を伸ばす。

 星は見えない。世界は相変わらず闇に閉ざされている。

 吹きすさぶ風のせいで、みういの息遣いだって聞こえやしない。

 海の声、風の声、月の声、星の声、陸の声。

 世界には、声が溢れていた。音が満ちていた。

 音は、ぼくに残された、世界との最大の繋がり。広大な世界の中で、遠くとの繋がりを感じられる音。けれどその音も、どこかぼんやりと聞こえていた。

 ザザァ、ザザァと海が鳴る。それはあるいは、波に運ばれる砂の音。陸の音。

 ……息子は、陸音は元気だろうか。ふと、陸の音という単語から連想して、今は職場の寮に住んでいる息子のことを思い出した。

 それから、擦れる砂の音を聞きながら、何かに気づく。既視感というか、心に何か引っかかるものがあった。

 この音を、以前、海ではないどこかで聞いた気がした。どこだっただろうか。

 とりとめもなく、思考が移る。

 答えを、探す。求めるように、手を動かす。

 握る手は、星をつかむことはない。けれどその手に、熱が加わる。

 ぼくの手を包むように、みういが手を握る。

 その手が、砂の上に落ちる。

 一度ほどいた手の指を絡め、ぼくはそっと目を開く。

 そこには、何もない。みういの好きな星も、みういの好きな海も、ぼくには見えやしない。

 けれど、耳を澄ませば聞こえてくる。潮騒に紛れた、いくつもの懐かしい声が。

 消毒液の匂いをはらんだ、か細い男性の声がした。砂の音が、海の音が聞こえていた。

 目を澄ませば、まばゆい星の海が見える気がした。病院の屋上から見た夕陽。宵の明星。闇に沈んで行く空に瞬くいくつもの星。

 見えない。つかめない。

 そこに本当に星があるのか、それはもう、ぼくにはわからない。

 世界は、ぼくを拒絶する。けれどぼくは、みういを介して、世界とつながっている。

「……ねぇ、ぼくは幸せだったよ。みういと一緒に居られて、幸せだった」

「わたしも、幸せだったよ。ハルと一緒に居られて、幸せだった」

 わずかに鼻をすするような声で、みういが答える。その声には共に歩いた月日がにじんでいた。

 固く手を握り、ぼくたちはもう何度目かわからない言葉を、想いを交わす。

 風に耳を澄まし、海の音を聞きながら。

 空に目を澄まし、星の光を探しながら。

 ぼくたちはいつまでも、冬の潮風に吹かれながら互いの熱を感じていた。


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