「わたくし達の婚約は『王命』ですのよ」
※神様などの加護というファンタジー要素あり
※基本なんちゃってな世界観ですので現実世界とは異なるあれこれが多々ありますが、創作世界における創作設定とご理解ください。
「わたくし達の婚約は『王命』ですのよ」
可愛らしい少女を中心に下級貴族の子息令嬢が取り囲む正面にいるのは、公爵家の令嬢であるアナベラ=オラールだ。美しく艶めく金色の髪の毛は毎日丁寧に手入れがされているのがよくわかる。透き通るような白い肌は薄く化粧を施されているものの、決して過剰ではない。最高級のエメラルドを思わせる緑色の目は長い髪の毛と同色のまつ毛に縁どられて、周囲の目をはっと引く。すっと伸びている背筋はそこまで背の高くない彼女を大きく見せている。
ファリティア王国の王都にある王立学園は国内の高位貴族は必ず在籍し、下位貴族は成績が優秀だと認められれば、そして平民はかなり特殊な能力を有しているか高位貴族の後見があり有用であると認められれば通学を許されている。
明確な身分差は存在し、学園に在籍していても決して平等などはあり得ない。授業を受ける為の棟ははっきりと区別され、カリキュラムも何もかもが異なっている。
その中で、稀に意見交流の場が設けられることがあり、高位貴族は下位貴族や平民の意見を聞くことが出来、下位貴族や平民は高位貴族に意見を申し立てる事が出来る。
例外があるとすれば、学園の外、すなわち本来の立場ですでに交流が為されている場合である。アナベラは公爵家の令嬢であるが、父は貴族議会派筆頭の公爵で、同派閥に与する伯爵家令嬢のカーリン=ノーディンや子爵家令嬢のナタリー=スプリッグといった友人とは学園内でも親しく会話をすることがある。伯爵家は高位貴族に分類されるが、貴族最高位である公爵家令嬢と行動を共にするには少しばかり家格が劣る。しかしアナベラの友人という立場がそれを許している。
そしてナタリーは子爵家であり下位貴族であるが、午前と午後の合間の休息時間に共に食事をし、会話をすることを許されているのはアナベラの友人であるからだ。
入学前からの関係性を明言しているからこそ、彼女たちのような例外は許されているだけで、そうでない場合は正式な申し入れがない以上下位貴族より声を掛けることすら許されない。平民ならば言うまでもないだろう。
さて、その中で現在彼女たちがいる場所は、学舎から昼食を食すための食堂への途中、中庭の辺りで、下位貴族と高位貴族が最も接近できる場所である。この道を通るのは、アナベラとカーリンがナタリーと合流する為であり、そうでなければ経由する必要のない場所であった。
その行動を利用したのかもしれないが、突如声を掛けられたのである。
「アナベラ様、クリス様との婚約を解消していただけないでしょうか」
赤茶色の髪の毛に榛色の目の少女は周囲を下位貴族の子息令嬢に囲まれ、その中心であり先頭に立って突如アナベラに声を掛けた。
これは明確な不作法である。
まず、余程親しい関係でない限り名前で呼び合う事はない。アナベラがカーリンやナタリーに「アナベラ様」と呼ばれるのは彼女たちが友人関係であるからであり、同じ公爵家の令嬢であるロベルタ=アルドロヴァンディとは互いに家の名で呼び合っている。
ましてや、アナベラの婚約者であるのはこの王国の第一王子で、学園を卒業した後、王族と議会の賛同を得て立太子をする予定であるクリストフ=ヘイデンスタムである。名前で呼ぶことが許されるのは同じ王族や婚約者で許可を得ているアナベラ、それに限られた彼のごく僅かな友人だけであり、第一王子殿下と呼ばなければならない。ましてや愛称など、余程親密でなければ声に出しただけで不敬となりえるのだ。
アナベラにとってのカーリンやナタリーのように、クリストフにも幼い頃からの友人がいるけれども、彼らとてクリストフを「クリストフ殿下」と呼ぶ。それが身分というものだからだ。
それを、目の前の少女は容易に踏みにじる。それだけでない、アナベラとクリストフの婚約は『王命』によってなされたものだ。それに口を出してきたのである。
礼をするでもなく、挨拶もなく、名乗りを上げることもなく突如として妄言を吐き出す少女も、それを咎めることなく、それどころかその発言を正しいとみなしているのだろうか、アナベラを睨みつけるように見据える子息令嬢たちも、全員が己たちの発言、行動がどのような結果をもたらすか、など考えてもいないのだろう。
アナベラの一歩後ろに控えているカーリンは少し離れたところに立っていたナタリーに視線を向ける。それだけでナタリーは理解し、静かにその場を去る。彼女が向かうのは、学園内を警邏している騎士の元である。身分のしっかりとした高位貴族出身の騎士達は至る所にいる。だが、稀に今のようにほんのわずかな空白ができることもある。それでも近場にいる事はわかるので、ナタリーは速やかに己のすべきことをする為に行動をする。
それらの動きを見て後、アナベラは美しく微笑みを浮かべると、はっきりと彼らに告げるのだ。
「わたくし達の婚約は『王命』ですのよ」
と。
「つまり、お二人の間に愛情は無いという事ですね。ならば、クリス様を解放してください」
「わたくし達の婚約は『王命』ですのよ」
全く同じ言葉を二回目。それが気に障ったのか、少女の後ろに立つ子息の一人が大声を発する。
「王命が何だっていうんだ!リナの言うとおりに婚約を解消すると言えば良いんだよ」
その言葉を端に、大声でわめきだす子息令嬢たち。中心にいる少女はその言葉に勇気を得た、と言った表情でアナベラへ再度告げる。
「王命でも、そこに愛がないのならば結婚に意味はないのではないでしょうか。クリス様はアナベラ様とご一緒でも楽しそうではありません。交流会で私たちには優しく微笑んでくださり、私にはお優しい言葉をくださいました。しかし、アナベラ様の前では笑顔一つ浮かべられていません。そんなの、クリス様がお可哀想です!」
ぎゅっと胸の前に組んだ手に力を籠め、アナベラを批判するような言葉を発した少女、リナと呼ばれている彼女にアナベラはもう一度同じ言葉を繰り返す。
「わたくし達の婚約は『王命』ですのよ」
ナタリーが騎士を連れてきたのが見える。広い場所ではあるが、声は良く通り、これらの会話は良く聞こえることだろう。
少なくない高位貴族は眉間に皺をよせ不愉快を表現しながらこちらを見ている。
背後だからだろう、それが見えない集団の中で血気盛んな子息がアナベラへと近寄ろうとした。しかしそれよりも早く、騎士はその動きを止めた。それどころか、多くの騎士たちが一斉に彼らを地に伏せ捕えだしたのだ。
「な、なにを」
「お分かりになりませんの?あなた方は先ほどからご自分たちが『王家へ叛意を示す国賊である』と宣言していたではありませんか」
「そんなことはありません!痛いっ、離して!」
令嬢たちに対しては女性騎士たちが腕を後ろに捻り動けないように制する。本来であれば許されない程の無礼だが、彼らの発言の危険性を踏まえると当然の対処であろう。
「わたくし達の婚約は『王命』。その意味が分からないのですか?王命とは国王陛下が命じた事であり、その命令への意見申し立ては正当性がない限り国王陛下へ叛意を抱いているという事ではありませんか」
例えば、アナベラが子を産む事の出来ない体であり、それが証明されたならば婚約への意見申し立てが為され、正当性があると判断されれば解消される。また、王家と貴族議会派との融和の為の婚約であるがその意味合いが不要になる為解消されることもあるだろう。そのような正当性があるならば許される。
しかし、彼女の発言はただの感情論であり正当性などどこにもない。それどころか国王の命じた事を否定する言動は、王国では許されないものだ。なぜならば、王国は国王が唯一にして絶対の存在である。無論、法はあり、その法を犯す事は国王とて許されない。しかしそれを踏まえた上での国王が発した言葉は国民であれば必ず従わなければならないのだ。
子息の一人は「王命が何だっていうんだ!」と発言したが、それは「国王陛下がなんだっていうんだ!」という事と同義なのだ。彼らは果たしてこの国の民なのだろうか。
昨今、市井の間では身分差を超えた恋愛というものが賛美されているという。高位貴族の子息と下級貴族の令嬢との恋物語や上位貴族令嬢と平民男性の恋など。その作者は間違いなく下位貴族出身の者だ。高位貴族であれば『この王国における高位貴族の意味』というものを知っている。
建国時、国王は神より力を授かり、その側近たちは神の使徒より加護を得た。その力は強大なもので、まだ出来たばかりで脆弱だった国が周辺諸国から食い尽くされない為だとされ、国を守るためにそれらを決して広げぬよう厳しく血統管理がなされるようになった。
高位貴族の結婚は同じ高位貴族で為されなければならないが、加護の力を薄めてはならないからだ。無論、それだけでは血が濃くなってしまうけれども、伯爵家以上であればそれなりの数の家があり、幸いにして歪みが出る程ではない。
稀に下位貴族が上位貴族の元に嫁入り、婿入りすることがある。それは本当に稀な事だが、気まぐれに神の使徒が加護を与える事がある。その場合はまず教会にその旨を伝える。すると教会を経由して王宮へと重大事案として申し入れが為され、神官と監察官がその家へ赴き加護の有無を確認する。認められると派閥を踏まえた上で後見となる家を選定する。本来であればすぐにでも高位貴族の元に養子に出すべきなのだが、神の使徒が望むのは本来の家族に愛され、そして高位貴族では見る事がほとんどない下位貴族や平民の生活を成長の中で取り入れ、そしてその知識を持ったまま高位貴族の元へ向かう事だ。
だから、このような生まれをした子供たちは幼い頃から事情を伝えられ育つ。ナタリーがそうであるように。だからこそ、ナタリーはアナベラの家の後見を受け、いずれはカーリンの家に養女に入る事になっていた。
そのような厳しい血統管理と加護の管理をされている王国だからこそ、市井が好む恋物語はあり得ない。夢は夢、妄想は妄想で終わらせればよかった。それを現実に持ち込んだからこそ、彼らは安易に反逆者になり、彼らの家族は罰せられるのだ。
そしてこれらの行動は下位貴族や平民達への牽制と悪しき実例として隠されることはない。
ファリティア王国は国王を第一とし、その命を軽んじる事は許されないのだ、という事を示さなければならないのだ。
あのリナという少女が祭り上げられたのか、それとも己の意思でこのような事をしたのかはアナベラには分からない。騎士に連行される時に「ありえない、ゲームでは」と叫んでいたが、アナベラには理解しがたい言動だったので『彼女は気狂いなのかもしれないわね』と周囲にいた者にそっと言葉を零し、周囲も頷く事で同意を示すのだった。
「大変だったね、アナベラ」
「楽しそうですわね、クリス様」
「淑女の仮面の下を見せてもらえるからだよ」
「これまで交流会で下位貴族の方とお話する機会はありましたけれども、このような不作法は初めてだったので驚きに満ちた時間でしたわ」
学園内にあるサロンの一つ、王族とその所縁がある者だけが利用できる空間でアナベラは婚約者のクリストフと向かい合っていた。いつもであれば鉄壁の微笑を湛えているのだが、流石に王家への不敬を声高に叫ぶ人々に相対していれば疲れるというもの。ほんの少し疲れを見せた表情を浮かべれば、滅多にないことだと嬉しそうに笑う婚約者にほんの少し眉をあげて視線を向ける。
リナはクリストフが彼女たちに微笑みを向け、彼女に優しい言葉を掛けたと言い、アナベラにはそれを向けていないから楽しそうではないので婚約を解消しろと言った。
彼女はきっと貴族の作法を学んでいないのだろう。微笑みも優しい言葉も、『上の者が己より下の者に向ける礼儀』である。貴族は平民たちから税を取るが、だからこそ彼らの生活を守らなければならない。慈しまなければならない。何時でも彼らの庇護者であるという態度を見せなければならない。高位貴族であれば下位貴族も守るという立場を見せなければならない。
王族であれば、すべての国民にその姿を見せなければならない。だからこそ、笑みを浮かべるのは当たり前で、優しい言葉を掛けるのも当たり前だ。それらは王族の、高位貴族の、貴族が持つ仮面でしかない。その下には当然様々な表情がある。常に笑みを浮かべなければならないクリストフがアナベラの前で表情を変えるのはそれだけアナベラが近い存在で、仮面の下を見せることを許したという証左である。ここにカーリンやナタリーがいればクリストフはすぐに王子の仮面をつける。彼の素顔を見る事が出来るのは血族と婚約者のアナベラだけだ。
融和の為の婚約であるが二人は幼い頃から聡明で、いずれは国を背負う為にと交流を密にし互いを理解しあってきた。王子教育と王子妃教育を受ける中で身に付ける仮面は心の距離を本来は作るが、その下に素顔がある事を理解しているし、王命があれども二人の関係は揺るがないという自信が互いにあった。
市井に流行している恋物語に当てはめてクリストフに近寄ろうとする下位貴族の令嬢や平民の女子がいるかもしれないと笑い合っていたが、あくまでも笑い話のつもりだった。現実に考えて貴族以上に厳しく血統管理がなされており、加護を持つ高位貴族以外の血を入れた事のない王家に加護も何もない下位貴族や平民が嫁入り出来るなどあり得ない事だ。
「そろそろ市井で広がっているそれらの書物を取り締まるべきかな」
「いけませんわ、クリス様。あくまでも物語は物語。男性が本当にはあり得ない冒険譚を読んで夢を見るように、女性もあり得ない恋物語を読んで夢を見るのです。ですが、夢は夢。現実ではありえません。本来であればそれらを理解した上で楽しむものですのよ。それを現実に混ぜ込んだ僅かな愚かな者のせいで彼らの娯楽を奪ってはなりません」
確かに、とクリストフは頷く。旧世界には存在したとされる竜という怪物を倒す冒険譚を彼は子供の頃に読んだことがある。夢の中で父が儀式に使用するような宝剣を携えて彼は旅に出てその竜を倒した事がある。現実に竜は存在しないけれども、物語の中の世界は楽しさと興奮に満ちる物で、成長するにつれ立場を理解し冒険に出るなど出来ないと分かっていても、ほんの少しの夢の中でならば彼は自由な冒険者で竜を倒す英雄になれた。
その本を読んだ者は誰もが夢の中で竜を倒す英雄であり冒険者になることが許された。
男性にとっての冒険譚が女性にとっての恋物語なのだとすれば、容易に禁制品にしてはならないのだと理解し頷ける。
「わたくしたち高位貴族に生まれた娘達はいずれ政略による婚姻を結ぶこともございます。その時には愛は当然ながらありません。けれどもわたくしとクリス様のように、お互いを理解し尊敬し、次第に愛を育む関係になりたいと願う令嬢は、恋物語を指南書としますのよ」
指の先まで美しい所作でお茶を飲むアナベラがカップを音も立てずにソーサーに乗せた後に告げる言葉にもまた同意を示すクリストフ。誰もが見知らぬ他人だからこそ、互いを認め合い尊敬しあい、仮面の下にある素顔を見せ合う事を許せる関係になっていく為の相互理解は必要で、片方だけの努力は無意味だ。
「私はそんなアナベラを尊敬するし、愛しているよ」
「わたくしもですわ、クリス様」
だから、ヒロインであるはずのリナという存在はこの現実に不要なのだ。アナベラは淑女の仮面の下で思う。アナベラには少しばかり特殊な記憶がある。神の使徒の加護なのか、それとも奇跡が起きたのか。
詳しくは分からない。あくまでも断片的な情報しかない。しかし、この世界に似た物語を誰かが生み出し、それを娯楽として楽しむ人々がいることをアナベラは知っていた。
今を生きるアナベラからすれば、ここは現実であり空想でも妄想の世界でも何でもない。神の力や神の使徒の加護が存在する、どこまでも明確な身分差のある世界だ。
もしもアナベラが公爵家に生まれた令嬢でなければ、下級貴族や平民に生まれていればクリストフと視線を合わせることすらも出来ない程、明確な差のある世界。
似たような世界で物語が作られ、その中でヒロインは身分差を乗り越え王族や高位貴族と恋に落ちていた。それは、あくまでも、想像と妄想の世界でしかないのに、リナに生まれたその少女はその記憶を有したまま育ったのだろう。そして彼女は思ったのだろう。
「自分はヒロインだから、愛されるのが当たり前。身分の差など乗り越えて、王妃になるのだ」
と。
許されることのない思想であり、この世界に不要な存在である事は間違いない。きちんと教育を受けていれば、現実を現実として受け入れていれば、きっと彼女は処刑される未来など訪れなかっただろう。
彼女は処刑される。王族であるクリストフの名を、愛称を許可も得ずに妄りに呼んだ罪で。高位貴族の令嬢であるアナベラに礼を尽くさなかった罪で。何よりも国王の定めた命令に反し、それを否定し、あまつさえそこに正当性は何一つなく。クリストフの特別な寵愛は己にあると言外に、しかし明確に匂わせた罪で。
この国の根幹である身分の差を蔑ろにした罪は重く、昨今増えてきた新興貴族への見せしめの為に。
リナは処刑されなければならない。
貴族議会派と王家は対立しているが、しかし王家を蔑ろにしてるのではない。王族が、国王がこの国を滅亡させぬように支える為に、過ちは過ちとして進言できるように対立しなければならない。国王が国の頂点である事に揺るぎはなく、神に与えられた力が失われない限り、神に使徒の加護を受ける高位貴族は王家を支え、国を守る。
それを決して乱してはならない。
ゲームの世界は遊ぶ人間に優しく、夢の世界を与えてくれる、偽物で作りもので、現実は理不尽に厳しく、だからこそ理解し立ち振る舞わなければならなかった。
それが出来たアナベラはこれからも生き、出来なかったリナは死ぬ。
それだけの話だ。