第2部第17話 おまじないとディナー
「では、行ってらっしゃいませ。旦那様」
ティアナが俺の肩に手をかけて背伸びをするので体を前傾させる。
額に柔らかなものが触れた。
本当は不安で仕方がないだろうに、ティアナは気丈な様子で振る舞っている。
あの日、ノルンの神殿で無事を祈ったのに危うく俺は死にかけた。
そのことをティアナはずっと気に病んでいる。
自分の祈りが足りなかったのではないか。
今日、これから出かけるのは叛乱鎮圧のためであり、カンヴィウムまで出張するのとは危険度が全く異なるということを幸か不幸かティアナは理解していた。
ただ、無理にでも笑顔を作って悲しげな表情を見せまいとしている。
そのなんとも言えない雰囲気を壊したのは神龍姫だった。
「なんだ? 夫婦というに口にキスをせんのか? そう言えば以前も出かけるときのキスはいつもおでこじゃったの」
「これはおまじないなんです。旦那様が無事に帰ってこられるようにって」
ティアナは少し顔を赤らめる。
「そうか。なるほどな。では、夫婦のキスはこれからじゃな」
期待するように目を輝かせながら、そんなふうに改めて言われたらやりにくいじゃねえか。
ほら、ティアナも顔を伏せちゃったし。
俺は再び上半身を屈めながらティアナの顎に指をかけて持ち上げた。
首を捻って唇を重ねる。
必ず帰ってくるという誓いを立てて顔を離した。
少し離れて固まっていた悪ガキの中から、ゼルがトトトと走って手渡したバスケットを受け取りティアナは俺に差し出す。
「お弁当を作ったんです」
随分と朝から張り切って朝食の準備をしていると思ったらこんなことをしていたのか。
「こいつは嬉しいな。奥さん、ありがとう」
もう1度キスをしたくなるのを我慢する。
玄関の扉を開けて1歩外に出た。
「旦那様!」
振り返れば俺の腕に縋り付くようにしてティアナが俺に口づけをする。
このまま居座りたくなるが全身全霊で意思を振り絞って顔を離した。
ティアナのつややかでフニフニの頬を一つまみしてギルドに向かう。
通りの角を曲がるときに振り返ると我が奥さまが手を振るので俺もバスケットを持っていない手を持ち上げた。
こりゃ責任重大だよなあ。
以前ならこんな胸を締めつけられるような思いをすることはなかった。
嫌々仕事に出かけるときに、このまま帰らぬ人になるのも悪くねえか、なんて考えていたのが信じられない。
気苦労は増えたが、まあ少なくとも今回は留守宅の心配はしなくて済む。
神龍姫は何があってもティアナは守ると請けあっていた。
ギルドの建物に近づくと通りの前に冒険者がゆるく整列している。
ざっと見たところ召集した人数は揃っているようだ。
約50人の冒険者が待ち構えている。
そんなところにバスケット1つを持ってノコノコと現れた俺は相当緊張感が無いように見えるはずだ。
集まっている冒険者は皆でかい背嚢を背負っている。
俺はギルド長なので大きな荷物を持たなくてすんでいた。
集団の中から新人のカイルがバッと出てきてバスケットを受け取ろうとする。
「じゃあ、ちょっと持っていてくれ」
俺は用意されていた空き箱の上に立ち、これから率いていく連中を前に演説をぶった。
「それじゃ一仕事しにいこう。英雄になろうだなんてのはいないだろうが、くれぐれも功を焦るなよ。この仕事の報酬は悪くないが、生き残って使えなきゃ意味がねえ。じゃあ、出発!」
これが騎士相手なら名誉だとか祖国への忠誠だとか口にするところだが、ここにいるのは冒険者である。
そんなことを言ったところで鼻で笑われるだけだ。
まあ、騎士と比べたときに冒険者にも長所はある。
一旗揚げてやろうという気概は十分だし、パーティ単位での連携に慣れていた。
それに各自が自分の荷物を持つことに慣れているので輜重を考慮する必要がない。
陽気でお調子者でありながら、適度に臆病者である。
冒険者の中に混じるキャリーが手を上げた。
キャリーはその腕前で冒険者から一目置かれている。
そのキャリーがなんだかんだ言いながら俺を立てていることは俺の権威を高めるのにとても役だっていた。
「ギルド長、そのバスケットは愛妻特製のランチですか?」
「ああ、だから分けてやんねえぞ」
笑い声とともに野次が響く。
「汚えぞ」
「このケチ」
「少しは分けろ」
俺は両手を上げて騒ぐ連中の注目を集めた。
「こいつはやらねえが、今回の任務で特に活躍した者には、女房の手料理のディナーに招待してやる。気合入れろよ」
冒険者連中は一気に沸き立つ。
こういうくだらない褒賞を冒険者というのは仲間内で誇りにした。
「いいのか? 俺は《《あの》》ディナーの招待客だぜ」
こんなふうにイキがるわけである。
実際のメシが不味くても構わない。
命懸けの戦いから帰ったらラスボスが待ち構えていた、とか言って盛り上がるのだ。
まあ、ティアナの料理は死ぬほど美味い。
それは我がギルドの3女傑が言いふらしているのでよく知られていた。
一斉にゴクリと喉がなる。
それから近隣の迷惑になりそうなほどの大歓声が上がった。
士気は十分と俺は再び出発を命ずる。
ガヤガヤと話をしながら冒険者たちは南門へと歩き出した。
俺は見送りにきていたステラさんに詫びを入れる。
「いつも、うちのワルどもに美味いメシを食わせてもらっているのにすいません」
スカーフを頭に巻いたステラさんはニヤリと笑った。
「まあ、私も元は冒険者だからね。こういうノリは分かってるさ。実際のところ、あんたに食べさせるために腕によりをかけたあの子の料理は私のより美味いときもあるからね」
そこで顔を引き締める。
「そんな素敵な奥さんを2度と泣かせるんじゃないよ」
バーデンでの憔悴したティアナの姿を知るステラさんは大きな手で俺の肩をぎゅうっと掴んだ。
「は、はい」
なんというか、ステラさんは実質的にティアナの母親のようなんだよな。
うちの大切な娘を泣かせるんじゃないよと言われれば大人しく肯くしかない。
「ギルド長、本当に不在の間は私が事務処理しちゃっていいんですか?」
横からアリスが問いかけてくる。
「構わない。支払いを滞らせて迷惑をかけるわけにもいかないからな」
「じゃあ、頑張って処理しますから、ご褒美お願いしますね」
バチッと音がしそうなウインクをした。
アリスも秘書として有能なんだから、そちらで身を立てればいいのにぶれねえな。
2人に頭を下げて一団を追いかけた。
門を出る前に合流するとカイルの手からバスケットを回収する。
「荷物持ってもらって悪いな。バスケットは俺が持つ」
1番経験の浅いカイルとリコは俺の荷物持ちということで近くに置くことにしていた。
頭数は欲しいが、さりとてこの2人を前線に立たせるわけにもいかない。
さすがに死なせるには若すぎる。
まあ、誰なら死んでもいいというわけでもないのだが、経験の若いのは今回は賑やかし要員にするつもりでいた。
いずれ、いつかどこかで俺の麾下のギルド員に死者は出る。
それは残念ながら避けようがない。
ただ、その日が少しでも遅くなるようにする責任は俺の両肩の上に乗っていた。