第2章第14話 間男の正体
ぎりっ。
俺の奥歯が鳴る。
ティアナに口づけをしたクソッタレは騎士を無力化できる腕前の持ち主であった。
俺がそのまま突っ込んでいって勝てる可能性は限りなく低い。
しかし、ティアナが驚きはしていても嫌がる表情を見せていないことが俺の冷静さを奪う。
十数歩の距離を一気に詰めて狼藉者に殴りかかったが、背を見せていたにも関わらず余裕の反応をみせて俺の手首をつかんだ。
白い髪をなびかせて振り返った顔は俺の見知ったアルバのものではなく、男だか女だか分からない顔立ちをしている。
そいつの口の端に皮肉な笑みが浮かんだ。
「相変わらず騒々しい奴だな」
その後ろから覗き込むような姿勢でティアナが顔を出す。
「旦那様、お帰りなさい」
目の前で抵抗することもなく他の人間のキスを受け入れたことに対する申し訳なさや後ろめたさは全く浮かんでいなかった。
それどころか照れた様子もない。
あまりの自然体な姿に頭がどうにかなりそうである。
頭を掻きむしりたいところだが、細身の体のどこにそんな力が、と驚くほどの握力で右腕をがっちりとつかまれていた。
振りほどこうにもびくともしない。
「くそっ。なんの真似だ?」
自由な口で罵ることしかできなかった。
中性的な容貌の狼藉者は小首を傾げる。
「いつもどおりにしているだけだが」
この発言に頭に血がのぼった。
常習的にキスをしているだと!
動かない右手に代わって左手で肩に隠したナイフを引き抜こうとする。
ティアナがおずおずと口を開いた。
「旦那様。ニックスです」
「は?」
馬鹿でかいうすのろ犬がどこに居るって……。
「うむ。妾はニックスだ。もちろん本名は別にあるが、人間の世界にいるときは使い慣れた名の方が良かろう。ティアナがつけてくれたものだしな」
ん?
ニックスの名付けをしたのがティアナだというのを知っている者は少ない。
しかも、この妙に古めかしい自称といい、発言内容を総合すると……。
「神龍姫さま?」
ニックスを自称する存在は片目をつぶる。
「その名はここでは伏せておけ。しかし、いきなり殴りかかってくるとはご挨拶じゃのう。一応はそなたの命を助けたんじゃぞ」
「いや、しかし、その姿は?」
「元の姿では皆を騒がすと思うてな。エピオーン様に頼んでヒトの姿にしてもろうた。犬では色々と障りがあるしな」
「お父上に話はしてあるんですか?」
ニックスは眉を寄せた。
この眉も雪のように白い。
「ちょっと遊びに行ってくるとは言ったぞ」
「人の姿になるという話は?」
「そういえば話していなかったかもしれない」
「また行方不明になったと騒ぎになっているんですよ」
「そうか。まったく妾の父も子離れができておらぬな。まあ、そんなことよりもだ。なんで妾に殴りかかった。憎悪に歪んだ顔をしておったぞ」
「ティアナに狼藉を働いているかと思ったので」
「犬の姿のときは何もせんかったではないか」
「そりゃ犬ですからね。今は神龍姫さまは人にそっくりな姿をしているでしょう? それに今はティアナは俺の妻なので」
「ふむ。犬ならいいが人では許されんというのがよく分からんの」
ティアナがずいと身を乗り出す。
「えーと、人間が口と口をつけるのは夫婦じゃないとしないんです。ほっぺとか、おでこはいいんですけど」
誇らしげに胸を張って説明をしていた。
ニックスは俺の発言に関心がなさそうだったが、ティアナへは熱心に耳を傾けている。
「つまり、ヒトの約束事としてそういうことになっておるのじゃな。それでティアナもそれを守りたいと。ならば妾もそれは尊重しよう。そうじゃな、先ほどのはよろめいた弾みでくっついただけということにしよう」
「そうですね。あ」
ティアナは距離を詰めると背伸びをして俺に口づけをした。
左手を腰に回して抱き寄せる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
何事もなかったかのように帰宅の挨拶をした。
「出張中はとくに事件はなかったですか?」
少し体を離して俺の全身を検めるように眺める。
「話の前にもう1回」
左腕に力を込めて抱き寄せると、右手首に鈍い痛みが加わった。
「妾がいるのに2人だけの世界に入らないでほしいのう」
その言葉にティアナが頬を染める。
両手で顔を覆ってしまった。
どうも素でニックスの存在を意識の外に追いやっていたらしい。
道理で人前なのに大胆だったはずだ。
「あ、えーと、長旅から帰ってきてお腹空いていますよね。すいません。今支度中なんです。すぐに仕上げちゃいます」
ティアナは俺の腕からスルリと抜け出すと食堂の方へと走り去る。
食堂への扉のところに鈴なりになっていたガキどもはティアナが向かってくるのを見てさっと顔を引っ込めた。
うーむ。
神龍姫相手となると何ができたとも思えないが傍観者を決め込むというのはどうなんだろうか。
特に普段はやんちゃで鳴らしているトムなら、ここはティアナの前に立つぐらいの気概を見せても……。
まあ、怪我されても困るしな。
俺は神龍姫がようやく放してくれた右手の手首を左手でさする。
「ところで、神龍姫さま、こちらにいらした理由を窺ってもいいですか?」
「ニックスじゃ。ここではそう呼べ」
「じゃあ、ニックスさま。理由を聞いても?」
「なんじゃ、その気色悪い言葉は? ニックスでいいぞ。それにしても、ハリス、そなたは妾の話を聞いておらんのか。先ほども言ったであろう。遊びに行ってくると父に言った、と」
俺たちの間に沈黙が横たわった。
「いや、まあ、そうなんですがね。遊びに行くというのは表向きで本当の理由は何かあるのかなと思ったんです」
「そんなものはないぞ。妾は正真正銘、真に遊びに来ただけじゃ。ここなら退屈せんですむからの」
「ちなみにいつまでいるつもりで?」
「当分じゃ。前と同じようにな。あ、食事はもうそなたたちと同じものでいいからな」
「それでは、お父上にこちらにいらっしゃることを伝えても構わないですね?」
「別に構わんぞ。しばらくしたら帰ると伝えておいてくれ」
「それと、表にいる騎士なんですけど、あれはどうやったんですか?」
「妾を怒鳴りつけたから、眠らせてやった。まあ、すぐに目覚めるじゃろ」
どう見ても完全に眠りこけてたんだがな。
「ちょっと、って正確にはどれぐらいです?」
「そうだな。お前たちヒトの言う時間の長さで表すと10日ぐらいじゃな」
俺はとても失礼にあたる行動だが、神龍姫を前にして長々としたため息を漏らした。
「覚醒させることはできますか?」
「もちろんじゃ」
「ではお願いできますか? それと、ここで暮らして頂いても結構ですけど、いくつか守ってもらいたいことがあります。犬なら仕方ないでもこの姿では問題になることがいくつもありますので」
「面倒じゃのう」
そう言いながらも何故だか嬉しそうにしている。
俺はとりあえず、立ち番の騎士の意識を戻してもらうことを重ねてお願いした。