第2章第11話 最後の一刺し
間近に見える瞳がちょっと潤んでいる気がする。
「すいません。私は妻を娶ったばかりです。他の女性への気持ちを明らかにできる立場ではないんです。申し訳ないですが」
「いえ、新婚のハリスさんにこんなことを申し上げるのは失礼だと十分わきまえております。でも、世界を救うためなんです。協力頂くわけにはいかないでしょうか?」
半ば想像していた内容とはいえ実際に口にされると衝撃が大きかった。
それにしても前半と後半の話のギャップが酷い。
咄嗟に言葉も出ずにエイリアを見つめると、真っ赤になって顔を伏せてしまった。
まあ、そりゃそうだ。
理由はあるにせよ、面と向かって抱いてくれというのだから。
一般的にはそういうことを大っぴらに口にするものではない。
俺の周囲にはチーチとかアリスとか普通じゃないのが結構いるけどな。
含羞の表情を凝視するわけにはいかず視線を正面に戻せば騎士2人が驚いた顔をしていた。
それから俺のことをキッと睨む。
ああ、俺が何かイヤラシイ話をしてエイリアを困らせていると思っているのか。
いやいや、誤解だ。俺は無実だ。
今日最大の疲労を覚えて目をつぶる。
他の男じゃ駄目なんですか?
とは口が裂けても言えないだろうな。
邪教徒によるエイリア誘拐事件。
高位の神官であるエイリアに魔神の魂を乗り移らせようという陰謀をすんでのところで防いでいる。
意識が朦朧としていたエイリアが魔神を退けることができたのは彼女の強い意志によるものだ。
それは世界にとってはとても有意義なことであったのは間違いない。
エイリアが強く意識を保ったきっかけが俺の存在を認めたことじゃなければもっと良かったのだが。
あれ以来、エイリアは俺のことを運命の人と思っている節がある。
いっそ俺が不能だと教えてしまう……のは駄目だ。
それこそ回復するまで付きっきりで魔法をかけてくるに違いないし、完治したら早速試してみましょうとなりかねない。
俺の顔に影が差し目を開けるとエイリアが不安そうな顔で俺を凝視していた。
瞳の中には思い詰めたものも垣間見える。
それは狂気の又従兄弟ぐらいの関係にはありそうだった。
まずい。
早急にエイリアを傷つけずに断らなければと焦る。
ええい。
ここは正論で押すしかない。
「いくら事情があっても妻帯者と情を交わすのはまずいでしょう。エイリアさんの立場が悪くなります。非難の声は避けられないでしょうし、教会での立場も悪くなるのでは? 私はエイリアさんが窮地に陥る姿を見たくないです」
「え?」
虚を突かれたようにエイリアは目を見張る。
「もちろん、私とも結婚してくださるのでしょう?」
そうきたか。
これがチーチやアリスだったら、別に私は気にしないけど、ぐらいは言うに違いない。
「あいにくと私は第2夫人を娶ることができるほどの地位ではないんです。それこそ血筋を絶やせない高貴な家柄とかじゃないんでね」
これで引き下がるかと思ったら、エイリアはためらった末に俺の弱点を突いてきた。
「でも、ハンクを名乗る人物が本当はハリスさんだと知られたら、ティアナさんとの結婚は無効になるのではないですか?」
じとりと湿り気を帯びた視線で上目遣いに俺のことを凝視する。
「それは……」
「そういう決まりですよね?」
確かに俺の婚姻が無効になれば、単身者同士の恋愛関係でしかない。
しかし、そこまで踏み込んでくるのか?
絶句する俺にエイリアは懐柔するかのような表情を浮かべる。
「安心してください。私は暴露するような真似はしませんし、ティアナさんを蹴落とすようなこともしません。早くハリスさんが特別に結婚を許されるような立場になられるといいですね。そうしたら別に妻が2人居ても問題ないでしょう?」
いや、そうじゃないだろ。
エイリアはすっくと立ちあがった。
「今日のところはこれで失礼します。お会いできて本当に良かったですわ」
勝手に話を進めすぎじゃないです?
唖然としていると、エイリアは身を屈め俺の耳に小さな声で囁く。
「私の方はいつでも準備ができていますから」
ふわっといい香りが俺を包み、吐息が耳をくすぐった。
恥ずかしそうな笑みを残してエイリアは立ち去る。
美人と会話をしていただけなのに、なんか凄く疲れた気がした。
騎士2人が近づいてくるので俺も立ちあがる。
視線は一体何の話をしていたんだと問いかけていたが、口に出すことはしない。というか、できない。
神殿の表門までエスコートされ、そこで解放されるかと思ったが騎士たちはまだ一緒についてきた。
「お送りするように仰せつかってます」
騎士の姿を見ると通りをいく人は道を開ける。
精神的に疲労困憊した体で雑踏を歩くのは大変なのでありがたい。
宿に到着すると騎士たちは踵を返して帰っていった。
この宿はギルド長会議に出かける前にキャリーに聞いてお勧めされたところである。
今回の旅行では余計な疑念をかき立てないようにゼークトなどの関係者の家の厄介になるのは避けていた。
まあ、エレオーラ姫辺りと顔を合わせて何か面倒なことを言われたくないということもある。
やれやれ。
後はもう寝るだけだ。
うーんと伸びをしてから帳場に歩み寄り部屋の鍵を受け取ろうとする。
「ハンク様。お言付けがございます」
うげ。もう勘弁してくれよ。
きっちりと封をされた書面を宿のオヤジが差し出したので仕方なく鍵と一緒に受け取った。
部屋に入り椅子にどかりと腰を下ろす。
やっぱり、奥さんもつれてくれば良かったかもしれない。
ティアナの存在が余計な視線を引き寄せるかもしれないということでお留守番をお願いしたが、俺は猛烈に癒しを欲していた。
顔も見たいし、声も聴きたい。
抱きしめてキスをしてもらえば疲れも吹き飛ぶんだけどなあ。
ティアナといえば……。
厄介ごとの連続で意識の隅に追いやっていたが、占い婆にとんでもないことを言われたんだった。
『お主が家に帰ると間男に驚嘆することになるぞ』
胸が痛い。
そりゃ俺もアリスやエイリアに目移りしているじゃないかと詰問されれば返す言葉はない。
けれど、一線は越えてないし最後はきちんと毅然とした態度で断っている。
浮気か浮気じゃないかでいえば、ぎりぎりセーフのはずである。
その判定をする権利があるのはティアナだが、まあ大丈夫なはずだ。
それで黒判定になったから、自分も浮気を?
ティアナの人となりにそぐわないが……。
いつまでも先延ばしにするわけにはいかず、もてあそんでいた封書の端を爪で切る。
中から出てきた紙片に書きつけられていた文字は短く簡潔だった。
『許可が下りた。これからよろしく』
王国語で書かれたこの筆跡には見覚えがある。
なかなかに流麗であり、ティアナのたどたどしい筆跡とは対照的だった。
差出人はマーキト族長の娘チーチに違いないだろう。
なんの許可が下りたかは確認するまでもない。
ギルドに属する冒険者となることについてタンダール王国首脳と合意ができたのだろう。
活動拠点をレッケンバーグにしないのであれば何も文句はないのだが、よろしくという文字はそうではないことを明確に告げていた。