69 玲瓏儚夢
エイレス・マリアル。音楽家は男が多かったこの時代には珍しい女性の鍵盤楽器奏者。それはこの街でもすぐに話題になって、私もその音楽を何度も聴いたことがあった。
黒髪の綺麗な女性だった。チェンバロの音はそれまで渋くて古風的な感じが多かったけど、この人のは優雅で美しさがあった。子どもの時、つい話しかけてみたら同じイスに座ってチェンバロを弾かせてもらったのはいい思い出。
そんな人に限って、途端に世界からいなくなってしまう。
――エイレス・マリアル様、ですか。彼女ならもうここで演奏を聴くことが出来ませんよ。
どうしてなんです、ブリムさん?
病気ですよ。黒死病。つい数年前に流行っていた病にかかってしまったそうです。治療中とのことですが、あの様子では難しいかもしれませんね。
このソプラノピアノも一度も弾くことなくお別れ、なのかもしれません。
そう。もういない。あの人は、彼女のお母さんは、もうこの世界には……。
終わる。曲が終わってしまう。この先はもうない。川から海に流れ着いた枯れ葉を雄大な地平線に残す。そんな終わり方。
『お母さん、長い間家に帰ってこれそうにありません。』
そして、その枯れ葉も最後は消えていく。世界と共に、死体が自然に還るように黒ずんで消えていく。
『多分一年、いや二年。もしかしたらもっとかかるかもしれない。』
最後のこの一音で。フォークで刺してしまわないような、入りと同じ優しいこの一音で……。
『でもいつか必ず帰ってくる。だからそれまで――』
あなたが、消えてしまう――
「嫌だ!!」
触れるはずの鍵盤を思いきり叩く。ガンと怒鳴り声が響く。
「――うわ!?」「――テレレン!?」「っ! これは!?」「……」
うろたえる声。それを気にせず指を動かしていく。しがみつくように。つかみかけたものを離さないように。
終わっちゃダメ。まだ終わったらダメ。
あなたを捜す理由。探さないと自分が苦しい理由が分かってない。見つけないとダメ。理由をちゃんと知らないと嫌だ。そうじゃないと辛いの。苦しいの。耐えられないの。
楽譜にもう音符はない。けれどもとにかく指を動かす。もがくように音を鳴らす。枯れ葉を自然に還すわけにはいかない。雷が落ちるように深海に引きずり込んで、そしてそれからは……、いっそ海の底を空にしてしまえ。そこが嵐だろうが関係ない。大地が地割れを起こしていようが、落雷で街が火事になってようが、テレレンは知らない。
破天荒で構わない。曲調なんて気にしない。今思い浮かぶお母さんを捜す方法をとにかく繰り返して、繰り返して、繰り返して。
それで、あなたを――!
「お母さん!」
音楽っていうものは、繊細だと思っていた。
初めてチェンバロの演奏を聴いた時、なんでもなさそうな音の連歌に聴き惚れてる者たちの顔を知った。彼らは音に感動し、それを奏でる者の姿はとても風靡な雰囲気だったのが印象的だった。あんな人だからこそ、こんなに人々を一つの音色に引き込むんだろうなと。
きっとボクには出来ないのだろうと。ボクのこの手じゃ、ごちゃごちゃで単調な音しか鳴らせないんだろうなって素直に思った。
けど、そうじゃない。
繊細な者が弾くからじゃない。弾く者が慎重に繊細な音を奏でていたんだ。
今では分かる。あの時の音の美しさを知らなかったボクでも。
この、身の回りのものすべて、人生そのものをもかなぐり捨てるような荒れた音。地に現れた冥府の蛇が大地を這って、暗雲に染まった空に黒龍の咆哮が轟いて、ふもとに生きる人々が全員吸血鬼に化けてた世界。
そこで、雛鳥はたった一人で走ってる。懸命に懸命に、身の危険も顧みずひたすらに。
その行く先は、遥か地平線の先にいるどこか。目的地は分かってて、実在するか分からない未知の世界。テレレンにはたどり着けない場所だと気づいてるからこそ、彼女は足掻いてる。
必死に。命をかけて。魂を込めて。心に沁みた想いを途絶えさせないために。干ばつの土地で降り出した時雨を落とさないように顔を見上げて。
大事な人がいるとも分からない空の下で、たった一人を捜し続けている。
でもそこは、きっと一人ではたどり着けない場所なんだ。
ピタッと、左手首を誰かに掴まれた。強引に繋げていた音楽が途絶える。ハッとして、それまで激情に駆られて手を動かしていたんだって知って、落ち着けてくれた隣の人の手をちゃんと見る。
赤く塗られた爪に白い肌。テレレンと変わらないくらいの大きさの手。指が絡み合ってそのまま最後に力強く手を握られる。
「クイーン様……」
またピタッとした感触が来た。今度は右手首。クイーン様より冷たい手。見てみると、掴んできたのはアルヴィア姉ちゃんだった。
アルヴィア姉ちゃんがテレレンの手を動かしていく。
海を沈み空を彷徨い、大地を捜しまわり夜になって暗闇、真っ暗な洞窟を踏み進んでいたところで、それ以上迷わないよう導きの光が入ったようだった。差し照らす淡く煌びやかな光を見上げ、天井に滴る雫がピチャンと落ちるその瞬間。
ポーン……と、終わりの一音が奏でられた。
「……なんにも、思い出せなかった」
体が震えて、声が震えて、顔も上げられない。
「お母さんは好きだった。大好きだった。曲を弾いた瞬間にそうだったんだって分かった。でも、どうして好きだったのかが分からない。テレレンと出会った後、どんなことしてくれたのか、どんな話をしてくれたのか、どんな人だったのかが、全く思い出せなかった……」
脳裏によぎるのは、記憶を失う前に最後に見たお母さんの手紙。お母さんが遠いどこかへ行ってくるって書かれた、その筆跡。
「知りたかったんだ。大好きだった人がどんな人で、どうしてテレレンのところを離れてしまったのか。だから――」
グッと、こらえていたものが一気に襲ってきた。網膜が霞がかってしまったように、慌てて目元を手で覆う。
「だから、見つけたかったんだ。見つけて、その声で答えを聞きたい。愛おしく思う理由を知りたい。それでこの喪失感を埋めてほしい。苦しみなんか感じずに好きだって言いたい」
自分が大好きな人がいて、でもその人との思い出がすべて消えていたとしたら。忘れてしまおうとしても、拭えない感情だけが残ってしまう。記憶があった頃の想いが、今の自分の邪魔をしてくるなんて。
こんな歯痒いこと、テレレンには……。
「声は聴けなくても、言葉なら聴けるかもしれないわ」
そう言ったアルヴィア姉ちゃんは楽譜に手を伸ばす。すべて弾き切った曲。もうそこに続きはない。お母さんの痕跡は残ってないはず。
でも、アルヴィア姉ちゃんは楽譜をひっくり返してテレレンに渡してきた。そして楽譜の裏面に言葉が綴られていた。
テレレンの知ってる、あの筆跡で。
『愛するテレレンへ
大事なことがあって、ここに手紙として残しておきます。
いつも呼ばれる演奏会で何回も家を空けてたけど、今回はお母さん、長い間家に帰ってこれそうにありません。
多分一年、いや二年。もしかしたらもっとかかるかもしれない。
でもいつか必ず帰ってくるから、だからそれまで、次の約束を守りなさい。
朝はしっかり起きて日を浴びて、毎日掃除を欠かさず清潔に過ごすこと。夜更かしもいけません。
食べるものは肉と野菜ととしっかりバランスよく摂りなさい。買い物に行く時はおばあちゃんを頼ること。
チェンバロはいつでも弾けるように練習しておきなさい。音楽が出来ることは、いつかあなたの生活を助けてくれるはずだから。
家に知らない人を入れてはいけません。これは昔から言ってる当たり前のことよね。
お金は幾つか家に残しておくから、それはテレレンが好きに使いなさい。無駄遣いはしないこと。でもそれで生活の質を下げてはいけません。それは心を貧乏にしてしまうし、心が貧乏になってしまえば人を妬んでしまう原因になるわ。欲しいものはしっかり買うべき。古くなって壊れたものもちゃんと買い替える。我慢の使いどころを間違えないように。
魔物が襲ってきたらなんとしてでも逃げなさい。家がなくなったっていい。お金を失ったっていい。自分の命を何よりも優先しなさい。
人から何かを貰ったら必ずその場で感謝を伝えること。言い淀んだ瞬間にそれは絶対に後悔に変わるわ。
世界が同じところに留まることはありません。いつだってどこかで大きなものが動いているし、些細な出来事から大きく変わることだってあり得る。移り変わる時代の中で、自分の考えはしっかり持っておきなさい。
身に着けた力や知識は誰かのために使いなさい。人との繋がりからあなたの人生が色とりどりになるはずだから。
誰が相手でも対等に接することを忘れないで。自分よりも弱い人なら優しくしてあげるべきだし、上からものを言ってくるような人には苦笑いを浮かべているだけでも満足してもらえるから、あなたという人が付き合いづらい人だと周りに思わせないようにしなさい。
同じ年ごろのお友達、家の周りにはいなかったけど、いつか作れるといいわね。あなたの元気で明るい性格なら、きっと気の合う人と出会えるはずだから、その時は自信を持つのよ。
あなたにもいつか恋をする時がくると思います。その時、過去の自分しか語れない男には十分気をつけなさい。私たちは過去から未来に生きていくけれど、それでも今いる立場を受け入れていない人ほど嘆かわしい人はいないから。
そして唯一の一人を見つけた時は、その人をしっかり愛しなさい。産まれる子どもにも同じ愛を与えて、お互いに支え合える家族を作りなさい。
人間は間違える生き物です。テレレンにとっても例外ではありません。大事なのは失敗してしまった時、言いわけをせずに自分の非を認める素直さです。これが出来ない大人にはならないように。
自分の生きる意味が何なのか。その答えは自分自身で見つけるものです。人間の生き方に正解はないから、その分自分の頭で考えないといけないのよ。
大きなことを成し遂げたいのなら、小さなことを積み重ねるのを覚えておいて。ちょっとした段差でもいきなり走り出したら躓いてしまうから。
夢を持った時、あなたに誰かが何か言ってくるかもしれません。でも怖がらないで。嫌味を言う人とはまるで違う輝きがあるはずだから、きっと応援してくれる人は他にたくさんいるはず。だから夢を諦めないでね。
辛い時、人前では泣いてはいけません。涙は誰かを酷く混乱させてしまうから。本当にこらえきれない時は、大事な人の前で泣きなさい。
あなたもいつかは死ぬ時が訪れるでしょう。その時。周りに泣いてる人がいたらあなたは優しく笑える人になりなさい。あなたを産んでくれた本当の母親だって、最初はあなたを見て笑ってあげたはずだから。
最後に、お母さんに会いたいからって勝手に家を出ないこと。外は魔物もいるし近寄ってはいけない人間も多いから絶対に一人で出歩いてはいけません。
いつもお家を空けてごめんね。
あなたのことずっと、ずっと、一生愛してる。』
古く黄ばんだ、鍵盤の半分もない幅の紙にびっしりと。端から端まで、最後の方なんて字を押しつぶしたかのように小さく書いていて、本当にこの楽譜に余すことなく書き留められている。
涙はもう流れていた。止めるものはなくボロボロ溢れ続けていて、最後まで読んだ手紙をギュッと胸の中に抱きしめる。
好きにならないわけない。こんなにテレレンのこと想ってくれる人のこと、好きにならないわけないよ。
理由を知りたいだなんて……。好きになったのがどうしてだなんて……。
まるで疑うようなことを思ったテレレンは悪い子だ。こんな大切なこと忘れてたテレレンは、本当に……。
「おかあさん……」




