61 夢を殺す。命にかけて
ナイフに込められた殺意は本物だった。刃先が竜の心臓の先端を貫こうとしてきている。
意図せず右手が動いていた。意識よりも先に、テレレンの腕を掴んでみせると、テレレンのナイフはボクの胸に当たる寸前で止まった。
「何やってるんだテレレ――」
「分からないよっ!」
顔をビンタされたようだった。それくらいテレレンの声には迫力があって、思わずボクも黙ってしまう。
「……分からないよ。何をどうすればいいのか全く。今はとにかく、目覚めたいだけ……」
ナイフを持つ腕が弱まる。この手を離してしまったら、テレレンが生まれたての小鹿のように崩れ落ちそうな気がして、グッと落とさないようにする。
「しっかりしろテレレン。お前が今見てるのは夢なんかじゃないぞ」
「ゆめ……ゆめ……ゆめ……」
ボソボソとそう呟きながら、段々と腕を突き出そうと震えだす。けれどそれは小さな子どもが頑張って出せるほどの力で、とてもボクの胸の心臓まで届かない。ボクの軽い力で止められるというのに、テレレンは諦めようとしない。
「なんだか、ここに来てから蜘蛛の糸に捕まったみたい。体と心に何かがずっとくっついてて、それが気持ち悪い。もう起きたいよ……。こんな夢から、元の世界に戻りたい……」
「夢じゃないって。今見えてるものは全部現実だ」
「そんなことない。このクイーン様を殺さないと、テレレンは夢から覚めない――」
いきなりスッとテレレンの頭が俯く。魂が一瞬抜け出たのかと思うほど急で、歪な雰囲気に更なる拍車がかかる。
「そうだ。記憶を失くしてテレレンが最初に見たのはクイーン様だ。そっか。その時から夢を見てたんだ。全部夢だったから、テレレンは記憶が抜けてた。夢を見てたから、急に変なものが見えるようになった。ロディ君が言ってた元凶の意味、やっと分かったよ」
腕に力が入らないまま、テレレンがまた顔を上げてくる。目の下に涙が見え隠れさせながら、白骨のような顔してこう言ってくる。
「お願い、夢のクイーン様。テレレンを、目覚めさせて」
夢を見せる元凶。それが彼女から見たボクの正体。『この』クイーン様、なんて言い方をした、ボクも知らないボクのことを見ている。ありもしない存在に身を委ねようとしていて、盲目のまま何かにしがみついている。
この屋敷が蜘蛛の糸か……。テレレンにくっついて離れない粘着。見えない重圧に押しつぶされそうになっている。いくらボクが何を言おうとそれは彼女の耳を通らないし、どれだけこれが夢じゃないって言っても死にかけた心には届かない。
きっと、こうしたヤツが他にいる。あの明るく能天気でうるさいヤツだ。今まで何があっても元気だけは失わなかった。
すべては放火魔からか。もしくはそれよりもっと前、放火魔の現場を見せようと仕組んだ頭のキレるヤツ。
目線を奥に向けてみる。部屋の角に人影が見えて、ロディとメリーサがこれまで息を殺してこちらを見ていたことに気づく。
ボクに刃物を向ける家族の姿を見て、二人ともそれを止めようとしてこない。目が合った今になってメリーサが慌てた様子を装って入ってこようとしてきたけど、すかさずイルシーで彼の前に不自然な発火を二回繰り返してみると、メリーサは何も言わず足を止めた。
せめてそこで見ていろ。ボクは心の中でそいつらにそう投げかけ、大事な仲間に正面から向き合おうとする。
「テレレン。お前が今見てる夢がなんなのか――」
ナイフを持つ腕を何よりもしっかり握る。それこそ、テレレンの目線をボクから離さないようにするくらい強く。
これからの感触をどこにも逃がさないように強く。トラウマさえも覚めて忘れてしまうくらい強く。
彼女の夢を殺すために、――強く。
「ボクがちゃんと、教えてやる」
グサリと、感触が走った。いきなり水面から鳥たちが飛びたつように、一気に、感触が全身に走った。
血が逆流でも始めたのかと思うくらい鳥肌が立った。少ししてから、テレレンは顔を上げる。赤い血が、自分の手を伝って腕を流れ、肘から垂れ落ちていく。
「……あれ?」
覚めない。夢から覚めない。それにこの感覚。寒気。恐怖。
もしかして、テレレンが見えてる今って――
「白昼夢だよ。テレレン」
「――え?」
目の前のクイーン様は、心の準備を待たずに喋りだす。
「お前が見ていたのは、普通の夢でもなく、現実でもない。白昼夢だったんだ」
「はく、ちゅうむ……」
胸の真ん中、竜の心臓を刺した腕を力強く離さしてくれない。
ッケホ! と咳き込んで、口から血がドロリとこぼれ出てきた。それが自分の腕を温めてくると、やっぱりそうだって感じて身の毛がよだった。けれど、クイーン様はパッチリ目を向けてきて、じっとテレレンのことを見てくる。
「……テレレンが見てたのは、夢なんかじゃ――」
夢か現実かの区別がつかない夢。それが、テレレンの見ていた夢。現実を見たくなくて見ていた偶像の世界。
それ以上言葉が出てこない。さっさと手を離してしまいたいのに、クイーン様は絶対にそうさせてくれない。これが現実だ。今見えてる世界が本物だって、痛いくらいに知らせてくる。今度はこの状況から逃げ出したくなって、涙が溢れ出そうになってくる。
「クイーン様。心臓が……。しん、ぞうが……」
手首の力が抜けていって、クイーン様と一緒にナイフを引き抜いていく。刃にビッシリとついた液体は大量で、最後まで抜いた瞬間にクイーン様はまた咳き込んで床に吐血した。
「そんな……クイーン様が死んでまで目覚めようとなんてしてない……。本当に夢だと思ってたからつい――」
いや、違う。
夢だったとか関係ない。ただ解放されたかった。一方的につけられたしがらみから逃れたかった。孤独感に襲われて、肩身が狭くて、懐かしい面影に胸が指でつままれたように苦しくなって、呼び覚まされそうな記憶をしっかり思い出せないのがもどかしくて嫌になって、こんな思いをするくらいなら早く楽になりたかった。
現実を夢だと錯覚して、そのせいでクイーン様を刺そうなんて考えてしまって。
今のテレレンが、大事にしたかった人に、取返しのつかないことを――
ああ、ダメだ。テレレン、もう戻れない。もう、クイーン様が……死んじゃう。
「――お前が倒したのは、夢の中のボク。お前に白昼夢を見せていた元凶で間違いない」
そう、はっきり聞こえた。力強く太い声で、クイーン様は胸の血を手の平でおおざっぱに拭ってみせると、流血がピタリと止まっていた。
「本物のボクは、決して死にはしない」
途端、ギュッと頭の後ろを握られて、そしてそのまま優しく寄せられクイーン様の体と体が触れ合った。
テレレンの苦手な血の臭い。テレレンが目覚めるためにクイーン様が背負ってくれた代償。
微かに聞こえる胸の鼓動。止まっていたはずの心臓が、再生を果たそうとしている。
「迷っていたんだろうテレレン。記憶がなくて、そこにつけこまれて考え込んで、そうして自分一人で苦しんでた。自分で背負い続けた」
涙腺が緩むのが分かった。どう苦しんでたか知ってるはずじゃない。だけど、感情に寄り添ってくれているのが肌で感じられる。真っ暗でボロボロだった屋敷に、光が灯って元の姿に戻っていく。
「夢のボクは駄目だったな。お前が不安だったのに気づかなかった。他の怪しいことばっか気にしてて、ちゃんとお前のこと見ていなかった。リーダー失格だ」
「ううん、失格なんて――」
声が上ずってしまう。茨の棘に閉じ込められてた何かを、クイーン様が素手で切り倒してくれてるみたいで、思わず流れ出る雫に耐えられなくなって喋れないくらいに感極まる。
「でも、そんなボクをテレレンが殺してくれた。ここからお前の前にいるのは現実のボク。本物のボクだ。本物のボクはお前の苦しみを一緒に背負ってやる。どんな感情も真っ向から受け止めてやる。お前もボクと同じで一人ぼっちだったんだ。これからはボクらがちゃんと横についてやる。同じ仲間のボクらがちゃんと。もうお前に、嫌な夢なんて見させない」
小さな肩に、つい頭が落ちる。テレレンと変わらないくらいなのに、彼女の心意気は空のように大きくて、かけてくれる言葉は誰よりも信頼出来る魔法がかかってた。
寂れた世界に色が戻る。白黒の廃屋に明かりが灯って、クイーン様の足元から床や絨毯、テーブルに本棚、暖炉までが元通りに戻っていく。
ふと、母親の顔を思い出した。面影が、クイーン様と重なった気がした。
無臭の髪。指を絡めてしまいたくなるほどサラサラで、芯がしっかりした凛とした花のような魅力。小さいはずの手が何よりあったかくて、内に溜まっていた不透明な霧が晴れてく。太陽に照らされた月のように、気持ちに明るさが戻るのが分かる。
とても、とっても、ここから離れたくない。
そうなんだよ。テレレンが欲しかったものは仇とかじゃない。形がなくても感じられるもの。記憶がなくたって憶えていたもの。
歪な真実よりもまずは、水晶玉やクリスタルよりも透明に透けた言葉が欲しかったんだ。
「お帰り、テレレン」
「――うん、ただいま」




