58 アッチェレランド ――だんだん速く
「近くにこのような顔をした女性を見ませんでしたか?」
「いいえ。ここでは見ない顔ですねぇ」
「そうですか。最近街に、人を狙った放火魔が出たとのことで、おばあさんもどうか外出はなるべく控えてください」
「まあそうなのですね。分かりました。気をつけます」
「はい。それでは。絶対なる正義は我らに」
バタン、と屋敷の扉が閉じる。放火魔が現れてから一日が経過。ボクは玄関から見えない廊下で兵士とメリーサのやり取りを聞いていたが、どうやら本当に外に出られない状態になっているらしい。
角から顔を出して、メリーサと目が合って大丈夫だと何度か頷いてくれる。
おばあちゃんは昨日の宣言通り、ボクらを上手く匿ってくれている。カーテンはちゃんと閉め、窓もすべて鍵をかけている。この屋敷の中が外から見られることはないだろう。
アルヴィアは常に剣を腰につけていて、いつでも戦えるように常時気を張っている。ドリンは見かけによらず指をモジモジとさせているが、それはいつもと変わらない様子だから問題ない。
問題があるとしたら、それはテレレンのことだ。
昨日からテレレンは一度も部屋を出ていない。アルヴィアやおばあちゃんがいくら声をかけても、返ってくるのは元気のない返事。おばあちゃんが部屋の前に料理を置いても、今朝見たらそれは全く手がつけられてない状態のまま。
そのうえなぜかボクが入ろうとすると、その時だけは声を荒げて「ダメ!」と強く、何かに追われて切羽詰まっている心情を表すように強く言ってくる。
ボクの姿をした放火魔がそんなに恐ろしかったのか。ボクを装った人間は一体どんなやり方で陽気なテレレンにこれほどまでのトラウマを植え付けたのか。
きっと普通じゃなかったことは想像がつく。その放火の現場が、彼女にとって心から引きはがせないほどとても強烈なものだったのに違いない。だって彼女はこれまでに、放火で倒したグールや足がボロボロに潰れたハーピー。七魔人ラケーレに追い詰められたボクを見た時だって、こんなことにはならなかった。血や暴力性に対しての胆力は、年の割にある方だと思う。
やっぱり、考えれば考えるほどテレレンたちが見た放火が謎に思える。ただ一人人間が燃えただけで、今まで平気でいられたテレレンがこうもなるなんてありえない。ショックに思ったとしても、きっとあの時、アルヴィアがボクに詰め寄った時にその横について一緒にボクを問いただしてたはずだ。ボクの知ってるテレレンならそうする。しょげるよりも先に、信頼を裏切られたことに対する怒りが沸き上がるはずだ。
「みんな」
おばあちゃんの声がリビングのボクら三人に届く。
「私は夕食の準備のために外に出てくるわ。その間、屋敷に誰が来ても開けちゃ駄目だからね」
「分かってるよおばあちゃん。ボクらはちゃんと静かにいるから」
「頼むわよ。窓も開けちゃ駄目だからね。カーテンも気をつけて。すぐに戻ってくるからね」
「ああ。いってらっしゃい」
おばあちゃんは心底落ち着かないような顔をして、ボクらに背中を向けて、玄関の扉が開いて閉まる音を鳴らす。
外に出て、この屋敷からメリーサが離れていく。十秒経って、大体最初の曲がり角を曲がった頃。ボクはアルヴィアの言葉を思い出す。
――あの二人、本当にテレレンの家族だと思う?
確かめるなら、今だ。
急いでドリンが入る時に使っていた裏庭の窓に近づいてバッと開けた。
「ええ!? クイーン様!?」
驚くドリンを横目にゾレイアの眷属を召喚する。
「アルヴィア。頼みたいことがある」
現れ出た影猫と共に、ボクは指輪を持つ彼女を見つめる。積み重なった疑惑は複雑で、どこから手をかけていくべきか定かに見分けられない。そうなったらいっそ、まず一つを無理やりこじ開けるまでだ。
アルヴィアは、覚悟を据えた眼差しを向けてくれる。
* * *
――ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさ――。
……どれだけ謝っても、胸の罪悪感が消えない。どれだけ祈っても、自分の生きる理由が見つけられない。
記憶は戻ってない。戻ってないけど、悲しくて泣きたくて悔しくて何か壊したくてそれが自分だったらいいなって――。
……そんな堂々巡りを、昨日から何度も繰り返してる。
ふいに、黒い空と広い海が見えて、いっそ沈んでしまえばって思って足をつける。けれど、テレレンの足は水面から下にいかなくて、まるで地面を歩くようにその先を呆然と進んでいくけど、一回瞬きしたのをきっかけに辺りが砂だらけの乾ききった大地に変わる。
振り向いた先にいた孔雀。テレレンの何倍も大きい飾り羽が広がっていって、随所につけられた単眼がテレレンのことを一斉に見下ろしてくる。
空に浮かんでる月が、巨大なイカによって飲み込まれ、背後にあったクマのぬいぐるみ。その頭が勝手に爆発して綿が四散する。
目に入ろうとする綿を防ごうと腕で覆うけど、当たった感触が液体だったのに驚いて近くで見てみると、それは生暖かい泥のようでじんわりと肘を伝って地面に落ちる。
その地面が木板の床で、パッと前を見てみるとそこに姿見があって、全身真っ黒な自分が写っている。
病的な姿に反射的に自分の皮膚を直に見てみて、それが真っ黒じゃないって気づきながら両手に心臓が降ってくる。
ドクン、ドクン、と音を立てるそれを、ついじいっと見つめてしまう。何かに魅入られてしまったかのように目が離せない。目が離せないまま、耳から人の声とか環境音とか、まるで今までテレレンが体験してきた過去が高速で戻ってくるかのようにガシャガシャと鳴り響いていって。
そして――。
すべての音が消えた時、手に落ちた心臓は前触れもなく鼓動を止めた。そうしてやっと、自分が夢の中にいるんだって思う。
息が、苦しい。
記憶の彼方にテレレンは一体、どれだけ大事なものを置いてきてしまったの……。
なんでこんなに怖いの。なんでこんなに胸が苦しいの。なんでこんなに後悔してるの。
何も憶えてないはずなのに、なんでこんなに不確かな情景を懐かしいと思うの。
記憶を取り戻したい。でも怖い。何か嫌なことまで思い出してしまいそうで。もしかしたら死にたいくらい恐ろしい真実かもしれない。知らない方がいいかもしれない。
誰か教えてよ。本当に知る必要がある記憶なのかを。
恐怖を感じてでも真実を知るべきなのかを。
その恐怖を乗り越える方法を。
乗り越えた先にあるものがテレレンが何よりも求めてたものだったってことを。
誰か、教えてよ……。
姿見が消えていた。心臓もどこかに消えていて、テレレンは自分の足元からゆっくりと前を見る。
窓の奥に揺れる白い炎。クイーン様のイルシーとそっくり。思えば今テレレンがいるこの夢の世界は、おばあちゃんのお屋敷にそっくりな廃屋だ。テレレンの部屋と同じ間取り、家具の配置をしておきながら、壁は傷んでて角に蜘蛛の巣が張ってある。部屋にあるものもすべて使えそうにないくらい朽ちている。
この夢はいつ覚めてくれるのかな。いつまでも覚めないのかな。テレレンが苦しいって思う限り、この景色がずっと……。
「元凶を、倒そう」
後ろから声がした。無気力な声量。まさか夢の中で彼が出てくるなんて。重たい頭をゆっくり振り返らせ、扉の前でナイフを持つロディ君を見つける。
「あの魔王のせいだよ。あれのせいで、お姉ちゃんはずっとここから出られずにいる」
あれのせいで……。
「テレレンが、クイーン様を……」
「お姉ちゃんなら出来るはずだよ。いつものように隣に立って、これを胸に一刺しする。それですべて、お姉ちゃんはすべてから解放されて楽になれるはずだよ」
ナイフが渡される。鉄の輝きはよく研ぎ澄まされていて、腕に刺さったら奥までズブリといきそうな感じがする。
早くここを抜け出そう。ロディ君を通りすぎて、部屋の扉に手をかける。
早く抜けよう。ここから。この、白炎に囲われた呪いから出て行こう。
* * *
――メリーサの後を追え。外に出る時に見張りがいるかもしれないが、それはボクが引きつける。その指輪は、もしもの時になったらすぐに使うんだ。
クイーン。あなたには何か分かってるのよね? 分かってるからこそ私に追跡を任せた。分かってるからこそ、今屋敷に幻影の火事を起こしたのよね?
彼女が適当なことをするはずない。幻を見せる魔法を使っても真実を見失わないよう前を見る人だもの。
「行こう、ゾレイア」
この先に何かある。あの怪しいばあさんには何かある。
テレレンに光のない目で見つめて、私たちを守ると言っといてこんな昼間に外出。一番兵士の出入りが多い時間帯をまるで知らないかのような行動。あれだけ本を読んでてボケてるなんて言い訳は通用させないし、ゾレイアの進む先はそもそも商店街じゃない。
怪しいと思ったからにはすべて、暴かせてもらうわよ。一体どんなトリックを使って、そして私たちに何をさせたかったのかを。




