過ぎ去った時間 3
「では皆さん、料理しか取り柄のない不愛想でどうしようもない兄をよろしくお願いします」
そう言い、とびきりの笑顔を見せた真宙が深々と頭を下げるの見た面々は苦笑し、それから似たような笑みを浮かべて見せた。昼から用があるとかで朝早くから帰ることになっていた真宙を見送る雨たち住人にとって、実に名残惜しい状況でもある。特に彼方にとっては、であるが。
「じゃぁ、また」
そう言い、兄と一緒に駅に向かう真宙に手を振る彼方は一緒に送っていくと言ったものの、丁寧に断られていた。去っていく真宙の背中を見つめて落ち込む彼方を横目に見つつ、昨日自分がやらかした記憶もない日向は露骨に自分と目を合わせない彼方を不審に思いつつも部屋に戻った。酔いすぎてつぶれたことを詫びた際も様子がおかしかったため、雨にそれとなく聞いてみたが酔いに任せて日頃の鬱憤を晴らすべく悪態をついていたとしか言われていない。よっぽど酷い暴言でも吐いたのかと思いながらもとりあえずは何も聞かないし言わないことに決めていた。結局美人なら誰でもいいという感じの彼方が許せないだけだ。自分の気持ちも知らないで。
「さて、と」
そう言い、部屋に戻るために階段へと向かう雨の背中を見つめる彼方は、今のままの自分ではいけないという思いを強めていった。美人に目移りする自分を変えなければこの先に未来などない。自分は彼女が元AV女優だと知った今でも雨と付き合いたいと思っている。なのに真宙とも付き合いたいという欲求を持つ自分も自覚している。だからこそ、どうにかしないといけないのだ。
「あのさ」
追うように階段を上がる彼方はジーパンのせいでくっきりとした雨の臀部を見つめている。振り返って見下ろす雨にしてみればその視線は気にならず、むしろ何か言いにくいことでも言うのかといった風に捉えていた。
「一度俺とさ、デートしてくれないか?」
ここで目が合う。そこにはいつもの彼方にはない、媚びていない、ごく自然の視線がある。一瞬どうしようか迷った雨だったが、ここで彼方との関係に決着をつける意味でも、晴人との関係を進める意味でも必要なことではないかと判断する。何より自分の中のトラウマを打ち消すために一歩を踏み出す必要があるのだ。
「いいけど」
普通にそう言った雨の言葉に一瞬脳の伝達が上手くいかなかったような感じの彼方は、徐々にその表情を変化させた。嬉しそうなその顔を見て苦笑が漏れた雨はすぐに馴れ馴れしくなる彼方を警戒していたものの、それは徒労に終わった。
「じゃぁさ・・・明日、いい?」
おちゃらけた欠片も出さないいつもとは違う彼方にどこか違和感を覚えつつも頷いた。授業的に休んでも問題はないだろう。
「で、どこに?」
「4つ駅向こうにショッピングモール出来たっしょ?」
「ああ、そうね・・・・いいかも」
「なら決まり!」
「時間は?」
「9時半に出よう」
「んじゃ、それで」
「時間になったらノックする」
「階段の下で」
「あいよ」
にこやかにそう言う彼方に小さな笑みを見せ、そのまま階段を上がった雨は部屋に戻る。小躍りしたい気持ちをぐっとこらえた彼方も階段を上がり切り、それから少し空を見上げた。これが第一歩だ、そう思うことにする。雨に告白して振られているが、そんなことはどうでもいい。大切なのは今からなのだ、そう思う。雨の気持ちをこちらに向けるため、一途に人を想うため、彼方の中の自分改革はここから始まるのだ。
*
「雨さんに色々話をしたよ」
結局7時過ぎに部屋に戻ってきた真宙はそのまま帰る準備をし、今に至っているために昨夜のことについての報告は駅に向かうまでの短い時間のみになっていた。意図したわけではない、たまたまだ。それに、晴人はそんなことを気にもしないと分かっている。
「といってもさ、病気で亡くなったってのと、約束を守ってただ生きてるだけって話しただけ」
「そうか」
前を向いたままそう口にした晴人にため息も出ない。壊れているのか、それも精神が死んでいるのか。
「雨さん、いい人だよね」
「さぁな」
素っ気なくそう返す返事がいい人であるという答えになっている。普段であれば無視をするはずだから。少なくとも、何かしら雨に感じる部分があるのだろう。それは彼女の過去にわずかながらの興味があるせいなのかもしれない。
「みんないい人」
これには何も答えない。だから真宙は小さく笑った。やはり雨に対する何かしらの感情があると確信したからだ。そんな妹をちらっと見やった晴人はすぐそこに迫った駅を見て少しだけ歩くスピードを抑えた。
「杏珠にも来なくていいと言っとけ」
「ヤだよ、自分で言いな」
「言って聞くような女かよ」
「だからヤなんだよね」
目も合わせずそう言い合い、兄と妹は駅の改札前に立った。チラッとだけ妹を見やる目に何の光もない。このままこうしてただ漠然と生きていくだろうと思っていた。でも今は違う。ほんのわずかだが希望が見えた気がしている。
「晴れと雨・・・・相性はいいんじゃない?」
電子パスを手に持った真宙の言葉に深いため息を漏らした晴人は妹から顔を逸らせた。言いたいことはわかるが、それを拒絶する、そんな意思表示だ。
「じゃ、また来月ね・・・こんどは杏ちゃんと来るようにする」
「拒否する」
「そんな権利、あるわけないじゃん」
にこやかにそう言いながら改札をくぐった真宙は軽く手を挙げるとそのまま振り返ることなくホームに消えた。再び大きなため息をついた晴人は薄い雲に覆われた空を見上げる。雲のせいではない薄暗さを見せる空を見ても何も感じない。
「晴れと雨だと相性最悪だろうが」
ため息交じりにそう言い、晴人は自宅に向かって歩き出す。少し晴れ間が打ち勝ってきたせいか、日差しが強くなり、落とす影の色も濃くなっていった。それでも晴人の目にまぶしさはない。あるのはただ、光すらろくに感じない、そんな世界ばかりだった。
*
今日は日差しが強く、いつもに比べてかなり汗ばむ陽気になっていた。だから雨はジーンズにポロシャツ姿となり、それなりに化粧をしてから念入りに汗対策の準備をするのだった。今日は彼方とのデートの日、そしてきっぱりとその好意を否定する日でもある。一度きっぱり断ったにも関わらず、彼方からのアプローチは続いているのだ。晴人に惹かれた理由もわからぬまま好きだと認識しているだけに、とにかくこっちだけでも早々に決着をつける必要がある。ようやく異性関係において前向きな気持ちを持てたのだ、だからこそ今のややこしい関係をどうにかすることを先に優先させた。もうあんなことはこりごりだし、あんな最低な男との記憶などさっさと上書きしたい。記録に残って消えない過去は受け入れている。強制されて出たわけでもなく、あくまで自分の意志でそうしたのだからそれは受け入れている。だが、今後付き合う男性が、結婚するはずの男性がそれを知ってどうなるかは想像に容易い。今でこそ彼方も普通だが、体を重ねる時にきっと色々想像するのだろうと思う。いや、絶対誰でもそうなるはずだ。なのに何故だろう、晴人だけは違うと思えた。好きになった人だからか、それとも元々あんな感じだからかはわからない。
「よし」
気合を入れてドアを開けた雨はまず悲鳴を上げた。目の前に立つ彼方に驚いたのだ。こちらはカジュアルな服装で、髪をツンツンに逆立てた特別仕様となっている。
「もう!下でって言ったでしょ!」
「あ、いや・・・でも隣だしさ」
「まったく・・・・」
長めの髪をかき上げるようにして自分を落ち着ける雨に見惚れる彼方は抱きしめたい衝動を堪えつつそのまま先に階段を下りた。ため息をつきつつ同じように下りた雨はまず下から上へと視線を上げつつ彼方を見やった。空手をしていたせいで筋肉質な腕が半袖のシャツから見えている。たくましさは感じるがだからといってそれ以上はなにもない。
「まぁ、合格かな」
「ん?」
「服」
「ああ、まぁ、な」
微笑む彼方に呆れたような笑みを見せ、雨は歩き始めた。慌てて並ぶ彼方は今日の予定をざっくりと話しながら歩き、雨はそれに異論を唱える。そんな2人の後姿を見ているのは騒がしい悲鳴に反応して外に出た晴人と、階段脇での会話をたまたま部屋の中から聞いていた日向だ。
「いいのか?」
部屋の前に立つ日向を見下ろす形の晴人は何故こんな言葉を口にしたか理解できていない。自然と出たのだ。
「どうせふられるのがオチ」
「かもな」
「木戸さん・・・・私たちも出かけませんか?」
「尾行はヤだぞ」
珍しいその反応に日向は驚きつつも笑顔になる。ここ最近の晴人はかなり打ち解けた様子を見せている。それが雨のせいか、それともここへきてようやく馴染んできた証拠かはわからない。
「気分転換です」
「学校は?」
「頭痛が酷いので休みます」
「なるほど」
高校生の日向は普通に授業がある。それでも今日はさぼりたい気分なのだ。
「俺は昼から授業だったが、まぁ、いいよ」
「じゃぁ、映画に行きましょう」
「わかった」
「1時間後に、ここで」
そう言い、地面を指さした。晴人は頷き、そのまま部屋に戻る。日向はそんな晴人に苦笑し、それからもういなくなった2人の向かった方向へ顔を向けた。好きな人が他の女性とデートなど、いい気分にならない。でも、あの雨が彼方とデートをするということがどういうことかは理解できている。今の曖昧な関係に終止符を打つつもりなのだろう。
「気分転換しないと、私も向き合えない」
日向はそうぽつりとつぶやくと部屋に戻った。補導されないよう、大学生に見えるように少し化粧をし、身支度を整えるのだった。
*
戦う理由は、もうない。守るべき相手ももう、いない。なのに何故、そればかりを考えている自分がいる。鏡に映る自分は酷く虚ろで曖昧な存在に見えた。彼女を守りたくて鍛えに鍛え、上達する自分を嬉しく思い、そして勝ちたい相手に勝つことでその高みを目指し続けてきた。なのにその大切な人を喪い、戦う理由も失くした。それでも毎日のランニングはかかさず、時々は筋トレもしてその体形を維持しているのは何故だろう。染みついた幼いころからの成果かもしれない。いや、まだ心の片隅にほんの僅かだけ残っているのかもしれない思いがそうさせているのか。彼女を守れなかった自分が、それでもまだ誰かを守れる強さを維持しようともがいている結果なのか。どうでもいいはずなのに、それでも維持していることの意味すら見いだせず、他人を拒絶しきれない自分を情けなく思った。強さなどもう求めていない。求めているのは死だ。
「馬鹿な男だ」
鏡の中の自分を睨みつけ、そう呟いた晴人は顔を洗う。そうして支度を整えた。ジーパンにTシャツのラフな格好だ。約束の時間の5分前に部屋を出て階段を下りれば、そこにはワンピース姿の日向がいた。いつもにはない化粧のせいか、大人びて見える。きっと彼方であれば舞い上がっていただろうその姿も、晴人にとっては何も感じない。
「早いな・・・・それに中々似合ってる」
なのにそういう言葉が自然と出た。だから日向はにっこりと笑い、横に並ぶとそっと腕を組んできた。
「ありがとう・・・さ、行きましょう」
「腕組む必要、あるのか?」
「だって、補導されたくないもん」
「関係あるのか?」
そう言いながらも歩き始める晴人だが、組んだ腕はそのままだ。だから日向も嬉しさを隠せない。あの晴人が時折見せるこんな些細な優しさが嬉しいのだ。不愛想で他人を拒絶する晴人が自分たちだけにはそれを実行出来ていないことが嬉しい。
「何の映画見るんだ?」
「ゾンビもの」
「・・・・・・・・あ、そう」
意外な反応に日向の悪戯心に火がついた。意外な弱点を見つけた気がしたからだ。
「苦手?」
「別に」
「私こういう血しぶき舞うのが好きなんですよ・・・ホラーとかも」
「へぇ」
その返事にはいつもの素気なさにはない感情が見えている。だから日向は確信した、晴人はこういうジャンルが苦手なのだと。
「楽しみ!」
とびきりの笑顔を振りまく日向を見ずに前を向いて歩く晴人の表情は少し硬い。日向はニヤリと微笑むと組んだ腕に力をこめる。腕に押し付けられる胸の感触など気にもならない晴人、押し付けている自覚のない日向。その2人の思考は全く反対のものとなっていた。
「今日は木戸さんの色んな姿が見れそうですね」
「ないよ」
嬉しさを隠せない日向の言葉にそう返す晴人だったが、いつもの無表情ではなく緊張がありありと出ているせいか、日向はニヤニヤを消すことなくわくわくした気持ちでやや歩みを早めるのだった。