過ぎ去った時間 2
女の子の身体はなんて柔らかいんだ、そういうことばかりが頭の中をぐるぐると回り続けていた。日向をおぶって帰り、雨と真宙と一緒に彼女の部屋に入って簡易的なベッドにその華奢な身体を寝かせたまでは覚えている。女子高生の部屋なのにあまりに物の少ないその部屋の違和感より、彼女を背負っていた時の感触、温もりばかりが全身を支配しているような感覚に襲われていたのだ。それは家に戻って風呂に入り、こうして布団の上に寝転がっても変わることはない。別に日向に対して特別な感情があるわけでもなく、どちらかというと手のかかる妹のような存在だ。
「これが女を知らないってことか」
電気の消えた部屋の天井を見上げながら今でも残っている背中に感じた柔らかい感触、手にはおしりの柔らかさ。そして何より、不意打ちのようなあのキス。柔らかいあの唇の感触はずっと残っている。惚れっぽい性格が災いし、高校生空手世界チャンプでありながらろくに彼女が出来なかった男の末路がこれかと自嘲し、彼方は大きなため息をついた。今夜もまた雨という想い人がいながらも真宙を彼女にしたいという欲求も生まれていたのは事実だ。
「付き合ったのはいいけど、キスまでいかなかったってどうなんだろうか」
過去に付き合った、といえるのか、自分から告白して付き合い、せいぜい3回ぐらいのデートをし、キスも数回のデートの末にと思いつつ、結局する前に別れてばかりだ。そう思えば、初めて出来た彼女と付き合った頃からこうだったと思う。好きな人が出来てもまたすぐに別の人が気になってしまうのだ。だから愛想をつかされる。現に雨には幻滅され、その上で彼女はあの生きる屍のような晴人に惹かれているというのだからもうどうしようもない。真宙にも相手にされず、結局のところ日向が一番懐いているのが現状か。
「腐れ縁なだけだしなぁ」
日向の気持ちにも気付かない自分を見ず、どうしてこうなったかを考えること30分、彼方は大いびきをかきながら眠りに落ちていたのだった。
*
妹は隣の部屋に泊まりに行き、いつも通りの1人の夜になっている。水の入ったペットボトルを小さなテーブルの上に置いた晴人はカーテンを閉め忘れた窓の方へと顔を向けた。月明かりが夜の世界にささやかで優しい光をもたらす、その世界すら黒く淀んで見えている。1年ほど前のあの日から、世界から明るさが消えた。太陽と呼べる存在を失い、今に至っている。彼女はもういない。自分を突き放し、孤独に戦おうとした寂しがりやの彼女。結局は死に至るその瞬間まで自分に生きる希望を与えてくれた優しい人。自身の命と引き換えに、こんな自分に希望をくれたのに、そう思う。だから自分は生きている。心は死んでも体は生きている。それは約束だからだ。生きて欲しいと言った彼女の言葉を守るために、本当に文字通り生きているだけの命。
「生きているふりをして、そうして死んでもさ、言い訳にはなるよな。生きたよって、あの世で言えるかな?」
死んだ目をした自分に気づいている。惰性で生きているのだから。だから他人とも関わらない。ただ過ぎていく毎日を淡々と過ごしている、それだけだ。なのに、何故だろう、雨のストーカー問題を解決したのは。ほっておくはずだったのに、体が、心が勝手に動いた結果だ。いや、そもそも何故そうしたのかわからない。
「馬鹿な話だ」
何故かイライラし、ペットボトルの水を一気に飲み干した。
「死にたい」
空になったペットボトルをテーブルに置いてそうつぶやくが、それが出来ないことも理解している晴人はやるせない気持ちを晴らそうと部屋を出て、そのまま深夜の暗い川の方へと歩き出すのだった。
*
風呂場は狭いために別々に入り、一応用意しておいてよかったもう1組の布団を敷いた雨は数個の缶詰のフルーツを皿に取り分けている真宙を見やった。どう見ても強そうな女性には見えないが、えてして本当に強い人間はそんなものなんだろうと理解していた。そうして小さな丸テーブルを前に対面に座った2人は皿の上のフルーツを食べ始める。時々こういうものが食べたくて買うのだが、結局食べずに冷蔵庫に保管されている状態にあったものを消化できる喜びもあり、その味は体にしみわたっていった。満面の笑みを浮かべる真宙に触発されてか、雨もまたとろけるような表情を浮かべて見せた。そんな雨を見た真宙はみかんを口に運びつつ質問を投げた。
「雨さんって、彼氏さん、いないんですよね?なんで?」
「元カレがサイテーだったんで、リハビリ中」
「おー、それは色々聞きたいなぁ」
「トラウマなんで、ヤだ」
「そう言われるとますます聞きたい」
「・・・・晴人とは正反対の好奇心ね」
「あいつは死んでる人間だし」
「兄に対して辛辣ね」
「生きろと言われたからとりあえず生きてる、そんなバカと比べられることがもう許せない」
意図せず、雨は今夜の本題に入ったことに心で微笑んだ。
「なんでそうなったの?」
雨の言葉に一瞬表情が消えたものの、真宙は再度みかんを口へと運ぶ。まぁ、こういう話をしたかったんだろうなと思う真宙だが、かといって自分の口から全部を話すわけにはいかない。けれど、もしかしたらこの雨ならば、そういう予感もあってしばし思案し、それからスプーンを置いた。
「兄の彼女が亡くなったのは1年ほど前。死因はガンです。悪性で、見つかってたった2ヵ月で」
「ガン・・・」
おおよその予想通りかと思う。きっと大切な人を亡くして、ああいう風に抜け殻になったのだろうと思っていたからだ。だとすれば、それが『りい』なる人物なのだろう。
「それが、りい、って人なのね?」
「お、なんで知ってるの?」
「あんじゅ、だっけ?その人と一緒にいる晴人のすぐそばで友達とお茶してたから、たまたま」
そこは素直に話す。そうすることで真宙の信用を得るという魂胆があったからだ。真宙にしてもその魂胆は見抜いた上で、どこまでを話していいかを考えていた。
「千歳璃維、兄と同い年で、見た目は普通の子。でもね、笑うとすごく可愛かった。優しくて芯が強くてね、本当のお姉ちゃんのような存在だったんだよ。まぁ将来的には本当に姉になるはずだった・・・中学の頃から付き合っていたしね、幼馴染で」
薄く微笑むそこに感情が見え隠れしている。真宙もまだ色々と心の整理が完了出来てないのだろう。雨にしてみればそこは理解できる。真宙でこうなのだ、晴人がああなっても不思議ではない。
「その彼女が死ぬ前に、晴人には生きて欲しい、長生きして欲しいと伝えた?」
「そういうこと」
雨のその予想は容易いと判断出来る真宙は微笑みながらそう言い、今度は桃を頬張った。やはりそうかと思う雨にとって、その晴人の気持ちも理解できていた。かといってそれは死んだ彼女が望んだことではない。今の晴人は言葉としての約束を守っているだけだ。彼女がその言葉に込めた本当の意味を理解できていない。いや、きっと理解はできているのだろう、ただ、そうできないだけだ。
「馬鹿な男」
「ホント、馬鹿な兄。そんな兄を好きになっても、得にはならないよ」
はっきりそう言う真宙に苦笑するが、雨はスプーンで桃をすくった。
「なんでだろうね・・・・利用されて、それが正しいと思い込んで、捨てられて、絶望して、恋なんてもうするもんかって思ってたのに、惹かれている」
「きっと、あの状態の兄だからだよ。普通通りなら興味もわいてないよ」
「そうかもしれないね・・・でもそうじゃないかもしれない」
「ん?」
その雨の物言いに口に運びかけたスプーンが止まった。結局のところ、世捨て人みたいな死んだ目をした男が、他人を拒絶しつつもしきれずにほんの小さな親切を見せたから惹かれた、そう思う。なのに、雨はそれを否定する。晴人は妹の真宙が言うのも変な話だが、ごく普通の男だ。イケメンであっても面白味もないし、本当に普通なのだから。
「あいつの中にはまだ残ってるんだと思う」
「何が」
「人との繋がりを求める心、もう一度誰かから必要とされたいって心、そして・・・・」
「そして?」
一旦そこで言葉を止めた雨に対し、真宙はスプーンを下した。この答え次第では雨は晴人の心を癒せる存在だと認められるかもしれない。
「本当に生きたいと思う心が」
望んでいた答えではない。けれど、それに近い答えだ。
「だったら、雨さんに託すよ。自分と戦って、そんでもって、あのバカ兄貴とも戦って、勝って」
「まぁ、出来る限りだけど・・・心は折れちゃうかもね」
「折れないよ、きっと」
そう言い切り、今度こそスプーンに乗ったみかんを口に入れた。その笑みは美味しさからくるものか、それとも別のものか。けれど雨の中で腹は決まった。晴人と向き合おう。それは自分のためでもある。男なんて上っ面の優しさと物言いで女を利用するだけの生き物だと思ってきた。けれどそうではない男もいるのだと、もう一度信じられるかもしれない男に出会ったのだ。
「まずはリハビリだね」
「何の?」
「元カレからの」
「だね」
そう言って微笑みあう2人はその後、世の中の男性に対する愚痴を言いながら明け方まで話し込むのだった。
*
月光に照らされるその水面は昼間に見るよりもきれいに感じて、好きだった。あの頃は夜も昼も好きという感覚はなく、そう、ただ彼女だけを好いていた。それだけで世界は明るく、そして色んなものに満ちていたと思う。なのに今は何もない。あるのはただ、生きろと言われた約束だけだ。璃維が死んで1年、まだたったの1年だ。なのに物凄く長い年月を消化した気になっている。もう老いて死ぬのを待つばかり、そんな感じだ。でも実際はまだ1年。先は長く、ぞっとする。
「生きたくもないのに」
そう呟く晴人の右目から一筋の涙が流れる。その違和感にそこに触れ、確かに流れている涙を見て困惑してしまった。涙なんかもう枯れたと思っていた。どれだけ泣いたかわからない。捨てたはずの感情だ。悲しみも喜びもなにもかも。自分は何のために生きているのだろう、約束の為か。何のために捨てたのだろう、人間らしさを。自分と戦う気力も意思もない。抗うことすらしなかった。約束の本当の意味を理解しつつ、そこから逃げたのだ。戦うことを放棄した。他人との関わり合いも放棄した。なのに出来ていない。彼方と、日向と、そして雨とこうして交流しているのだから。生きるための最低限度の関わり合いだ、そう自分に言い聞かせ、晴人は回し蹴りを放った。そのまま幼いころから習った技を1つ1つ放っていく。やがてそれは奥義に移り、目の前に立つ可憐な女子高生とその兄を幻として立たせた。2人と戦うように技を放ち、そして仮想の攻撃をよける。無心に、感情もなく、1時間ほどそうしてその場に座り込んだ。息は切れ、Tシャツは汗まみれだ。どうしてこんなことをしたのかはわからない。逃げたい意識がそうさせたのかとも思う。璃維を亡くして一ヵ月した頃、従妹である紗々音の来訪は自分に助けを乞うものだった。兄である木戸明日斗のピンチだからと助っ人として頼られたが断ったし、紗々音も今の自分を見て失望し、何も言わずに去ったのが現状だ。結果として自分を抜いても問題は解決したというのは両親から聞いている。その際、かつての自分が望んだその強さの境地に至った明日斗のことを聞かされても心が動くこともしなかった。なのに、今は少しだけ、僅かだけそれを羨む気持ちを自覚する。
「意味ないのに」
そう呟くと同時に彼女の言葉が頭に浮かんだ。
「だって、病気だもの」
大切な人を守るために鍛えてきたし、技も磨いてきた。けれど、それに意味はなかった。病気には戦いを挑めないし、勝つこともできない。それが出来るのは医者であり、戦うのは病人だ。自分の無力さと愚かさを知った矢先、彼女は亡くなった。晴人の中の太陽はもう、なくなったのだ。
「俺はもう・・・・」
何度も何度も口から出た死にたいという言葉が出なかった。何故だろう。
「俺をそっちに連れて行ってくれ」
薄い雲に隠れつつある月に向かってそう呟くと両膝をつき、そのまま両手をついて泣き崩れる晴人だった。
*
雲に隠れて暗い夜中、今日もまた千鳥足の女が街中を闊歩する。女だけではない、男もだ。そんな様子を見下ろす10階建ての商業ビルの屋上に立つ男はそんな連中には見向きもせず、自分好みの女を物色していた。裸眼でも、この暗さでも距離でもはっきりと行きかう人間の顔は判別できた。どうやら今日はお眼鏡に叶う女はいない。だから男は不敵に笑う。
「神様、明日は、頼むよ」
そう言うと男は踵を返して1階下に位置する非常階段に向かって飛んだ。綺麗に着地をするとそのまま軽快に階段を駆け下りる。醜悪で、そして無邪気な笑みを浮かべつつ。