入り交じる模様 2
快晴の空が広がっている。川べりに立てば水面が陽光を反射してキラキラときらめき、揺らめき、まばゆい光が網膜を刺激してくる。なのにどうしてだろうか、それを綺麗だとは思えない。空の色もどこか暗く感じてしまうようになったのはあの日からなのは間違いない。何も救えない、誰も救えない。愛する人を救えなかった自分を悔やんでも仕方がないのは分かっている。どうあがいても自分に彼女を救うことなど出来なかったのだから。両親が教え込んだ誰かのために、大事な人を守れるようにとの信念すら、もう失ってしまった。最強を目指していたあの自分は彼女と一緒に消えたのだ。何のために生きているのかわからない。何故彼女を失わなければならなかったのだろう。何故、何故、何故、そればかりがあの日からぐるぐると頭の中で渦を巻いている。結局、自分は生きながら死んでいるのだろう。死にたいのに死ねない自分を恥ずかしいと思うものの、それでも彼女が最期に言い残した言葉をただ守り続けている。
『あなたは生きてね・・・・生きていれば必ず出会えるよ、私以上の女性が、私以上に大切に思える女性が。だから、生きて・・・絶対に幸せになって、これは私の願いであり、約束だよ?』
随分と痩せてしまった儚い少女の最期の願いをかなえる気力もなく、生きろと言われた曖昧な理由で今に至っているだけだ。くだらない約束だと思っているのに、なのにそれを守っている。生きろという約束は守りつつ、恋をしろという約束は守れそうにない。大学を見渡しても彼女以上の女性がいるとは思えない。だいたい、死んだのだ、自分の恋という感情は。そう思いつつ、晴人は手にしていた釣り竿の針に手製の練り餌を付けて川に投げ入れる。趣味といえばそうなのかもしれない。この地にやって来て始めた釣りだが、ただの時間つぶしにしかならない。こうしていると死にたいという願望が強くなって、彼女を感じられる気がしている。しかしながら彼女を感じたことは一度もない。
「そりゃそうだ・・・あいつは、生きろと言ったんだから」
その意味を理解している。ただ漫然と生きろと言ったわけではないのだから。
「約束を破っているうちは、死ねない、か」
晴人はそう呟いて川べりに腰かけると、引いている竿すら上げずにきらめく水面に視線をやるのだった。
*
こんな時間に目が覚めてしまって不快に思いつつ、雨は布団にくるまりながらスマホでニュースを読んでいた。今日もろくなニュースはない。政府批判に強盗、自殺、事故。その上、ここ最近で世間を騒がせている猟奇殺人。女性の皮を剥いで持ち去るといったとんでもない事件だ。この町から40キロ離れた場所で最初の事件が起き、あとは場所も時間もまばらなまま、昨日の犠牲者で7人目だ。徐々にこの町から離れているためにまだ他人ごとにしか思えない。それよりも、ストーカー殺人の事件に食い入った目を向けている自分はまだ前に進めていないのだろう。顔だけが良かった元カレにあわされた数々の酷い目。いや、愛していたからこそ酷いとは思っていなかった。だから自己嫌悪しかない。最近感じる誰かの視線、気配もまた彼なのだろうかと思うものの、彼ならばそんな回りくどいことはしないとも思う。だからこそ勘ぐってしまう、彼が何かの目的で誰かを自分のストーカーに仕立て上げているのではないか、と。それを想像して身震いをした時だった。隣の部屋の玄関ドアが開く音が聞こえてくる。思わず身をすくめた雨は方向から晴人かと認識した。奥側から階段に向かって歩く音も聞こえてくる。しんと静まった明け方にこうまで気配を感じるこの物件に問題があるのは確かだが、安い家賃に惹かれたのだから文句は言えない。
「もっと静かに歩きなさいよ・・・こんな時間に」
イラつきを隠さない雨はここに来て10日経つものの、晴人のことをよく思っていない。夕飯のおすそ分けだけで繋がっている、そんな位置関係だ。逆に彼方とは随分と仲良くなったが、その恋人気取りな態度は受け入れられるものではなかった。日向が言ったように、彼方は空手の世界チャンピオンであり、その腕前は膝を壊して引退したとはいえ健在のようだ。だからこそ、ストーカーのような視線を感じるこの状況では彼方と仲良くなって損はない、そんな打算的な付き合いを続けているものの、その気さくな人柄は好感を得ていた。日向からは近所の情報や安い店など、情報交換を得てかなり親しい仲になっている。彼女も自分に懐いている様子で、そこもまた心地がいい。
「はぁ・・・」
ため息をついてスマホを置き、布団をはねのけた。午前5時6分、こんな早起きは2年ぶり、かもしれない。
*
「お?」
早朝の軽いランニングは中学の頃からの日課だ。膝を壊してからは本当に軽いランニングしかせず、どうにか負担を掛けないようにしつつ鍛えることは怠らなかった。復帰は出来るだろうが、膝を狙われれば終わりだ。だから潔く引退したのだ。自分が目指す最強に届いた、その満足感があったからだ。
「今日も早いな」
近所を流れる川の下流にかかる大きな橋。ここはアパートから6キロ程度離れた場所だ。彼方はいつも通りそこに立って川を眺めている晴人に声を掛ける。これも日課だ。晴人は自分よりも30分早く始動しているようで、一度張り合ったことがあったが身に付いた習慣のせいで早い時間に起きてのランニングはどうも合わない。だからいつも通りの時間でランニングをしているのだった。
「いいよなぁ、お前は、雨と同じ大学でさぁ」
またか、そう思うが顔には出さない。晴人は表情を全く変えずに朝日を浴びる水面を見つめているだけだ。これもいつもこと、だから彼方は晴人の返事も必要ない。自分の言いたいことを言うだけだ。
「付き合いたい」
まるで晴人に告白をしたような言い方だが、晴人は顔を向けずにずっと川を見つめている。
「お前もそう思うだろ?」
「思わない」
彼方は今の発言にぎょっとした顔をして見せた。あの美人の雨と付き合いたくない、その発言にではない。自分の質問に答えたことに驚いたのだ。
「あの顔、あの性格、あのスタイル!どれをとっても一級品だぞ?」
「性格は三級品だ」
そう言い、晴人が水面から顔を逸らした時だった。下から舞う彼方の右足がその鼻先をかすめる。その振り上げた足をくぐるようにして立ち去った晴人は少し離れてからランニングを始めるのだった。
「あのやろう・・・・」
憤然としたのは雨をさげすんだ発言に対してだけではない。手加減をしたとはいえ、顎先に見舞ったあの蹴りを見ることなく簡単にかわしたことにもだ。とっさに出た蹴りだった。いや、あいつならかわすかもしれない、そんな予感があった。出会って1年ほど、晴人に対して格闘家としての血が騒いだのは一度や二度ではない。なにか習っていたかと聞いても無視されて終わっているが、だからこそ自分には及ばないもののかなりの強さを持っていると感じていた。
「まぁ、いいさ・・・雨はあいつを嫌ってる・・・・・ん?」
雨が晴人を嫌っているのは間違いない。それは日向も言っていたからだ。だが、もう1つ、こんなことも言っていた。
『今は嫌いでも、あの料理で好感を得るかも。胃袋掴まれたら、ねぇ・・・私もそこはこう、惹かれちゃう』
自分にアプローチをかけている日向のそれに気づかない彼方でも、その言い方はずしんと響いた。自分も料理は出来るが普通に食べられるものを作れるだけだ。ああやっておすそ分けは出来ない。
「胃袋、か」
そう呟くと、彼方は自宅に向けてランニングを開始した。雨の好感度を上げるため、料理の腕前をあげよう、そんな風に思いながら。
*
大学でもひときわ目をひく美貌を持つ雨の友人は多い。男女問わず、ではなく、圧倒的に女性の友達が多い。いや、男友達はいないと言っていいだろう。告白されてもきっぱりと断り、交友関係さえ築こうとしない。だからレズだという噂が流れている。今日も雨の周りに女性は4人、1つ上の先輩と、1つ下の後輩3人だ。授業も終わってランチでも、そういう話をしてファーストフードの店に入る。混雑寸前の時間だったので、どうにか席は確保するが、よりにもよって隣の2人席に座っているのは晴人だ。内心で舌打ちをした雨だったが、晴人の存在を無視してポテトをつまんだ。
「遅くなった」
その言葉にぎょっとしたのは雨だ。3人のおしゃべりも耳に入らず、その耳は隣の席に向けられている。何故ならば、晴人の向かい側に座ったのはショートカットの髪形をした、ややきつめの目をした女性だったからだ。しかもどう見ても年上だ。社会人かもしれない。しかもかなりの美人だ。
「そういえば、あんたの親戚、色々あったみたいね」
「みたいだね」
あの晴人が返事を返している、それが奇跡だ。
「わざわざこっちに来て、相変わらずみたい・・・変化なし、か?」
「変わるために来たわけじゃない」
「まぁ、そりゃそうだ」
「変わりたくもない」
「戦う気はないんだ?」
何の会話かはわからない。しかし、あの晴人が全部の質問にぶっきらぼうながら答えている、それがどうにも違和感でしかない。自分の場合、晴人を嫌っているとはいえ、質問をしても当然のように返事などなく無視されてばかりだ。つまり、晴人もまた自分を嫌っている、そういう結果だと思っていたのはあるが、誰に対してもそうだとも思っていた。現に彼方や日向に対しても同じなのだから。
「理由がない」
「自分と戦う理由も?」
そこでピクリと反応したのは晴人だ。雨もその反応を見逃さない。これは本当に奇跡かもしれない。表情などない晴人のその反応はこの10日でようやく見た初めての感情の変化なのだから。
「自分とは戦えない」
「自分を辞めないように、今の自分に抗うために戦うんだよ」
「言ったろ?理由がないって」
「・・・・無理やりにでも奮い立たせてやりたい気持ちだけど、今のあんたと戦ってもつまんないし」
これに対して晴人は無視をした。これがいつもの晴人だ。
「木戸を倒すのがウチの悲願だった・・・・まぁ、親父がその悲願を達成したけど、結局、あんたの親父さんに負けて、結局は勝ったのか負けたのかよくわかんない状態らしい」
「ウチに勝っても自慢にゃならない」
「そうかなぁ?」
「久々に会って、する会話がこれか」
「だってさ、これ以外ではあんたと会話になんないじゃん」
呆れたようにそう言う女性に、雨が心の中で大きくうなずいた時だった。
「でさ、雨も行こうよ」
「へ?あ・・・・うーん・・・・」
全く会話に入ってなかった状態だからこそ上手くかわす曖昧な返事。これもまた雨が元カレとの付き合いの中で身に着けたスキルのようなものだ。
「行こうよ、映画、明後日さぁ」
「まぁ、いいかな?」
「よしよし」
ご満悦な先輩に愛想笑いを返しつつ、意識を隣に集中させた。どうやら会話は止まっているようで、2人共黙々とポテトをついばんでいる。
「今のあんたを見て、璃維はどう思うかねぇ」
その言葉を聞いても何も答えない晴人はコーラの入った紙コップを手に取った。
「失望してるさ・・・怒ってるかも」
「それが分かっていながら、か」
晴人の返事に苦笑しか出ず、女性は自分もジュースを飲んだ。
「まぁ、私はあんたと戦う気はない・・・・今のあんたに勝っても嬉しくないし、かといってかつてのあんたには勝てないからね、これを理由に逃げるよ」
「あの佐々木杏珠の言葉とは思えないね」
「ありがと」
そう言うと杏珠と呼ばれた女性は全てを食べ終えたトレイを持って立ち上がった。
「幼馴染として、私は以前のあんたを好いてたよ。っても、恋愛感情じゃないけど」
「嫌ってくれていい」
「それが出来たらどんなに楽か・・・・・また来月、様子見に来るから」
「来なくていい」
「じゃ、また来月」
晴人の返事を無視してそう言い、杏珠と呼ばれた美女はトレイを片付けると店を出て行った。そんな杏珠の方を一切見ず、晴人は残ったポテトを口に運び、そこで視線だけを雨の方に向けた。何の感情もない目だが、そこに哀愁が感じられたのはなぜだろう。雨は晴人を数秒ほどじっと見つめ、それから仲間の会話に集中するように晴人を意識から消したのだった。
*
結局、あの美女と晴人の関係ばかりに気がいってしまい、雨はよくわからない映画とショッピングに行く約束をさせられた。しかも朝から夜までだ。まだ夜に出歩くのは怖い。仕方なく、彼女たちと別れた後はお金がかかってもタクシーを使おうと思っていた時だった。
「あ」
横の路地から出てきた晴人にそう反応するものの、晴人はちらっと雨を見ただけで並ぼうともせず先を歩く。だから雨は強引に横に並んだ。
「昼間の美人さん、誰?」
どうせ晴人は気づいていた。だからストレートに聞いたのだ。かといって返事がないことも理解している。
「実家の地元の幼馴染だ」
だから返事があったことに驚きを隠せない。
「あ、そうなんだ・・・・年上?」
「3つ、な」
「社会人か」
ここで返事はなくなった。それでもここまで会話が成立したのは奇跡かもしれない。ならば今少しの奇跡に期待が乗る。
「どんな仕事してるの?」
「イラストレーター」
「え?そうなんだ?すごいね」
心底凄いと思うが、何が凄いとは晴人の返事だ。今日は幼馴染と会って機嫌がいいのかもしれない。だから雨の攻撃は続く。
「りい、って誰?」
その瞬間、殺気を含んだ目が自分を射抜く。表情に変化はない。怒りもなければ眉間にしわもなく、口もとにすら変化はない。だた、その視線は怖い。でもその視線は雨の向こうの路地に注がれているようだ。曲がり角の向こうに。
「な、なに?」
誰かがそこにいるのか、そういう恐怖で思わずそっと晴人の服をつまんでいた。
「さぁ」
そうとだけ言い、晴人は前を向いて歩きだした。だから服をつまんでいた雨もまた自然と歩き出す。まだ明るいのに何故こんなに怖いのだろう。
「最近、なんか視線を感じるんだよね・・・」
思わず言葉に出た。あの晴人に弱いところを見せてしまったと思ったが後の祭りだ。いや、誰であっても弱い自分は見せない、それが雨のポリシーなのに。
「隣に相談してみればいい、喜んで力になってくれる」
「あ、そうか、そうね」
そのまま会話はなくなった。そうしてアパートにつき、階段を上がる。そして雨の部屋の前に来たところで足が止まった。雨と、晴人の。
「もう大丈夫だろ?」
その言葉にハッとなった雨はずっと晴人の服を掴んでいたことに気づいて手を離した。晴人はそれを確認し、そのまま何も言わずに自分の部屋のドアを開くとさっさと中に入っていく。
「どういうの、あれ・・・・なんなの?」
自分でもよくわからない感情が渦巻く。怒りと、感謝と、そして少しだけの淡い想い。いや、最後のそれはそういう感情ではない。誰かに頼りたい、その感情だろう。雨はため息をつくと鍵を開けて部屋に入る。そして再度大きなため息をつくのだった。