真理の自覚 3
闘気でもなく、殺気でもない、そんな気を感じる男だが恐怖は感じなかった。だから表情にも余裕がある。そもそも、常人にはない速度で動けるのだから何の心配もない。彼方との闘いはいわば遊びだ。ここ最近は警察の包囲網が迫っている分、すぐに女を殺して皮を剥ぐ作業を進める必要があったために女の恐怖した顔を堪能する暇もなかった。だから、人通りの少ないここは監視カメラもなく、時間的な余裕も十分あるために遊びに専念できた。そう、この男にとっては晴人ですら遊び相手に他ならない。3本のかぎ爪を伸ばした拳を握ると一気に間合いを詰める。晴人にすれば一瞬で目の前に男が現れた印象だ。それでも突き出される右腕の刃をかわし、横から迫る左腕の刃も難なくかわす。心で舌打ちをする男はそのままラッシュをかけるが、晴人はそれらをかわし、受け、そしていなしていく。受けながら下がる晴人だが反撃は出来ず、ただその刃にのみ集中している状態だった。そうしていると男が大きく後方へ飛び退いた。
「やるじゃん。でも、反撃は無理?」
「どうだかな」
「でも驚異的だよ、その身体能力」
「そうでもない」
お互いに睨み合いながらそう言い、静寂がわずかな時間ながら訪れた。男が再度一瞬で消え、晴人の右横に姿を現す。だが前を見ている晴人は少しだけ顔を動かし、目でそれを捉えていた。
「ホント、驚異的」
動体視力の成せる技か、それとも読んでいるのか、このスピードを捉えるなど信じられない。だが、それもここまでだ。リーチを生かした戦法に切り換えた男は晴人が避けることしか出来ない距離で爪を振るう。晴人は切っ先が触れないようにかわしていくが、内心では舌打ちをしていた。反撃が出来ないことにではない。意識してから回避行動に移っている自分に対しての苛立ちだ。逃げることも負けることも許されないこの状況ならば無我の境地に至り、考えるより先に身体が動くといったその究極の位置に立てると思っていた。だがそうではない。これではいつもの回避と何ら変わりがないからだ。従兄弟の明日斗が見せたあの境地、思考と反応が同時に成り立っているあの境地に至るのはこういうシチュエーションにあると思ったからだ。
「これでも無理なのか」
心でそう言った瞬間、目の前に爪があった。この時、反射的に体が反応し、拳を握った右手のその人差し指と中指の間で三本の内の真ん中の刃だけを起用に挟んで向きを変えた。驚く男の動きが一瞬緩慢になり、その隙に腹部に蹴りを入れた晴人だがその一撃だけで動きを止めた。男はその際に再度大きく飛び下がり、晴人を睨みつけたからだ。何がどうなってあの爪の軌道を変えたのかがわからない。勝利を確信していたが故に見ていなかったのだ。
「なんなんだ、お前は?」
「さぁな」
「今、どうやった?」
「見えてなかったのか?」
そのやりとりを聞きながら、彼方は出血する右足を押さえつつ、晴人に対して嫌悪感を抱いていた。
「あいつは戦うことのみを求めている・・・俺たちを助ける気なんてない」
助けようとして戦うなら短期決戦に持ち込むはずだ。だが、今の晴人からはそれを感じない。むしろ、この戦いを通じて何かを得ようとしている風に見える。痛む足、止まらない出血、この状態でいつまで放置されるのか。歯がゆい思いをする彼方はここでようやく自分のスマホで警察に電話をするという思考にたどり着いた。日向と雨を守ることを優先した結果、すっかりとそれを忘れていたのだ。ナイフの刺さった腕をどうにか動かしてズボンの後ろポケットに入っているスマホに手を伸ばす。だが、男はその動作を見ていた。だから瞬時に動く。狙いは晴人ではなく彼方に絞って。
「先に死ね」
その言葉がすぐ傍で聞こえた彼方の両眼が見開き、雨は何の反応も出来ずにまだ目で追うことも出来ていなかった。眼前に迫った3つの爪を見ることしか出来ない彼方がとっさに目をつぶる前にそれが来た。いや、爪は目の前で停止したのだ。爪を掴んでいるのは晴人の左手。起用に指の間で三本の爪を掴んで押さえている。だが同時に横から爪が襲う。標的を彼方から晴人に変更したその一撃は瞬時に腕を掴まれて抑え込まれた。両方のかぎ爪を押さえられた男が舌打ちをしかけた矢先、顎先に晴人のつま先が飛んだ。気配で察した咄嗟の動きで顔を逸らしてその一撃をかわし、通り過ぎた足が落ちてこないかを目で追う。だがもう一方の足が跳ね上がり、再度顎先を狙う。大きくのけぞっていたのが幸いしたのか、それとも晴人の蹴り上げるタイミングが速かったのか、本当に鼻先をかすめたつま先に驚愕する男。2つの蹴りをやりすごしてホッとしたのもつかの間、その足が瞬時に自身の首に絡み合った。叩きつけられるようなその絡みに思わず声が出たが、両腕は掴まれたままだ。そのまま晴人は相手の首を捻るようにして体を回転させ、投げを打つ。首にかかる大きな負荷から逃れるため、男はタイミングを合わせて地面を蹴った。それでも地面に対して真下を向いた頭はこのままでは確実にその地面に叩きつけられる。ただでは済まないこの状態をどうにかするため、男は爪を強引に引き抜いて晴人の手から逃れると地面に腕をついて頭部の直撃を回避し、そのまま背中から地面に叩きつけられながらも爪を振るったことで、それをよける晴人が足を首から離したために脱出に成功した。痛みを無視してバック転しながら間合いを図り、大きく息を吐く。
「何なんだ、貴様は!」
叫ぶ男を見て、それから驚愕の目で自分を見ている彼方を見やる。そのまま視線を横に向けると何が起こったのか理解不能といった顔をした雨がいた。その瞬間、晴人の中で何かが弾けた。
「ああ、そうか・・・・・そうなのか」
もう誰も守れないと思っていた。もう守る気などないと思っていた。それは無意味で、何の価値もないことだと思っていた。腕っぷしが強くても病気には勝てない。病魔に侵された恋人を救うことも出来やしない。守るなんて出来もしないことはする意味がないし、言葉にすることも許されないと思っていた。だからこの戦いは自分が無我の境地に至るためのものだと思っていた。なのに、結果として勝手に体が反応することはなく、これまで通り見て、読んで、動くのみ。思考と動作が一致したのは今だけ。とっさに彼方を守ろうとした、その時の動きは境地ではないが、その領域に至っていた。
「これが真理か・・・・璃維、お前がくれた答えなのか?」
噛みしめるようにそう呟いた晴人が顔を雨に向けた。自分を見つめるその表情は穏やかで、そして信頼がある。晴人は必ず助けてくれる、そんな顔だ。
「そうか・・・・・俺には、まだ残ってたのか」
心の中でそう呟いた晴人が自分を睨む男に視線を向けた。
「貴様は一般人を装った戦闘狂だ・・・・殺人狂の俺と変わりはない」
晴人の目を見て、そしてその表情を見た男がそう言葉を発する。晴人は笑っていた。全身から立ち昇る鬼気を発しながら。
「ああ、こいつらを守るために、俺は戦う」
「出来ないよ、それ」
「出来る、今の俺なら」
「その前に殺す」
「お前も死なないように気を付けろ。俺も本気になるから」
「へぇ・・・・本気になるのはいいけど、俺を殺せるのかい?」
「ああ、木戸無明流の本来の戦い方をすればな・・・・」
聞きなれないその流派だが、どこかで聞いた気もする。
「彼方、あと3分ぐらい我慢してくれ」
「あ、おう」
咄嗟にそう返事をしたが、果たして3分で倒せるのか。
「大きく出たな」
「ちょっと多めに余裕を見ただけだ」
「ほざきやがって」
「いくぞ殺人鬼!死ぬなよ?」
「ふざけるなぁぁぁ!」
そう言い、男がこれまでにない速度で迫りくるのだった。
*
喪ったものは大きい。愛していた。喧嘩もした。仲直りをした。キスをした。抱きしめ合った。体を重ねた。そんな思い出も経験も、全てを失った。抜け殻になり、この世の全てを否定した。生きる意味を失い、死にたいとしか思えなくなった。だが、約束がそれを邪魔する存在となった。生きて欲しい、また誰かを守れる人であってほしい。別の誰かを愛して欲しいとも言われた。大好きで唯一で、絶対の存在が消えゆく中でのその言葉は残酷で、いじわるで、枷になった。どうして一緒に死なせてくれないのか、どうして彼女が死ななければならないのか、その問いに答えをくれる者はいなかった。だから泣いて、絶望して、そして死を願うだけの抜け殻になった。他人を拒絶し、誰にも好かれず懐かれず、孤独に死ぬ方向を選んだ。そのためにここへ来た、はずだった。自己主張の激しい彼方、優しさの中に儚さを持つ日向、他人を信じられない雨。そんな面々は顔を突き合わすことで変わっていった。彼方も、日向も、そして雨も、その存在がお互いに少しずつ、気づかない間に自分たちを変化させていったのだろう。何のためにあんなに泣いたのだろうか、何のためにここへ来たのだろうか、それすら忘れようとしているほど、この3人は自分を壊していく。今もそうだ、守る気などない。ただ、一生のうちで一度だけあの場所に、あの境地に至るだけでよかった。それが出来る唯一のチャンスだと思ったからだ。だがそこには至れず、領域に踏み込むこともなかった。何が正しくて何が間違いなのかもう分からなくなった。やはり自分はもうダメだ、そう思った矢先、思考と反射が同時に重なった。彼方に迫る刃を見た時にはもう体が反応し、即座に木戸の技、『鬼蓮華』が発動していた。しかも、相手を殺す気で。手加減などない、本気のそれは決まらなかったものの、彼方の命は救ってみせた。彼女は救えなかったのに、彼女との約束は守れている。その矛盾を嘆き、喜んでいる自分がいた。そして自分を見つめる雨の目は一点の曇りもなく自分を信じているものだった。
「結局、自分に残されたものは、それだけなんだ」
ようやく気付いたのはそれだ。璃維との最後の約束、ただそれだけ。それは枷であり、邪魔な存在であり、そしてただ1つの希望。だから戦うのだ、守るために。それに気づいた今、その領域に踏み込んでいる。結局、自分はその真ん中に立つ事はないのだろう。だが、それで十分だ。そこに立っているだけで守れるのだから。約束を、大事な人たちを。
*
下がっていただけの晴人が前に出ている。驚異的な反応で爪をかわし、反撃に転じている。互いに当たらない攻撃であったが、それでも目に見えて晴人が押しているのが分かる。強烈な鬼気は周囲にまで漂い、その顔は悪鬼の笑みを浮かべている。
「笑ってやがる・・・・なんて、笑みだ」
晴人が怖いと思う。他人を拒絶し、笑顔さえ捨てた男が見せるその満面の笑みは悪魔のそれだ。
「楽しそう」
彼方の意見とは正反対の言葉を雨が口にした。晴人を見つめる雨の表情は穏やかだ。今のあの晴人を見てどうしてそんな顔が出来るのか不思議でならない。
「あいつはきっと、もう大丈夫だよ」
それは誰に言った言葉なのか。晴人自身への言葉には聞こえず、横にいる自分に言った言葉のように思える。いや、それにしては少し違和感がある。穏やかな笑顔を見せる雨は笑みを浮かべて戦う晴人を見つめている。彼方には分からなかったが、今の言葉は彼を心配しているであろう璃維に向けられた言葉だった。彼は思い出したのだろう、約束を、その本当の意味を。どんなに自分で否定しようが、それは晴人の奥底にある信念だ。消せるはずもなく、忘れることもない。ただ、失くしたふりをしていただけ。だからそれを思い出した晴人は笑っているのだ。
「がんばれ」
そうつぶやく雨の口元を晴人が見ていたら、きっと驚いただろう。それは彼が愛した、忘れられない人と同じ優しくも慈愛に満ちた、そんな笑みであったから。