真理の自覚 1
朝っぱらからの急な呼び出しにため息をつき、玄関を出た晴人は同じように表情を曇らせながら出てきた雨と顔を見合わせた。呼び出した本人はまだそこにおらず、晴人は廊下の手すりにもたれかかるようにして白い雲がくっきりと映える青空を見上げるのだった。雨はそんな晴人の横に自然と並んで立ち、そこから見える景色をぼんやりと眺めている。ごく自然に寄り添う2人の空気感は恋人同士のそれと勘違いするほどだ。他人を拒絶する姿勢は続いている晴人だったが、雨、彼方、日向に対してはそれも薄く、特に雨に対してはそれを感じることがない。
「おう、呼び出して悪いな」
グループラインで呼び出しておいて遅れるこの男に閉口しつつ、雨はそのまま、晴人は手すりから離れてその男、彼方を見やった。突然の呼び出し、廊下に今すぐ集合といったふざけた文章に呆れた晴人、イラつく雨はそれでもその指示に素直に従ってここに立っている。彼方はここ最近の沈んだ表情ではなく、日向に告白される前のあの能天気な彼方に戻っていた。それにはどこかホッとしつつも腕組みをして睨む雨を見れず、いつもの無気力的な目をしている晴人に視線を合わせた彼方はわざとらしい咳ばらいを1つしてから本題に入った。
「あー、え、と、な・・・・今夜、その、日向に返事をする」
しどろもどろなのは恥ずかしいからか、それともまだ本気で答えを出せていない後ろめたさからか。とにかく何らの返事をようやくする決意を固めたその愚かしさに深々とため息をつくしかない雨に対し、晴人は鼻でため息をつきつつもまっすぐに彼方から目を逸らさなかった。
「でな、その・・・・お前らに立ち会って欲しい」
「なんで?」
実に不愉快そうにそう言う雨の言葉はもっともだ。さんざん待たせた挙句に1人で返事も出来ないなどヘタレ以外の何者でもないからだ。雨の言葉に頷く晴人を見てもその疑問は当然だろう。
「1つの決意表明なんだ・・・・俺は俺を変えたい。だから真剣に悩んだし、真剣にあいつの気持ちに応えてやりたいって思ったわけだ!だから、これからの俺を!俺たちを見て欲しいっていうその決意をだな・・・」
「OKするんだ!」
「意外な答えだったなぁ」
ここでハッとなった彼方は巨体をよろめかせ、片膝をついて崩れ落ちた。何故本人より先にここでこの2人に答えを伝えてしまったのだろう。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしつつどうにか平静を取り戻して顔を上げる。
「付き合うんだ?へぇ~、意外だったなぁ・・・・まぁね、日向ちゃん、可愛いし、尽くすタイプだし、一途だし、おっぱいも大きいしね」
雨のその何とも言えないニヤつきと言葉に再度床に顔を向けた。羞恥で顔どころか全身が熱く、起き上がることが出来ない。
「彼女の為にも一緒にいて、お前自身の中にあるかっこつけな自分を殺せ。あの子のために最善を尽くせばいいし、あの子ならお前に対して遠慮なく指摘もしてくれるだろうさ」
晴人のその言葉に顔を上げる。なんて良い奴なんだと思ったが、それは即座に否定された。さっきのいい言葉が台無しなほどに下衆なニヤつきが顔に出ている。こういう晴人は初めてなこともあって動揺しつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「で、いつ?」
この時にはもういつもの無表情に戻っている。さっきもそうしとけと思いながらも咳ばらいをして深呼吸し、気持ちを落ち着けてから2人を見つめた。
「今夜8時、焼き肉屋、だ」
「おごりでしょうね?」
「あほか!割りだよ!割り勘!」
「じゃぁ行かない」
「おまっ!晴人は来るよな?」
「お前のてんぱり具合を見たいからな。でも今日はバイトだ。少し早めに上がらせてもらって8時には店に行くようにする」
「そっか、そういう意味では面白いか・・・割り勘は気に食わないけど、しゃーない」
晴人の言葉に釣られてそう返事をした雨は時間までにスマホをフル充電し、こっそりと録画しようと企む。
「じゃぁ、俺たちは7時45分にこの下で。日向にはみんなで飯とだけ伝えてある」
「ほうほう、了解。じゃぁ私、大学行くからこれで」
「俺は昼からだから、のんびりする」
さっさと部屋に戻る雨に手を振りつつ、ドアノブに手をかけた晴人のその手首を掴む彼方。とっさとはいえ、以前とは少し違ってきている晴人の手首を掴むこの彼方の実力の高さを見せつけられた格好になったせいか、驚いた顔をする晴人。とっさの時には染みついた回避能力が働くものだが、それよりも彼方の動きが速かったのだから。
「お前は雨とどうなんだ?」
小声になる彼方に成長したなと思う晴人だが、その愚問に答える気はない。
「毎日飯作りを一緒にやってんだ、付き合ってんだろ?」
一緒にご飯を作ると付き合っているという公式にうんざりしつつ、そっと掴まれていた手を離した晴人は大きなため息をついて呆れ顔で彼方を見やった。
「師弟関係なだけだ。けど、あいつはもう十分成長したし、もうこの関係も終わる」
「そうなの?進展なし?」
「進展もくそもないだろ?互いに恋愛感情もないんだし」
その言葉にがっかりした顔をした彼方だが、どこか胸に違和感を覚える晴人がいる。何故かはわからず、そのまま部屋に戻った。さすがにもう教えることもなく、そろそろ潮時だと思っている。ちょうどいいから今夜の会でそれを雨に告げようと思うものの、やはり何かが胸の奥で引っ掛かっていた。それを気のせいだと決めこみ、そのままテレビをつけてチャンネルを変えていく。今日もまた連続皮剥ぎ事件のことばかりだ。うんざりした晴人は適当なチャンネルでリモコンを置き、キッチンで朝食の準備を始めるのだった。
*
ここ最近は充実しているせいか、大学でも友達と会話を弾ませ、雰囲気も柔らかい雨は男女を問わず注目を浴びるようになっていた。元々美人で愛想もいいのだ、その愛想の良さが前に出ている今は他者からの好感度も高い。かといって必要以上に注目されては過去の掘り返しがありそうで怖いと思う自分もいる。しかしそれは雨を苦しめるほどではなかった。全てを受け入れてくれる人が1人いる、それだけで雨は自信をもって生きていられるのだから。仲の良い友人と昼食を終え、友人は講義がないために帰っていったが雨は午後からも講義がある。教室ではなくキャンパス内のベンチに座ってスマホをいじる中、やはりニュースで最初に目にするのはあの皮剥ぎ事件だ。来週には真宙と杏珠が来ると聞いているだけに少し心配になってはいた。2人とも常人ではない強さを持っていると聞かされているが、相手は得体の知れない能力者だ、心配にもなろう。なのに晴人は平然とし、あの2人を狙ってくれれば事件は解決するだろうとまで豪語するほどだ。兄としてそれはどうなんだと思いつつも真宙には来るのはいいが気を付けてとラインをしておく。すぐに大丈夫だよと返事が来るのもまた木戸兄妹らしいと思う。ため息をついた雨が急に陰になった視界に顔を挙げれば、そこにはニヤついた見知らぬ男が立っていた。
「氷雨あがる、だよな?」
やっぱりかと思う雨はそう言う男を無視してスマホを操作する。以前の自分なら震えていただろう。
「何か?」
「へぇ、認めるんだ?」
「何かって聞いただけ」
「とにかく、金出すから俺ともさ、いいだろ?」
「そんな大金あるの?ああいうのいいギャラしてるらしいよ?あと、録音してるから下手なこと言うと脅迫罪とかになるし、名誉棄損にもなるよ?」
「開き直りかよ?」
「事実を述べているだけ」
「なんだよオメー?」
「なんかこの人、お金で私を抱こうとしてます!」
「ち、ちげーよ!こいつ、元AV女優なんだよ!だから!」
「だからそれを脅迫のネタに?こわーい!何この人、怖い!」
大げさに身震いしつつ身を守る恰好を取る雨の大声に周囲がざわつき出す。
「確証もないのにこんなところで大声でAV女優だろうとかなんとかって・・・・怖い!」
目に涙を浮かべる雨に女性たちが集まり、男たちが雨に迫っていた男を取り囲む。
「こ、これ見ろよ!こいつだろ?どう見ても」
「似てるけど、確認した?本人は?」
「認めるわけねーだろ、そんなの」
「それってヤバくない?」
スマホの画面を見せる男の言葉に女性たちもヒソヒソと話ながら侮蔑の目を向ける。怯えるフリをする雨を立たせ、その場から離れた位置に向かう女性たち。男たちはスマホの画面と雨とを行き来させ、それでも確証は得られずに否定も肯定もしなった。
「たとえ本人だとしても、それをネタに脅迫?」
「やばいな」
「こんな場所でする?」
「警察案件じゃね?」
様々な言葉に男が恐怖する中、とうとう大学の関係者がやって来る。そうして男と、女性たちに支えられた雨も大学内の守衛事務所に連れて行かれた。教授や関係者が事情聴取する中、雨はどうするかを悩む。ここで出演していたことを明かせば退学になるかもしれないし、今後もああいった男が迫って来る可能性もある。
「出演していたのは事実です。お金が必要でした。今はもう当然ながら出ていません。それは調べて頂ければわかります。退学の場合はなるべく早く処分願います」
退学になるかもしれないが、今後もこんなことが続くならと全てを告白した雨に対し、対応してくれた関係者の1人が優しい口調で口を開いた。
「今現在の事実関係を確かめます。それがクリアされれば問題ありませんよ。過去の不祥事やそういった経歴で処分するような場所ではありませんから、ここは」
どうやらこういうことはちょくちょくあるようで、都度そういう対応をしているらしい。雨はホッとし、ここで事実をちゃんと言えた自分を褒めてあげたい気持ちになった。そうさせた晴人にも礼を言いたい。晴人がいなければ今でもその過去に怯えて受け入れることが出来なかっただろう。
「まぁ、そうですね、一週間ばかりでしょうか。しばらくは調査待ちということを周囲に告げて下さい。本当に今はもう出ていないなら、事実無根だと言い張ってもらって結構です。特定する輩もいるでしょうが、大学としてはあなたがその方向で嘘をつこうが構いません。現状がどうかが焦点ですので」
その言葉に一礼し、軽い事情聴取の後で解放された雨は見知らぬ自分を助けてくれた女性たちがまだそこで待っていてくれたことが嬉しかった。色々と声をかけられ、嬉しさで涙があふれる。それを酷い仕打ちを受けたのではと勘違いする女性たちを制し、雨は大丈夫だと、事実無根であることを告げたと話た上で泣いたのは嬉しかったからだと素直に言葉にした。一緒に涙してくれる女性たちに支えられて食堂に向かった雨は人の温かみに触れられる今の自分を幸せだと思うのだった。
*
見上げる空に太陽がある。太陽として空から見ていると言った璃維の言葉はずっと晴人の中にある。そんなところから見ていないで目の前に来てくれと願うことばかりの毎日だが、ここ最近はその言葉を受け入れつつある自分もいた。雨や彼方、日向の変化を目の当たりにした結果なのかもしれない。感化されて自分も変化しているのかもしれない。それでもいいと思う自分を嫌悪し、受け入れている。矛盾する今の感情の中で、何故か璃維を感じている。今までにないその感じに戸惑いながら駅に向かう晴人は一瞬だけ鋭い視線を感じて振り返った。誰もおらず、何もない。しかしさっき感じた視線は悪意に満ちていた。何かを物色するかのようだった視線の主を探すが、やはり何もなかった。気のせいではない。だからこそ不気味だ。
「気のせいと思いたい、な」
そう呟いて改札をくぐった晴人を見つめる視線は近くの小さなマンションの一角から出ていた。
「よく気付いたな・・・・なかなか勘がいい者もいる、か」
苦笑じみた声でそう呟いた男はそこから見える景色を堪能し、やがて姿を消すのだった。