真昼の満月 2
川面の反射がまぶしいと感じている。それはこの土地に来て、そして長くこの川で釣りをしていて初めての経験だ。やや目を細め、緩やかすぎる流れの中で微動だにしない浮を見つめている晴人はこのまぶしさの意味を考えてみるが、途端にそれはどうでもよくなった。だいたい、この釣り自体もただの時間潰しなのだから。家にいたら生きるための何かをしようとする、だからここでこうしているだけのこと。食事を作る、掃除をする、片付けをする、そんな生きるという行為をしたくなくてここに来ているだけだ。思考もなく、ただ浮を見つめているだけのはず、だが、ここ最近は考え事をすることが多くなった。雨のこと、彼方のこと、日向のこと。皆それぞれが抱えている問題が頭の中で反芻される。
「くだらない」
時折こうして一人愚痴るが、また同じことを考える、それの繰り返しだった。他人などどうでもいいはずなのに、なのにそういうことを考える自分を受け入れ始めている。それは、何故か。
「ぜんっぜん釣れてないじゃない」
「さっき来たところだしな」
振り返らない晴人に小さく微笑んだ雨はその隣に立った。気配で誰かはわかっていたのだろう、だから雨はまぶしそうにしながら川を見つめているだけだった。対する晴人も雨が来たことは足音と気配で察している。
「何が釣れるの?」
「フナ、とか」
「釣ったらリリース?」
「食えないからな」
「それは残念・・・・海が近ければよかったのにね」
「そうなると毎日が魚料理でうんざりする」
その言葉に声を出して笑う雨を見上げ、晴人は肩をすくめた。ここ最近の雨は変わったと思う。いや、自分もか。それがどこかイライラとさせるものの、受け入れようとしている自分もいる。だから最近、自分が自分でないような気分になっているのだろう、そう分析できた。
「じゃぁここが一番ってことね」
そう言いながらしゃがむ雨を見ず、相変わらずの浮を見つめた。
「引っ越そうかと思ってる」
「そうなんだ」
本気とも冗談とも取れないその言葉を、雨はすんなりと受け止めている。
「ここにいると俺は・・・・」
「元の自分に戻っちゃう?」
先に答えを言われて黙り込んだ。ここにいればきっと自分は生きたいと思うだろう。死にたくても死ねない、いや、いっそ惰性に生きてそのまま死ねたら、そう思って生きているのに。
「じゃぁ、その前にさ、料理教えてよ」
「独学で学べよ」
「上達しないから頼んでる」
「食えるものなら、それでいい」
「将来、私より料理が上手い旦那さんなんて、なんか癪だもの」
その言葉にゆっくりと雨に顔を向ける。雨は何故かニヤニヤしている。
「今さ、自分のことかと思ったでしょ?」
「いいや」
「嘘ばっか・・・・この自惚れ屋」
ため息も出ず、晴人は川に目を戻した。雨はニヤニヤを消さずに立ち上がって川べりに近づく。ここ最近の晴人の変化を感じ取っている。だからこそ自然にいたいのだ。晴人にそれを強く意識してほしくないから。
「煮物とか、苦手なんだよね・・・・すぐに濃くなったり、薄くなったり」
「そこは自分の好みでいいだろ?」
「そうだけどさ、旦那さんの口には合わせたい、そういう女心もあるんだよ」
「自分の味に染めればいい」
「彼方だったらそう出来そうだけど、どっかの死にたがりはうるさそう」
「かもな」
「だからさ、いい味加減を知りたいのよね」
「俺が教えると・・・・・」
そこで言葉を飲んだ晴人を見た雨の表情がまたもニヤニヤしたものに変化した。
「あんた好みに染まりたい女心」
この時の雨の笑顔は今の晴人にしてもドキっとするほどの愛らしさを見せていた。だが晴人はそんな心の揺らぎを決して表には出さない。だからため息をつき、竿を手に持った。そのまま引き上げるようにして針を
回収すれば、餌がなくなっていた。
「食われてるね」
「引いた感触もなかったんだけどな」
「多分、メスにやられてるね」
「決めるなよ」
「なんだかんだで、あんたは女性に弱いんだよ」
そう言ってケラケラと笑う雨に再度ため息を漏らし、片付けを始める。こういう会話を楽しんでいる自分を自覚せずに片付けを終えた晴人はちらっと雨を見てから歩き始めた。それが嬉しい雨は自然と並んで歩きだす。ちゃんと行くぞと合図をくれる、その変化が素直に嬉しい。日向も言っていたが、晴人のこの変化は大事にしたいと思っている。変に意識させずにいきたいだけだ。きっと晴人も自身の変化には気づいていると思う。だからここを離れると示唆したのだろうから。
「で、どんな料理を?」
不意にそう問われて驚きながらも考える雨は自分が食べたいものと定番のものが一致し、なおかつおすそわけで一番美味しかったものが頭に浮かんだためにそれを言葉にした。
「肉じゃが」
「定番だな」
「あんたの料理で一番美味しかっただもん」
「まぁ、そうかもな」
「だいたい、何であんなに上手なわけ?ご両親も、妹もいるのに、なんで料理を?」
そう言われ、一瞬だけ何かを考えるような気配を見せた晴人だったが、すぐに口を開く。
「ウチは共働きだ。親父はサラリーマン、おふくろはケーキ屋をしてる。だから、真宙はともかく、7つ下の弟の面倒は俺と真宙が見てた。その結果、昼飯とかを作ってるうちにこうなった」
「あー、真宙ちゃんが言ってたなぁ・・・・弟さんがいるって」
「天広は真宙にべったりだからな」
「お姉ちゃん子なんだ?」
「甘やかしてくれるからな」
その言葉に苦笑する雨を見ず、晴人は少ししゃべりすぎたと口を閉ざした。それを雰囲気で察した雨は話題を料理へと戻す。
「竿を置いたら食材買いに行きましょう」
「わかった」
それだけで満足する雨を横目で見つつ、今の自分を嫌悪する。それは馴れ馴れしくなった自分に対するものか、それとも、死にたいと思っている自分に対するものか、それはもうわからない。
*
廊下を進むだけでいい匂いが空腹を刺激していくのが分かる。甘そうな香りは肉じゃがか、そう連想した彼方はおすそわけを期待した自分を踏み留めた。何故ならば、この匂いの元は隣の部屋、つまりは雨の部屋から漂ってきているからだ。彼方は抜き足気味に近づくと、小さな声で会話するその部屋の窓の下に身を滑らせる。
「濃いな」
晴人の声にビクッとするのは自然なことだ。ここは雨の部屋、そこから聞こえてくるのは晴人の声。それはすなわち、2人で仲良く、キャッキャと料理をしているということだ。
「ど、どうなってんだ?」
心の中でそうつぶやき、動揺する自分を抑え込んで耳をそばだてた。
「え?そう?私的にはドンピシャだけど」
「平均的にいっても濃い方だ」
「んー・・・ウチの味付けって濃いんだ」
「もう少し薄い方がいいと思うが」
「えぇ・・・ってか、あんたは薄口派?」
「普通だ。さっきも言ったけど、これが濃いんだよ」
「・・・・・じゃぁ、次は少し薄めにしてみる」
「少しじゃなく、結構薄めにした方がいい。それぐらいで普通になる」
「そうかな?」
そういう会話を聞き、どうやら晴人が雨に料理を教えていると判断出来てほっとする。だが、それも次の会話を聞くまでだったが。
「でもぉ、やっぱこの味の染めたいよね・・・あんたもこの味に染まってよ」
「お前と結婚したら早死にしそうだ」
「あら、死にたがり、願ったり叶ったりじゃん!明日にでも婚姻届け、もらってくるよ」
思わず立ち上がった彼方と、その気配にそっちを向いた雨との視線が窓越しにぶつかる。微笑む雨、引きつる彼方。そのまま彼方は逃げるように自室に戻った。フラれた自分が再度落ち込む中、絶望が波のように押し寄せるのをどこか他人事のように感じていた。そう、自分はフラれたのだ。雨が晴人を好きなのも知っている。ならば、晴人はどうなのだろう。他人を拒絶していたあの晴人が雨に料理を教えている。それはもう答えなのだろう。
「結局・・・・・そうなるのか」
激しく落ち込む彼方は晴人のように女性を拒否しようと決意する。惚れやすい自分をどうにかする、そういう思いでそう考えるが、どうせ長続きしないとも自分の中の自分が笑っている。
「どうしろっての」
床にうずくまる中、愛されたいという気持ちが前に出る。愛して愛されたい。だからまず愛するのだ。なのに、晴人は真逆のことを言っていた。誰かに愛されろ、と。
「詭弁だ」
あの日の雨の顔を思い出し、ふらふらと立ち上がった彼方は鍵もかけずに部屋を出て、そのまま川沿いをゾンビのような動きで歩いていくのだった。
*
その日から雨に料理を教えることが多くなった晴人だったが、明確な変化はない。以前よりかは会話も増えて雰囲気も和らいでいるものの、それでも根本にある死にたいという願望が薄れているようには思えなかった。雨にしても、そこを変革させるのが目的ではなく、あくまでも自身の料理の腕の向上を目指したものだ。副作用的に晴人の変化を望んでいる部分があるが、それは晴人が自分で解決しなくてはならない問題だと思っている。自分が過去の自分を受け入れたように。それでも少しの変化は嬉しく感じる。そして上達している料理の腕も。
「焼き加減は問題ない」
「でしょ?なんか自信ついてきたなぁ・・・・ね、卒業したら2人でお店しよっか?」
「店、ね」
「お母さん、ケーキ屋なんでしょ?ノウハウはあるじゃん?」
「どういう発想なんだか」
苦笑する晴人を見て微笑む。こういう些細な変化も嬉しいのだ。
「まぁ、でも、確かに腕は上がったと思う」
「これでいつでも結婚可能。明日にでも婚姻届けを貰ってこようか?」
「ああ、そうしろ。んで彼方にサインしてもらえ」
「保証人ね」
「夫としてだよ」
こういう気さくな会話が出来るようになったことが一番嬉しいと感じる。そしてそういう変化に気づいていない晴人もいい傾向だと思えた。テーブルの上に料理を置いて対面に座ることも自然になった。本日の夕食は焼き魚に煮物、そして野菜炒めにお味噌汁といったシンプルなものだ。2人でこうして夕食を共にすること2週間、そういえば彼方と会う機会がなくなっていることに気づいた雨の表情が少し曇った。
「また、か」
テレビを見ていた晴人がつぶやき、雨はぼんやりとテレビに目をやる。若い女性の皮を剥ぎ取る殺人者のニュースは増えるばかりで減りそうもない。警察の対応も非難されているが、この監視カメラの多い世の中で一切の気配を殺して犯罪を重ねる犯人が特殊なのは雨にも理解できていた。
「今回は遠い場所だけど・・・・・一貫性がないだけに怖いわね」
「そうだな」
何かを考えるようにしている晴人を見つつ味噌汁を飲む雨は事件に興味を持つ晴人のその心情を推し量ろうとするも不可能だと悟った。
「どういう人物なんだろうね?」
なんとなしに口から出た疑問だ。誰にも何にも見つからずに短時間で全身の皮を剥ぎ取って去るなど、人として可能なのかと思う。しかも針のようなもので心臓を一突きして殺害した後に皮を剥いでいるという奇妙さだ。
「人であって、人でない存在、だろうな」
「何それ」
「昔はいたらしい、特殊な能力をもった、変異した遺伝子を持つ人間が」
「今は?」
「減ったみたいだな・・・・むしろいなくなった、に近いらしい」
「へぇ・・・」
何故そんなに詳しいのか、それは聞かない。聞けば黙ると理解しているからだ。そう、今の雨は誰よりも晴人を理解している。そこに愛があるから、ではない。自然と知りえたことだ。こうして料理を作ることもそうだし、一緒に釣りをするようになったこともそうだ。食材を買いに出かけること以外の、デートらしいことは一切ないものの、それでも晴人という人物を理解できていると自負している。
「遭遇したら、倒してね」
「言ったろ?無理だ・・・・俺はもう誰も守れないって」
「信じてる。絶対に守ってくれるって」
強い目でもない、意思もない、あるのはただまっすぐな気持ちだけ。信頼、ただ1つ。
「この辺に来るとは思えないけどな」
「それならそれにこしたことはないけど」
「何にせよ、このまま行くと特安が動くだろうし、そうなれば早々に解決するはず」
「特安?」
聞きなれない言葉に首をかしげるが、答えを期待したわけではない。それは無駄な期待だ。だが、今日の晴人はその期待を裏切った。
「特殊な事件を扱う特殊な部署だ」
「そんなのあるんだ?」
「まぁ、な」
以前にもそういう話を聞いた気がするが、雨は素直にうなずいた。晴人にしてみればもっと突っ込んで聞いてくるかと身構えていた部分もあって拍子抜けしたが、ホッとしたのも事実だ。雨は魚を食べつつ次に切換った放火のニュースを見ていた。
「結局、こいつが今の俺を一番理解してるってことか」
心の中でそう呟き、それにどこか満足している自分に驚く。それと同時に納得している自分も自覚する。だから自然と苦笑が漏れた。そんな晴人を見て首を捻るような仕草を見せた雨に真顔に戻ると、お茶の入ったコップに手を伸ばした。
「何の笑い?」
やはりそうきたかと思う晴人はここは素直に言葉に出すことにした。
「俺の一番の理解者になってるなと思って」
「ああ、そうかもね」
そう言って微笑むとテレビに顔を向ける。こんな雨だから今の自分が変わっているのかもしれないと思う晴人は、それを受け入れている自分に違和感を抱いた。その違和感もどこか心地いい。対する雨はさっきの言葉にドキドキしつつも表に出さないように努めるのに必死だった。愛されたいと思うが、今はそれは後回しだ。今の雨の目標はただ1つだけ、晴人に生きたいと思わせること、だたそれだけだった。