0.終日、全ての始まり
遥か昔、記された歴史が薄れてしまうほど遠い昔。
ある国の空に穴が開いた。
国を飲み込んでしまいそうなほど大きなそれは、目の前の全てを奪った。
突如として現れたそれは、目に付くもの全てを消し去った。
今もなお存在するそれは、魔の怪物を叩き起こした。
————『終焉(第一章一節)』ルイス・カルバーナ 著
あの事件が起きたのは、俺がまだ小学校高学年の頃だった。その日は家族揃っての旅行の日で、俺はいつにも増して上機嫌だった。
待ちわびた旅行。だから、目的地に着く前から楽しくて仕方がなかった。あそこに行きたい。ここにも行きたい。シャトルバスの車内で家族とそんな会話が絶えなかった。
しかし、家族との楽しい思い出はそれが最後となった。
目的地に行く最中、俺達が乗っていたバスが山道で突然横転したのだ。ぐらりと揺れて車体が傾きバスは制御不能に陥る。そして、そのままバスは道を外れ森の中へ飛び込み、転がり落ちて激しく炎上した。
事故の衝撃で車外へと放り出された俺は焼けるような熱さに意識を取り戻した。ズキズキと傷む頭を押さえながら起き上がると、目の前は煌々と炎が燃え盛りその火の手が周りの木々へ手を伸ばしている。
茫然とへたり込む俺は目の前の炎の中に一つの人影を目にした。
生きてる人?俺はそんな淡い期待を胸に抱いてその人影に目を凝らす。すると、それはゆっくりと移動し炎から抜け出した。
始めこそ炎が逆光となって良く見えなかったが、次第に俺の目はその姿を鮮明に捕らえる。そして理解する。
そこに居たのは〝人間〟ではなかった。
外見は黒いドレスに身を包んだ一人の女性。一見して普通の人間に見えるが彼女の背中には一対の蝙蝠の様な羽が生えており、額からは一本の角が天に向かって真っすぐ伸びていたのだ。その異常な生物を目にして俺はそれが何なのかすぐにわかった。
〝悪魔だ〟
邪悪な魔の力に蝕まれた生物の成れの果て、人を貪り食らう魔の怪物。それが今、俺の目の前にいるのだ。
俺は怖くなって走り出した。草木をかき分けて少しでも奴より遠くへ、遠くへ。裸足の脚で地面を蹴って森の中を疾走した。肺が張り裂けそうなほど無我夢中になって木々の間を走り抜けた。枝や棘で体中が傷だらけになりながら、ただひたすらに——
・・・だが、俺はある異変に気付く。
自分の身体が、変なのだ。
なんか妙に走りにくいというか、息切れしやすいというか、何となく・・・身体が重い。あと、視線もなんか少し低い気がした。
俺は一度立ち止まり自分の身体を確認した。そして、驚愕した。〝気がする〟のではなく、本当に低いのだ。自分の身体がほんの数時間前よりも縮んでおり、身体も手も腕も足も以前よりも細く小さくなっている。
しかも、妙に胸に違和感があるのだ。何となく少し重いような、少し胸がヒリヒリするような・・・とにかく変な感じがした。
俺は恐る恐る自分の手をその胸に当てる。すると、信じられない事に少し膨らみを感じるのだ。俺はすぐに服の隙間から自分の目で確認すると平らだった胸が本当に膨らんでいた。
動揺から僅かに漏れる自分の声も自分の物とは思えない様な高く綺麗な声がする。そして、俯いた視界の端からさらりとした髪が垂れた。
情報量が多過ぎて脳が処理しきれなかった。一体自分の身体はどうなってしまったんだ?自分の状態に困惑し動揺していた俺はまさかと思い恐る恐る下腹部に手を伸ばした。
無い。今までついていたものが無くなっている。
呼吸が更に荒くなり汗が至る所から溢れ出た。こんなのは嘘だ、そんな事ある訳がない。そう自分に語り掛けても体の異常が俺の意識を現実へ引きずり戻す。
俺は偶然にも近くにあった川へ歩み寄る。川は月明りに照らされて流れる水面に周囲の景色を反射し映し出している。そこに俺が顔を覗かせると水面に映り込んだのは自分の顔ではなく自分と同い年くらいの一人の少女だった。
俺は水面を掻いた。
俺の手を濡らし白波を立てて揺れる水面は、その波紋が無くなってもまた同じものを映し出す。何度、何度水を掻いてもそれは何も変わらなかった。白い肌に長く黒い髪、ルビーの様な深い赤色の瞳をした綺麗な女の子。その子が、今日俺が着ていた服を着ている。
信じられない。信じたくない。こんなのは嘘だ。こんなのは嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだうそだうそだうそだウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダダダダダダダダダダダダ——
——コンナコトハアリエナイ。
その後、俺は騒ぎと聞いて集まってきた地元の住人に保護され、いろいろと事情を訊かれながら体中が傷だらけということもあって近くの病院に運ばれた。
自分の身に一体何が起きたのか全く理解できないまま、俺は家族を置いてその大人達に連れていかれる事になる。
突如として起きたこの事件で俺を除く乗員乗客の全員が亡くなった。・・・その中には、当然俺の家族も含まれている。
本当なら楽しい思い出の日になるはずだった。なのに、それは一夜にして悪夢に変わった。一生忘れられない最悪の日になった。
そして、悪夢は更に続く。
事件で受けた傷が癒えてきた頃、その事件を捜査していた警察は何故かこれを運転手の過失よって生じた転落事故だと報じた。あの悪夢を、ただの事故として処理をしたのだ。
理解できなかった。あの夜、俺の家族と三十名近くの人があの悪魔に殺されたのだ。なのに、それが『ただ事故だ』なんて納得がいかなかった。
当然俺は悪魔の仕業だと主張した。だが、そんな俺の声は警察の耳には届かなかった。
それもそうだろう。子供の言うことなのだ、大人はそんな事を信じる訳がない。それに——
何より俺は、〝あの時家族と一緒に死んだこと〟になっているのだ。
何処からも俺の遺体は見つかる訳はなく、事件発生から消息を絶っているのだ。家族と一緒に亡くなったのだと判断されるのも道理だろう。
一応、捜索は行われ俺自身も本人だと主張した。だが、性別も外見もまるで別人のようになってしまっているが為に同一の人物と認めてもらえなかった。僅かに残った俺の親族でさえ俺の言葉を聞くなり「不謹慎だ」と言って俺を突き放した。つまりは、『死人に口なし』なのだ。
それならと思って俺は悪魔が起こした事件の捜査や悪魔討伐をやっている組織、『教団(悪魔対策委員会及び悪魔討伐団統括本部)』の日本支部にも助けを求めた。
だが、どういう訳かそこでも同様に相手にしてもらえなかった。
言葉にならなかった。
本当なのに、嘘なんかじゃない。これが真実なのに、誰も聞いてくれない。
誰も俺の言葉を信じない。誰も俺を助けてくれない。誰も、俺を見てくれない。
死んでないのに、俺はまだ生きているのに、誰もが俺は死んだのだと口をそろえて言った。
・・・俺の中でプツンと何かが切れた気がした。
その後、俺は誰かもわからない人達の家庭をたらい回しにされた。そして、その先々で名前を付けられては不気味な俺に愛想が尽きて捨てられる。
そんな事を繰り返し、付けられた名前を覚えるのも億劫になるほど家を転々とした。これまで県を何度跨いだかなんて覚えてない。ただ、その当時の記憶が決していいものではない事だけは確かに覚えている。
家族を失い、身体も失い、自分が何者かもわからなくなって、生きている意味も気力も、俺は見失った。
そんな中で俺は偶然にも昔の幼馴染に巡り合った。その人は変わり果てた俺に気さくに声を掛けて体調を気に掛けてくれた。俺はもう自棄になってその彼女に全てを話した。
信じてもらおうなんて思わなかった。信じてくれるなんて思えなかったから。ただ、何もかもどうでも良くなって捨てるように真実を明かした。
すると、彼女は俺の言葉を真摯に聞いて、不思議なことに彼女はそれを信じた。更にはこんな俺を彼女は助けてくれると口にした。
夢だと思った。これまで幾度となく真実を口にしたが誰も信じてくれなかったから。
その後、彼女に連れられるまま身元を引き取ってもらうことになり、彼女の必死の看病のおかげで俺は徐々に生気を取り戻した。
あの日、俺は全てを失った。悪魔に全てを奪われた。
なら、今度は俺が全て奪い返そう。
一つは自分の身体、二つは奴の命。
俺から全てを奪ったあいつをこの世から消去する。自分が犯した罪を命尽きるその時まで咎め続け、生きてきた事を必ず後悔させてやる。
幸か不幸か、あの事件で女になった影響なのか分からないが、どういう訳か俺は女性しか操れないとされた魔法を使えるようになっていた。
魔法、それは悪魔と同じ力。それが自分に宿ってしまったのは、この上なく忌まわしい事ではあったが、今はこれを最大限利用して奴に復讐しよう。そして思い知らせる。
俺の怒りを。俺の憎しみを。
その為に、今は生きよう。
——いつか復讐を果たすその日まで——