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月の砂漠に星が降る  作者: 琴月
星降る夜の章
7/7

一話

「はぁ…」


 シェイラはもう何度目か、数えるのが億劫になるほどの溜息をついていた。

 空はオレンジや赤の夕暮れが過ぎて、しっとりとした紫紺に変わろうとしている。木々の影が濃紺色に染まっていた。今宵、空に月は浮かばない。月に一度の新月夜なのだ。月光神がその姿を隠し、闇星神の力が最も強くなる日。

 シェイラは日長一日迷った末、一ページも頭に入らなかった本を置くとハンモックを降りた。先日キャラバンが訪れた際に買った絨毯を引っ張り出すと、泉のほとりで眠りにつこうとしていたラクダを起こす。


「悪いけど、ひとっ走り頼むよ」


 申し訳ない気持ちで鞍を付けると、大きな背中に丸めた絨毯を積んだ。

 ラクダに乗ると、向うのは南西にある高台だ。周囲を崖に囲まれているため一見登れないように思えるが、東から回り込んだところに緩やかな坂がある。星がよく見える、シェイラしか知らないお気に入りの場所だ。

 儚き星明かりは道を照らさない。それでも闇夜に慣れたラクダは、知っている道を迷うことなく進んだ。

 ラクダの背にゆられながら空を見上げると、そこは満天の星空。透明な空気に光が揺らめいて、まるで空にも海があるようだ。


「あっ」


 シェイラは思わず声を上げた。

 瞬きした瞬間、星が一筋流れ落ちていったのだ。

 ―――そう。今夜は年に一度の流星夜。天から星が流れる日だ。

 しかも今宵は新月。漆黒の夜空は、流れる星の煌めきを、いっそう美しく際立たせるはずだ。

 シェイラはこの流星夜を心待ちにしていた。高台にたどり着くと、絨毯をラクダの背から下ろして脇に抱える。ラクダはシェイラを下ろすと脚を折り、眠たげに首を丸めた。

 高台には、大きな岩がある。シェイラの倍…いや、三倍程の高さがある、巨大な岩。

 そのオベリスクのように高くそびえたつ岩の袂に絨毯を敷き、星を見上げることが、シェイラは好きだった。

 高台の上で寝転がると、まるで深い海底に背中をつけて、遥か高みにある水面を見つめているようだ。大小に輝く無数の星を、じっと息をひそめながら見つめている。ゆらゆらと穏やかな波にゆられながら…。

 それでもここへ来ることを躊躇ったのは、理由があった。

 ひらり、と。

 やがて天からは、流星とは異なる漆黒の煌めきが舞い降りる。シェイラの存在を歓迎するかのように、優しく…穏やかに。

 それは闇の眷属のうち、最も下級に属する者達だった。

 闇星神の眷属である『闇』とは、邪と異なる聖なる精霊。静謐なる夜の守り人だ。

 東の国で主神と崇められている太陽神。そして西の国の主神・月光神。闇星神は、三大精霊信仰が根付くこの大陸で、最も信仰する人間の少ない神だ。けれど闇星神が誰より優しく高潔な神であることを、シェイラは知っていた。この闇の欠片もまた、彼の意思を映したかのような優しさに満ちているのだから。

 けれどその優しさが今、何よりも辛い。

 だからこそ、シェイラは今日、ここへ来ることをずっと躊躇っていた。

 今日は流星夜。

 …一年で最も、闇星神の力が強くなる夜。

 星空の下に姿を現わせば、力に満ちた闇の精霊達がシェイラに囁きかけてくることはわかっていた。

 闇色の煌めきは、シェイラに気付くとその身を包むようにひらりひらりと舞い遊ぶ。ゆっくりと手を伸ばすと、その手に何かを伝えようと囁きかけた。…けれど。

 視界が濡れて滲む。


「すまないお前達…もう、私は…お前達の声が聞こえないんだよ…」


 彼等が何を言おうとしているのか。それをシェイラは知っている。

 主である彼の想いを、精霊達はシェイラに運んでくるのだ。逃げる彼女を追って、どこまでも。

 だからこそ、その言葉を聞くことが、辛くて、辛くて…。


 ―――自らの手で、耳を潰した―――


 もう…二度と、声が届かないように。

 あの時の痛みを、シェイラは一生忘れることができないだろう。身体も、そして心も焼きつくすかのような業火の苦しみ。

 けれど、そんな思いをして手に入れたのは、更に深い苦しみだけだった。

 なぜなら聴覚を失った今でも、わかってしまうから。彼等が何を言いたがっているのかが、手に取るように…。

 言葉よりも…なお深く。


「私は…愚か者だ…っ」


 シェイラは泣いた。嫌なことから目を背け、逃げ続けた結果がこれだ。

 耳を失ったシェイラに、闇達は変わらず語りかけた。ただ一途に言葉を伝えようとして…。酷い話だ。もう自分は彼等の儚い思いさえ聞くことができないのに。

 想いだけは、痛いほどわかってしまうのだ。


「もう、どうしようもない愚か者だ…!」


 ―――そんなことはない


 いたわるような声が、岩の裏から聞こえた。透明感のある、若い男の声。

 だが、音を震わせない特殊なその声に、シェイラは気付かない。

 いや、気付かないと声の主も知っているからこそ、沈黙を破ったのだ。もし自分に聞かれているとシェイラに知られたら、今度こそ彼女は命を絶ってしまうだろう。だからこそ、聞こえないと知っていた上で、彼は言葉を発したのだ。

 男は、例えシェイラに聞こえていなくとも、沈黙を守るつもりだった。

 けれど、彼女の血を吐く様な慟哭を聞いて、どうして黙っていられようか。



「今頃…父様はいかがされているのだろうな…」


 ―――お前を思って、今でも時折泣いておられるようだよ



 シェイラの哀しみに、男は寄りそうように言葉を重ねた。



「あの時私は、一体どうしたらよかったんだろうな…」


 ―――お前は少しも悪くなどなかった。…悪いのは、お前を追い詰めた私だ…


「あいつ…今頃もう、私のことなんか…忘れてるんだろうな…」


 ―――私の心は…変わらず、お前に捕われたままだよ…


「お前の想いが…怖かったんだ」


 ―――私も、…お前を失いたくなかった



「でも…こんなに後悔するなんて思わなかった…」


 ―――このまま、お前を遠くに連れ去ることができたら…



「天に、戻りたい…お前の元に…」


 ―――シェイラ…愛しい、私のシェイルドゥーラ…



「イザーク…逢いたいよ…」



 たったひとつの岩が、何よりも冷たく二人を分け隔てていた。

 やがてか細い啜り泣く声。男は、岩に額を押しあてて、ただひたすらに耐えていた。

 空にはいくつもの流星。

 それはまるでシェイラの涙のように、絶えることなく降り続けた。



***



 やがて泣きやんだシェイラは、ぐしぐしと服の裾で涙を拭くと、ふと背後に誰かの気配を感じて振り向いた。それはちょうど背にした岩の裏から感じる。

 ―――もしかして。

 シェイラの胸に、言いようのない期待と怖れが生まれる。

 なぜなら、ここはシェイラしか知らない秘密の場所。

 こんな何もない場所に獣は訪れない。人ならばなおさらだ。

 …ならば。

 シェイラは恐る恐る岩の反対側を覗いた。

 そっと首を伸ばすと、何かが息づく気配。心臓が早鐘を打つ。

 意を決して一歩踏み出すと、…果たして、そこにはひとつの影があった。

 ―――だが。


「…なぁんだ、お前か」


 シェイラの視線の先には、真っ黒な毛に包まれた巨大な獣。最近オアシスに現れる風変わりな狼だ。

 急に緊張が解けて身体の力が抜ける。へなへなと脱力すると、その場にへたりこんでしまった。ほっとした半面、寂しいような切ない思い。随分と期待してしまっていたらしい自分の思いを、シェイラは苦く笑った。

 シェイラは気配の正体が狼だとわかると、顔をほころばせて獣を絨毯の上に招き寄せた。狼は人の言葉がわかるのか、はたまた偶然か、シェイラの言葉に従うと絨毯にごろりとその巨体を横たえる。シェイラを襲う肉食獣はいないが、それにしても目の前のそれは随分と人間慣れしているようだ。シェイラは狼の目が穏やかであることを確認すると、その腹を枕に横たわった。

 狼の背に頬を擦り寄せると、艶やかで柔らかい毛並みにくすぐられる。


「寂しかったから、お前が来てくれて丁度良かった」


 シェイラは、いつもは言わない弱音を狼に吐露した。

 物言わぬ獣が相手だからこそ、誰にも言えない心の内を開けた。

 じんわりと暖かい体温は、シェイラの心まで慰めるかのようだった。狼に抱かれるように、シェイラは夜空を見上げる。

 きらりと、星がまたひとつ流れる。

 この優しい時ができるだけ長く続くよう、シェイラは星に願った。

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