二話
温かく乾いた空気。真昼の明るい日差しが目を焼いた。
眩しさに目を細めた後、遅ればせながらシェイラは気付いた。今、外は…夜だったはずだ。
(ここは…一体…)
違和感を覚えて顔の側面に手を伸ばすと、柔らかい耳朶に指先が触れてシェイラは驚く。耳は随分前に、聴覚と共に失ったはずだったからだ。確かめるように頭を探ると、甘く香る香油のついた髪。複雑に結われた髪は頭の高いところでまとめられ、残りは背中を流れていた。その髪を一房手に取り、シェイラはぎょっとする。
なぜならそれは、シェイラの髪とは似ても似つかない漆黒だったのだから。
慌てて窓の硝子に自分の顔を映し出すと、そこには褐色の滑らかな肌を持つ美しい女性の姿。黒い睫毛に覆われた、黒曜石のような瞳。シェイラは自分と同じ動きをなぞる鏡の女性に、それが紛れもなく自分の姿だと悟った。
見ると、いつの間にか裾の長いドレープの利いたドレスを着ている。首元には、重く感じるほど重ねられた幾連もの首飾り。
辺りを見渡すと、白く小奇麗に塗られた土壁に、大きく開いた窓。どうやら自分は誰かの屋敷の中にいるようだった。美しく装飾された絵画は、この家が裕福である証だ。恐らくここは、富豪か権力者の邸宅だろう。
シェイラがいるのは、玄関広間のようだった。天井の丸い吹き抜けから心地良い風が通り抜けている。眩しいと感じたのは、その吹き抜けを通って直接太陽の光が差し込むからだろう。玄関の大きな扉のドアノブを捻ってみるが、冷たいそれはびくともしない。
シェイラは吹き抜けの下に立つと、両手を胸の前に差し出して光を手のひらに受けた。太陽の光は暖かくシェイラの手を照らす。…しかし。
(この光は…違う)
シェイラはその光に違和感を覚えた。見た目も暖かさも太陽の光そのものだ。けれどその中には、いつもいつはずの煌めき―――精霊達の姿がいない。
(少し…浅はかだったな)
シェイラは店主の言葉を軽んじたことを、少々後悔していた。
にわかに信じられないことだが、他でもないページから出てきた腕に掴まれた本人である。ここが本の中の世界だということは、シェイラも既に理解していた。そしてこの姿が、登場人物を模した姿であろうことも。―――ただ、問題はシェイラを引きずり込んだ手の主の目的である。
たしかあの緑のカエル…ではない。ダリスは、罪人の魂がこの本の中にいると言っていた。
(この世界へ引きこんだ者が、何を考えているのかは知らないが)
―――このまま黙って立っていても、埒が空かない。シェイラはひとまず屋敷の探索をすることにした。
まずは一階からだ。
シェイラの想像通り、そこは随分裕福な家らしかった。いくつもしつらえられた部屋の中には、使用人部屋までもがある。だが人の気配はない。
厨房では、ぐつぐつといい香りをたてる鍋。裏庭には干しっぱなしのシーツ。客間には真新しく用意されたベッド。全て誰かがやりかけた途中で、その場を離れたかのようだ。けれどどこを探しても人の気配はない。美しい飾りタイルで彩られた廊下を抜け、まるで王宮のごとく美しいウェーブを描いた階段をあがる。
シェイラは二階東側の部屋で、ようやく人の姿を見つけた。
「…お前、ここの住人か?」
男は俯いた顔をゆっくりとシェイラの方へ向ける。
それは随分と美しい男だった。どこか影のある儚げな表情が、返って魅力的に見せていることは言うまでもない。長い睫毛に彩られた、漆黒の濡れた瞳。柔らかくウェーブがかった黒髪が、身にまとった白いシャツがよく似合っていて、まるでお伽話に登場する王子のようだった。
男はシェイラを見ると物憂げに沈んでいた顔を輝かせて、嬉しそうに微笑んだ。
「ライラ…!」
「ライラ?」
覚えのない名前を呼ばれて、シェイラは目を瞬く。
「心配してたんだ」
男は心底安堵した様子で、
「一体今まで、どこに行ってたの?」
愛しそうにシェイラに駆け寄った。
「心配も何も、お前と私は…」
初対面。そう言いかけてシェイラは悟った。今の自分のこの姿が、ライラという女性のそれであるということに。となると、目の前の男は…察するに、その恋人といったところか…。
「寂しかったよ…ライラ」
愛しい恋人を、男は腕に抱こうとした。それに気付いて、反射的にシェイラが男の手を払う。
パシンと鳴る拒絶の音に、男の顔が影った。
「…ライラ、どうしたの?」
「申し訳ないが…私はライラじゃない。人違いだ」
「何言ってるの?」
シェイラは困ってしまった。自分だって身知った相手に同じことを言われたら、戸惑うだろうからだ。けれど、
「私はシェイラだ。お前の知っているライラじゃない」
「でも、君はどこからどう見てもライラだ。…そのドレスだって、僕がプレゼントしたものだろう?」
「信じがたいのはわかるが…」
「嘘をつかないで」
「嘘じゃない」
押し問答になったシェイラに、男の声音が低くなった。
「…そんなに僕といるのが嫌なの…?」
その言葉には、わずかに怒りの色。
「違う」
「じゃあ、僕の傍にいて…」
男はシェイラの腕をきつく掴んだ。爪が食いこむほど力を込められて、シェイラの顔が微かに歪む。
「私に一体何を望むつもりだ…?魂か、それとも―――」
「何を言ってるのかわからないよ、ライラ。僕は君に傍にいてもらいたいだけ…」
「…」
二人はしばし黙したまま、じっと見つめ合う。
やがて男はふっと目元を和らげると、優しげな顔でシェイラに微笑みかけた。
「…ふふっ、今日のライラはちょっとおかしいね」
「―――そんなこと、これまでに何度もあっただろう?」
男は小首を傾げてしばし考えると、思い出したように笑って頷く。
「確かにそうだね」
その穏やかな笑みに、しかしシェイラは背筋に寒いものを感じる。
この世界の仕掛けに、彼女は徐々に気付きはじめていた―――。
***
宮殿のように広い浴室で湯浴みを済ませると、シェイラは若草色のイブニングドレスに身を包んだ。選んだのが男であるのは、言うまでもない。
夜になると、十人以上もかけられそうなテーブルに、食事が所狭しと並んだ。まるで王族のような食事だが、相変わらず使用人の影はない。伽藍のように広い部屋を、シェイラは落ち着かない気持ちで見渡した。
「食べないの?」
フォークに手を伸ばそうとしないシェイラに、男がいぶかしげな顔で尋ねる。
「少し具合が悪くてな…」
本当は違う。元々シェイラは、ほとんど食事を取る必要がないのだ。しかし体調がすぐれないと言っておけば多少この男に対して我儘も利くだろうし、早々に部屋へ戻って一人になることもできる。シェイラはそう考えた。
「お前、名前は?」
「そんなことも忘れちゃったの?」
驚く男に、しかしシェイラは薄く笑って、
「他ならぬお前のことだ。何度でも聞きたいのさ」
「…ふふ、今日のライラは面白いことを言うね。まるで本当に、記憶喪失にでもなったみたいだ」
シェイラは当面、男に話を合わせることにした。今は何より情報が欲しいからだ。ただ、男にとってはそれがゲームをしているように感じるのだろう。
テーブルに頬杖をつくと、カシムだよと言ってシェイラを愛しげに見つめた。
「カシム…。ここは、お前一人で住んでいるのか?」
「君と二人で住んでいるよ」
「…。この料理は、一体誰が用意を…?」
そんなことも忘れちゃったの?とカシムは恋人の罪を咎めるかのように、甘い目線で睨んだ。
「ここは魔法の家だよ、ライラ。僕が望めばなんでも出てくる。―――君が望めば、宝石だってドレスだって、いくらでも出してあげるよ」
「…なんだと?」
「君には、翡翠と真珠…それに深く澄んだサファイアが似合う」
そうカシムが言った瞬間。
ぱらぱらん…ぱらん…ぱらぱら…
音を立てて、天から大粒の宝石が降ってきた。見るとそれらは全て、カシムの言った通りの宝石達だ。シェイラはそのうちの一つを手に取って驚いた。…なんて緑の濃い翡翠。見るとサファイアも、そして真珠も、宝石商が涎を垂らさんばかりに喜びそうな一級品ばかりだ。
しかし。
「ドレスはそうだな…」
「私は何もいらない」
楽しそうに想像を膨らませるカシムを、シェイラは制した。手に取った宝石をテーブルに置いて、ため息をつく。
「前はあんなに欲しがったのに…」
不思議そうに首をかしげるカシムを、シェイラは険しい眼差しで見る。
カシムから情報を引きだしながら、ようやくシェイラはこの屋敷のからくりがわかってきていた。
だが、問題は脱出方法。…事態は思った以上に深刻だ。
「食欲がないのなら、食事はもう終わりにしようか」
「嗚呼、そうだな」
シェイラはカシムの申し出をありがたく受け取った。一人になれば、この屋敷を調べることもできる。―――だが、
「今夜は僕のベッドに来る?」
それはあまりに予想していなかったセリフなだけに、シェイラは一瞬頭の中が真っ白になった。思わず言葉が詰まって、しどろもどろになってしまう。
「いや、ちょっと…今日は、疲れている、から…」
思わず下手な言い訳をしてしまうシェイラに、カシムはくすくすと口元に手を当てて笑った。
「優しくしてあげる。ぐっすりと眠れるよきっと」
カシムはうっとりと微笑んで、秘密を囁くかのように言った。
これが普通の女性であれば、魅力的な彼の言葉に心を委ねてしまうだろう。けれどシェイラは知っている。この世界が、ある意図を持って作られた世界だということを。
シェイラは背中に怖気を感じながら、
「どうしても…今日は一人で寝たいんだ」
カシムは残念そうに一言、そう…と言った。
けれどそれ以上は追及する素振りを見せない。シェイラは安堵してほっと息をついた。
食事が終わると、カシムは名残惜しそうにシェイラを見つめつつも、部屋に戻っていった。カシムの部屋のドアが閉まったことを確認して、シェイラは屋敷の探索を始める。
まず、この屋敷から脱出するための入り口がないか探す。玄関扉はいくらドアノブを引いても微動だに動かない。中庭に出ても、敷地は全て高い塀で囲まれていた。二階の窓から塀の上へ飛び移れないかとも思ったが、外に出たと思った次の瞬間には二階の廊下に戻ってきていた。どうやら、この屋敷から一歩たりとも外へ出られない構造になっているようだ。
ならば、次にシェイラが探すべきは、この世界と外界を唯一繋ぐ“橋”。
確かあの緑色の魔物―――ダリスの尻尾が、本の中へと続いていたはずだ。ならば、この屋敷の中を探せば、その尻尾の先が見つかるかもしれない。それが今、こことオアシスを繋ぐ、唯一のかけ橋だった。
だが、いくら探してもそれは見つからない。シェイラは焦った。ありとあらゆるテーブルの下。ベッドの裏。タンスの脇。天井から窓の外に至るまで隅々目を通していくが、緑のぬめっとしたものなど、どこにも見当たらない。
仕方なく一旦部屋へ戻ろうとしたその時。
「どうしたの?」
廊下の奥から声をかけられた。
口元を見なければ相手の言葉が読めないシェイラは振り向くが、声の主を確認するまでもなく、この屋敷にはシェイラ以外に一人しかいない。暗闇の中にカシムが立っていた。影で表情はうかがえないが、口元だけが月明かりに浮かんでいる。
「探し物が見つからなくてな…今日は諦めて寝る」
シェイラは微かな落胆を滲ませて、言葉少なく答えた。用意された部屋のドアに手をかける。
しかし。
「僕の部屋は探してみた?」
カシムの声にはっとした。探していない唯一の場所があったことに、遅ればせながらシェイラは気付く。この世界が持つ意図を考えても、カシムの部屋にダリスの尻尾がある可能性は高い。
「部屋に行ってもいいか…?」
「もちろん」
カシムは暗闇に身をひそめたまま、笑った。