第十話 東雲って珍しい名字だけど、小山が普通って訳でもなくね?
「やっほー、春人、香織ちゃん。元気ぃ?」
長めのポニーテールを揺らしながら走ってくる美女、東雲恵梨香。俺の銀行の同期で、今は俺の勤務する岡本支店の隣の店、加山支店に勤めている女性だ。
「おす、東雲」
「おす、春人。こんな所で何してんの? デート? デート?」
「ちが――」
「そうです! デートです! だから東雲先輩? 早くどっか行ってくれませんかねぇ? 邪魔です、邪魔!」
否定しようとした俺の腕をぐいっと引っ張り、引っ付く様に自身の体を寄せる中川。慎ましいながらも確かにある胸の膨らみが俺の右腕に――じゃなくて!
「……うわー。事案だ、事案。えーっと、人事部の電話番号はっと」
「待て! 中川も離せ! そして東雲、お前は携帯を仕舞え!」
じとーっとした視線でこちらを見ながら、携帯を右手で顔の前まで持ってくる東雲。その視線とその携帯電話は怖すぎるので勘弁しろ下さい。
「……ほーんと、春人と香織ちゃん、仲良いわよね? いい加減で止めておかないと、その内マジで人事部にチクられるわよ?」
「現在進行形でチクろうとしていたお前に言われるとなんだかなーって感じだが」
「にゃはは。でもね、春人? 本当に店の子といちゃいちゃしてるのは誰からも祝福されないからさ?」
色っぽい流し目を向けて中川とは反対側、俺の左腕を自身のその豊満な胸の中に押し込めて。
「――そろそろ、私に決めたら良いんじゃない? 結婚しようよ、春人。同期カップルはみんなが祝福してくれるよ?」
潤んだ瞳でこちらを見つめる東雲。その姿に俺は息を呑んで。
「……喧しいわ」
「っ! いったーい! デコピンした! 春人、女の子のおでこにデコピンした! 痣が出来たらどうしてくれる!」
「出来ねーよ。そんなに強くしたわけでもねーし。つうか夏だから暑い。離れろ」
そう言って俺は腕に抱きつく東雲を引きはがし……ついでに、右腕に抱き着いたまま『がるるぅ』と唸ってる中川も引き離す。
「先輩! あんなおっぱいお化けに惑わされちゃ行けません! け、結婚なんて絶対ダメですよ!」
「惑わされるワケねーだろうが。何回目だと思うんだよ、このプロポーズ」
東雲恵梨香と俺、小山春人は銀行では同期でもあるし、勤務店も近いので比較的仲も良い。仲も良いが、それは決して色っぽい関係にある訳ではない。にも拘わらず、出逢ってから数年、何度もプロポーズを受けているのは。
「そもそも、『小山』って名字が気に入ったから結婚ってなんだよ」
こういう事である。この東雲、自身の『東雲』という名字が相当嫌いらしい。東雲曰く、『だってさ? 東雲恵梨香容疑者とかニュースで報道されたら一発で私だって分かるじゃん。悪い事出来ないもん』との事らしい。お前は悪いことをするつもりなのかと小一時間問い詰めたい。
「小山恵梨香なら珍しさも半減だし……どう、春人? ぜひぜひ、私と結婚を!」
「だーめーです! っていうか東雲先輩! そんなに珍しい名字がイヤなら私が紹介します! 田中君とか山田君とか鈴木君とか!」
「えー。でも田中とか山田とか鈴木はちょっとありきたりっていうかさ? 没個性? なんか名前付けるの困った小説家とかが、モブキャラに付けそうな名字じゃん」
「全国の田中さんと山田さんと鈴木さんに手を付いて謝れ!」
なんてことを言うんだ、お前は。日本の数パーセントはこの名字で占められていると言っても過言ではないぞ。正確な数字は知らんけど。
「その点、小山ならちょうど良いじゃん。なんか中途半端に珍しくもなく、ありきたりでもない。湖山とか古山とか児山とかバリエーションも豊富だし、『どういう字、書くんですか?』とか聞かれてみたいもん!」
「うん、わかった。お前は俺にも手を付いて謝れ!」
馬鹿にするな、小山を。
「別に馬鹿にしてるわけじゃないよ?」
「はいはい」
「むー……本当なのに。それにね、春人? 私だって別に名字が気に入っただけで春人にこんな事言ってるワケじゃないよ?」
そう言って心持、頬を赤く染めてこちらを見上げる東雲。そんな東雲の態度に、俺はまたかと思いながら肩を竦め――そして、中川がキレた。
「うううう!! 東雲先輩! そうやって小山先輩に色目使うの禁止!」
「ええー、いいじゃん? 折角週の中日に春人に逢えたんだし。っていうか、香織ちゃんこそ色目使うの止めたら? 大体春人と一緒の支店とズルくない?」
「ふふーんだ! 羨ましいんですか? 羨ましいんでしょ!! 良いでしょう!」
「……うわー、感じ悪い。ウチの店に転勤してきたら絶対イビってやる」
「やーん、こわーい~。小山先輩、東雲先輩にいじめられますぅ。助けて下さーい」
「ちょ、香織ちゃん!?」
「……いつまでやってんだ、お前ら……っていうか東雲、こんな所で何してんの? エリア、違うくね?」
話を変える様にそういう俺に、中川と言い争っていた東雲は肩を竦めて見せる。
「別に、オタクのシマを荒そうってワケじゃないわよ。ちょっとウチのお客様がこっちの不動産屋さんと取引あるって言うから、ご挨拶に伺うところ」
よそ様の銀行は知らんが、ウチの銀行では支店ごとに明確な営業エリアが定められている。その営業エリアは言わば『縄張り』であり、行風としてエリアを荒される事を極端に嫌うのだ。特にウチの支店長と東雲の勤める加山支店の支店長は同期でライバル同士なもんで、無茶苦茶仲が悪い。
「この辺りの不動産屋って……米井不動産?」
「そうそう。知ってる?」
「知ってる。つうか、俺の担当先。あれ? つうか米井さん、今日休みって言ってたけど?」
「ああ、そうそう。普通の営業時間では話が出来ないから、休みの日指定だったのよ。商売熱心ね、あの人」
「まあな。小さいながらも結構堅実に経営している」
所謂、『町の不動産屋さん』というヤツだ。大きな儲けは無いも、そこそこ堅実に経営しているから融資も通りやすい先ではある。
「そういう事でちょっと米井さんとこお邪魔してくるわ。そうだ! 春人も一緒に行かない? どうせ今日なんて暇でしょ? 折角だから一緒に行こうよ」
「米井さんの所にか?」
「そうそう。取引あるって言ったでしょ? という事は米井さんにだって何かしら案件が発生するかも知れないじゃん?」
「……まあな」
お金が入るか、お金が要るか、どちらかは分からんが担当者として聞いて置いて損はないかも知れんな。
「……分かった。それじゃ同行させてもらう」
「らっきー! それじゃ一緒にいこ、春人ー!」
「ちょ、小山先輩!? なんですか、ソレ! わ、私! 私も行きます!」
「お前はダメ。仕事だぞ、これは」
「なんでですかぁー! ずるい! 東雲先輩だけズルいです!」
「良いからお前は店に戻ってろ。それじゃ、行くか」
「うん! あ! 腕組んでいく?」
「行くわけねーだろ。ホレ、馬鹿な事言ってないでさっさと行くぞ」
「はーい。じゃあ、香織ちゃん? ま・た・ね~?」
「ちょ、先輩! せんぱーーーーい!」
後ろでがなる中川にひらひらと手を振って歩く俺の背中に。
「この……うわきものーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
中川の声が響いた。っていうか、こんな所でそんな失礼な事を大声で言うなっ! 歩けなくなるだろうが、この辺!
田中さん、山田さん、鈴木さん、ごめんなさい。




