第九話 中川香織? くっくっく、ヤツは四天王の中でも最弱だ!
遅くなるからと喫茶店を後にしたのは葵と中川の戦い――戦い? まあ、言い争いから三十分ほど経っての事。流石にご迷惑を掛けたと喫茶店のマスターに深く頭を下げたが、『気にするな』とポンポンと肩を叩かれてサムズアップされた。なにそれ、ホレてまうやろ。
「……むぅ……」
電車に乗って銀行の最寄り駅まで帰って来た俺たちだが、中川はずっと不満そうな顔を治そうとはしない。こちらをチラチラと見て、目が合うとムッとした顔で『フン』と顔を背ける癖に、数秒後にはこちらをチラチラ。流石に面倒くさくなって来た。
「……おい」
「……なんですか」
「なに怒ってんだよ」
「……なに怒ってるんだか見当がつかないなら、小山先輩は一度豆腐の角に頭をぶつけるべきだと思うんですね」
「……普通そこは別に怒ってないっていう所じゃない?」
「怒ってますもん。それに言うでしょ? 馬鹿は死ななきゃ治らないって」
「それは豆腐の角に頭をぶつけて死ねと?」
「ご想像にお任せします!」
そう言ってもう一度、フンとそっぽを向いて見せる中川。が、それも一瞬、今度は少しだけ申し訳無さそうに頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「……」
「その……感じが悪いな~とは私も思ってるんですよ。でも、あのどろ――長山さん」
「どろ?」
「な、なんでもないです! 長山さんと、小山先輩が仲良さそうなのを見ていると、ちょっと『もやっ』としたというかなんというか……」
「……なんでよ?」
俺と葵が仲良くして、なんでお前が困んの?
「だ、だって! わ、私、銀行で一番先輩と仲の良い後輩でしょ!」
「……まあな」
ウチの店に新入行員として入ったのは中川だけだ。しかも、一個下で年齢も一番近いし、教育係も任されたからな。業務指導は後方事務のお姉さま方がしてくれたが、銀行員としての――まあ、社会人一年目としての心構えは教えて来たつもりだし、可愛い弟子ぐらいの感覚はある。
「な、なのにあの長山さんとはもっと仲良そうでしたし! しかも何ですか! 休日も一緒に遊んでるって! 私が誘っても全然乗って来てくれない癖に!」
「いや、だって俺、転勤したくないし」
銀行は同じ店の人間と付き合っているという噂が流れると高い確率で転勤を言い渡される。人様のお金を扱う以上、行員同士で親密になりすぎると不正に繋がる恐れがあるからだ。これは別に事実として付き合ってるかどうかではなく、『噂』レベルでもだ。疑わしきは罰するのが基本、銀行のスタイルである。
「お前だってそうだろ? 『転勤、したくありませーん』って言ってたじゃん」
「そ、それは……その、別にウチの店に愛着……は、まあありますけど。そうじゃなくてですね!」
「何言ってんのお前?」
「だから! ああ、もう良いです! フンだ! 先輩のバーカ!」
「……はぁ。面倒くさい奴だな」
「ああ! 今、呆れた様なため息吐いた! しかも面倒くさいって! どうせ『長山ならこんな事言わないのに』とか思ってたんでしょ!」
「いや、そんなことは思ってはないぞ?」
「あー、やっぱりムシャクシャしてきました! 先輩! 私の事も香織って呼んでください!」
「いや、だからなんでだよ?」
「なんか負けたみたいで悔しいじゃないですか! 先輩の一番仲の良い後輩は私です! 私なんです! 長山さんじゃありません!」
「いや……なんだ? 『後輩』としてはどちらも可愛い後輩ってことで納得してくれないか?」
「……先輩、なんだか二股掛けてる男みたい」
「失礼な事を言うな」
葵も中川も可愛い後輩だ。まあ……正直葵とは『付き合いたい』と思ってはいたし、今だって別に諦めた訳ではないが……なんとなく、進展する気はしていない。だって七億問題、全然解決しそうにないし。
「……ともかく、中川の事を下の名前で呼ぶのは無しだ」
「……長山さんが怒るからですか?」
「それもあるが……さっきも言ったろ? 俺まだ、転勤したくないの」
「誤解されるってことですか?」
「昨日まで名字呼びのヤツが急に名前で呼びだしたら誰だって怪しいと思うだろうが」
俺だったら『こいつら、なんかあったか?』って思うし。痛くもない腹を探られるのも面白くないしな。
「……むぅ……分かりました。そこは納得してあげます」
「上から目線がちょっと気になるけど……まあ、ありがとうよ」
「でも! その理由だったら、先輩か私、どっちかが転勤したら名前で呼んでくれるってことですよね!」
「そう単純な話ではないけど……まあ、可能性としてはある」
「うんうん! それは良いことを聞きました」
「話、聞けよ? そう単純な話ではないって言ってるんだけど?」
「先輩!」
「なんだよ?」
全然話を聞いちゃいない。そんな中川は嬉しそうに、まるで蕩ける様な笑顔を見せて。
「――さっさと転勤してください」
「鬼か、お前は」
俺は今の店が気に入ってるの!
「なんでですかー! 先輩と私だったら絶対、先輩の方が先に転勤出るでしょ!」
「まあ、順番で言ったらな」
「そしたら私は先輩に名前で呼んでもらえるし! なら、先輩、さっさと転勤してくださいよ!」
「いや、だからな? 別に転勤しても名前で呼ぶことは確定ではないぞ? つうかお前、俺に名前で呼んでもらって嬉しいのか?」
「う、嬉しいか嬉しくないかはそんなに問題じゃありません! た、ただですね? わ、私はなんとなく、ま、負けた気がするのがイヤなだけです!」
「……何と戦って……ああ、葵か」
「……そうですよ。今もさらっと名前呼びしやがりまして……どんだけ私を煽れば気が済むんですか?」
「いや、別に煽っているワケ――」
「……あれ? おーい!」
「――じゃ……ん?」
不意に後から掛けられた声に、俺と中川は揃って振り返る。そこにあったのは。
「ああ、やっぱり! 春人と香織ちゃんじゃん! やっほー! 元気ぃ~?」
そう言ってこちらに手をブンブンと振る俺の銀行での同期、東雲恵梨香の姿があった。




