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番外編:花言葉 (2/4)

 紫苑(しおん)様は、本当に汚いものを知らなかった。


 美しいものに囲まれて育ち、美しい言葉を小鳥のさえずりのような声で話した。


 彼女といると、まるで自分までも綺麗なものになったように錯覚した。




(きょう)は、綺麗よ。羨ましいくらい」




 羨ましい?何も知らないからそんなことが言えるんだ。

 ――本当の俺を知ったら.....




「男が綺麗だって、何にもいいことはありませんよ」




 彼女は、屋敷から外に出たことはなかった。

 金持ちのお嬢様とはそういう生き物なのだろうか。



 だから俺は、今まで見てきた色んな街や物や人の話をした。

 もちろん、楽しくて愉快で綺麗な側面だけを選んで。


 薄汚い話は、彼女の耳が汚れる気がして、聞かせたくなかった。

 それに、俺のことを綺麗だという彼女に、汚いものだと思われてしまうことを恐れた。





「喬、背伸びたね。声も低くなった。去年、この泉のほとりで出会った時はまだ私よりも小さかったのに、あっという間に抜かされちゃった」



 俺が彼女の身の回りを世話をするようになってから、また同じ季節が巡ってきた。



「ねぇ、喬。私、貴方のこと、好きよ」



 紫苑様はいつもと同じ調子で、小鳥が歌うような声で言った。




「私、鳥籠のような中でずっと生きてきたけど、貴方が色んなことを教えてくれた。喬がここに来てくれてから、私、毎日本当に楽しいの」


「.....俺には、紫苑様のような方に好きになって貰える資格なんてありません」


「資格? そんなものが必要なの? それに失礼しちゃうわ、私が貴方を好きになったのが間違ってるとでもいうわけ?」



 汚いものなど知らない彼女は、どこまでも純粋だった。



「本当の俺を知らないから、そんなことが言えるんです。もし知ったら、きっと近寄りたくだってなくなります」


「じゃあ、教えてよ。本当の喬を。私の知らない、貴方の人生を」






 .....い、嫌だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 彼女に知られるくらいなら、いっそ―――



「それは.....言えません」



 その時の紫苑様の悲しそうな顔を、俺は生涯忘れることはないと思う。


 傷付けたのは自分だと言うのに、ひたすら胸が張り裂ける思いだった。




:::::




 それから幾らかも経っていないある日、彼女は父親から大事な話があると呼び出された。



 戻ってきた彼女は、いつもなら明るい声で俺を呼ぶのに、青ざめた顔で俯いていた。

 先日の泉での出来事の後だって、今までと変わらず接してくれていたのに。



「紫苑様.....泉に、行きませんか」



 俺はそんな彼女を見ていられず、美しい泉のほとりに連れ出した。


 しばらく二人とも無言で泉のゆらめきを見つめていたあと、紫苑様がそろそろと口を開いた。




「私ね、新しい皇帝陛下のところへお嫁に行くことになりそうなの」




 この時、俺はどんな顔をしたのだろうか。



「.....先の皇帝陛下が崩御されて、新しい皇帝が即位したでしょ。その陛下はまだ誰も妃を迎えていないそうなんだけど、どうやらそこに」


「す、凄いじゃないですか、皇后になるってことですか? そっかー、そっか...紫苑様、きっとすぐに俺のことなんて、忘れちゃうんだろうな」


「ち、違うの、違うの。私がそこへ入るのは、目的があるの.....」



 そして彼女は、小さな声でその「目的」とやらを語った。



 彼女の父親は、先代の皇帝、ひいては蒼家に恨みを抱いていた。


 前の前の皇帝ーーつまり蒼家に滅ぼされた皇帝とは姓こそ違うものの遠い親戚にあたり、いろいろと懇意にしていたらしい。

 蒼家の初代皇帝は政治的にも厳しい男で、彼が君臨していた頃は手が出せなかったが、心の内では蒼家に一矢報いることを誓っていた。

 過激派と言われる初代に代わって、穏健そうな若い二代目が継いだこと、これは彼女の父親にとってまたとない好機と映った。

 そして今回、人脈を駆使して、役人に多額の賄賂を送って娘を妃として推薦してもらうことに成功した。


 彼女の役割は、現皇帝に召し抱えられるふりをして暗殺を遂行する、というものだった。




「喬、どうしよう。私、怖い」



 泣き言なんて言ったことのない彼女が、初めてそう漏らした。



「引き受けるつもりなんですか?拒否しましょうよ、そんなの」


「それは.....できないわ。お父様が前の君主様を慕っていたことを、私は知ってる。いつも、素晴らしいお方だったって、お話してくれたもの」



 怖いと漏らすのとは裏腹に、受け入れることだけは決まっているようだった。



「前の君主様が廃位されたのは、私が生まれる前のことだそうよ。そんなに長い間、(かたき)を討つことを諦めなかったなんて、お父様の決意は随分固いものだと思わない?」


「でも娘を使うだなんて。そんなに仇討ちがしたいなら、自分でやればいいんだ」



 決意が固いからなんだっていうんだ?


 自分でやるつもりもないくせに。

 初代皇帝には手を出す勇気もなかったくせに。


 ただの卑怯者じゃないか。



「.....私ね、お父様の本当の子ではないの。妾だった母と、どこかの誰かの子供なんだって。それでも、子供に罪はないからって、母に私を産ませてくれた。結局、母は私を産んだ時に亡くなったらしいんだけど」



 そんな話、初めて聞いた。

 紫苑様は本当に無邪気で、明るくて、守られて育ってきているように見えたから。



「でもそんな私を、娘として何不自由なく育ててくれたお父様を尊敬してる。私は、その御恩に報いたいの」



 俺は何も言えなかった。


 紫苑様は、絹のような手で泉の水をすくって見せた。


 泉の揺らめきがキラキラと反射し、彼女の顔いっそう輝かせた。




「ねぇ、知ってる? この泉、毒があるって噂があるのよ」


「え?」


「やっぱり、知らなかったんだね。泉も周りの花もとても綺麗だけど、その噂のせいで誰も近づかないの」


「あれ? でも俺、前にここで傷を洗いましたが」


「うん、毒なんかないよ。ただの噂だもん。でもあの日、喬がこの泉にいるのを部屋から見て、すごく嬉しかったんだ。ありがとう」


「いや、御礼を言うのはこっちなのに」


「ありがとう」


 紫苑様は、俺から一瞬足りとも目を離さずに言った。




 この話があって、今まで少し疑問に思っていたことが解れてきてみえた。

 なぜ、令嬢である彼女が屋敷の端の部屋にいるのか。

 風呂も食事も共同ではなく、独立しているのか。


 単純に、ただあらゆる物を与えられて生きているのだろうと思いこもうとしていたが、ようやく納得がいった。



 屋敷から出ないようにされ、しかも泉には噂をばらまいて人が寄り付かないようにされている。



 一言で言えば、飼い殺しってやつだ。

 そして、時が来たら捨て駒として使うのか。



 ただ、「父親を尊敬してる」という彼女に、その件を突きつけるのはあまりに酷な気がして、言えなかった。




:::::




 ある日、部屋の中で寝台に腰掛けた彼女は言った。



「あのね。初めて褥を一緒にする時を狙えって言われたけど、私、何をどうしたらいいかわからないの」


 俺は咄嗟に返事が出来ず、無言で紫苑様を見つめ返した。


「ねぇ、喬。貴方は、どういうことをするのか知ってる? 男と女が一緒に寝る時、具体的にどうするのか――」


 俺は耐えきれずに、彼女を自分の胸の内に抱きしめた。


 この可憐な花が暴かれるなんて、想像したくない。

 そんなことをさせるくらいなら、いっそ自分がどうにかしてしまいたい。



 ――でも。



 俺は、いわゆる普通の「男女の交わり」を知らない。

 いつだって、一方的に奉仕させられるだけだった。


 もし、彼女におかしな動きを教えてしまうことになったら.....



「喬、どうしたの? 苦しいよ?」


「.........」


「.....喬?」


「こうして男が抱きついてきたら、その時を狙ってください。前半身全部、無防備ですから。出来れば、心臓を一突きに」


「.....わかった」



 俺は彼女を抱きしめる腕を解き、両手を取って跪いた。



「紫苑様.....やっぱり、逃げませんか? 俺と、どこか、誰も知らない遠くへ」


「ダメだよ、出来ないよ。もう家全体やお役人様まで動き出してるの。私が消えたら、この家は取り潰されてしまうわ」


「でも紫苑様! 仮に暗殺が成功したとして、その後はどうなるんですか? 貴方は無事でいられるんですか!?」


 彼女は静かに首を振った。


「わからない。でも、私一人じゃ逃げられないだろうし、捕まっちゃうかもね。それでも、お父様の悲願が成し遂げられるなら、十分だよ」



 この時、俺の頭にある考えが浮かんだ。

 かつての客が、何か言っていたような――



「紫苑様、俺、宮廷に入って、貴女を援護します。仮に貴女が上手く出来なくても、代わりに俺が討つ。それで無事暗殺を成功させたら、二人でそこから逃げましょう」


「喬.....宮廷に侵入なんて、出来ないわよ」


「忍び込む訳じゃない。正面から入るんです」


「どういうこと?」


「庶民でも学がなくても出仕できる方法が、一つだけある。.....紫苑様、宮廷でお会いしましょう」




 そして俺は、屋敷を出た。


 幸いにしてか、紫苑様の輿入れは、あまりに急ぐと怪しまれるため、そうならないよう入念に準備するとのことで、一般的に想定される位の――数ヶ月の、猶予があった。


 経歴を偽るため、時々場所を変えながら日雇いの肉体労働に就いた。

 以前とは違って身長も伸びて筋肉も付いてきていたから、そこそこ普通に働くことが出来た。



 そして稼いだ金で、手術をしてくれる医者を探した。



 宮廷の近くで話を聞いて周り、難なく見つけることができた。


 宦官(かんがん)とは、元々は「宮刑」と言われ、罪人がそこを切り取られた後で、一生宮廷の中で働く終身刑のようなものだったらしい。


 だが昨今では、宮廷で働くために自ら切り取って志願する者も出てきているらしかった。

 仕事が得られず餓死するよりは、と、この世を生き延びる方法の一つとして選択される、と。


 とはいえ、誰だってこんな恐ろしいことはしたくないから、数はそんなに多くない。

 実際に手術をされてみて、その地獄の苦しみは嫌という程味わった。




「おや、これまた随分と色男が来たねぇ。当然だが、切っちまったら二度と女は抱けないよぉ」


 いちいち煩い医者だ。

 

 こいつの言う通り、仮に暗殺と逃亡が成功したとしても、この身体で彼女を抱くことはできない。

 でも、俺が宮廷で援護しなければ、成功しても失敗しても彼女には死あるのみだ。


 それを考えたら、迷う理由などひとつもなかった。



「……わかってる。いいんだ、よろしく頼む」

「ひょっひょっひょ。女で痛い目でも見たかね、んじゃ任されたよ」



 切られる恐怖、数日間水分すら取れない苦しみ、傷口の痛み、あるはずのものがない違和感……


 それらに耐えて術後の体調が安定してきた頃、ようやく俺は宮廷に向かうことになった。

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