第9話
クラッツ公爵家のウスターソースを作りに行く日。私は普段着を鞄に忍ばせて家を出た。クラッツ公爵家の門番さんに挨拶して玄関でベルを鳴らす。すぐにメイドさんが出てきてくれた。
「お話は伺っております。すぐに厨房に行かれますか?」
「まずは衣装部屋で着替えたいです。今着てる服に匂いをつけたくないので。」
「畏まりました。」
衣装部屋に案内されて持ってきた普段着とエプロンに着替える。それから厨房に案内してもらった。
「今日は厨房を借りさせていただきます。よろしくお願いいたします。」
厨房のコックさんに挨拶した。
「こちらこそ!俺たちも勉強させていただきます。」
コックさんたちも一応私が男爵令嬢なので態度が畏まっている。
まずはウスターソースを入れる瓶を煮沸消毒した。
それから材料の下ごしらえ、煮干しの頭とはらわたを取ったり、各材料を細切れに刻んだり。次に大鍋にたっぷりの水でその材料を煮る。中火くらいを心がけて吹きこぼれないように煮込んだ。2時間程度煮込み、全体の量が半分くらいになったら、用意してもらった沢山の香辛料を入れ、20分煮る。
すりおろしたリンゴと調味料を入れて10分煮る。もう大分ソース臭い。
一旦火を止めて冷ます。冷めたらすり鉢とすりこぎで細かく粉砕した。ミキサーがあればこんな苦労はしないのに…
これでもかというくらいに粉砕出来たら、笊と洗ったさらしで濾過する。目詰まりしている固形物はボウルに移してひたすら濾過。最後にボウルに移した固形物をさらしに包んでおもいっきり搾り取った。
出来あがったウスターソースを再び過熱して、熱いうちに瓶に小分けにする。出来たけどやっぱりウスターソースの匂いが充満してるな。
「やあ、フェリシア嬢。すごい匂いだね。ウスターソースというのは出来たのかい?」
アレクシス様が様子を見に来た。
「ええ。今出来上がったところです。今日はそのままお出ししますが、本来なら半月か一ヶ月ほど熟成させると味に丸みが出て美味しいのですが。」
「フェリシア嬢は、どこでこのような調味料の作り方を学んだの?」
「夢の中で…かなあ。」
前世で、なんて言ったら痛い子確定だ。夢の中でというのもかなり怪しい言い分だが。
「そっか。良い夢だね。」
「ええ。素敵な夢でした。」
今更ホームシックになんてかからないけど、時折無性に日本が恋しいよ。未だに味噌と醤油が欲しくなる時があるし。種麹を!お客様の中に種麹をお持ちのお客様はいらっしゃいませんか!
「もう夕食の支度は始めても?」
「うん。そうだね。」
「何人前作れば良いですか?」
「フェリシア嬢を入れて4人前。」
「私も夕食のメンバーに入ってるんですか?」
「食べないで帰るつもりだったの?」
目を丸くされた。
「お父様とお母様の事も紹介したいし、食べて帰ってよ。」
公爵様と公爵夫人か…緊張するなあ。
「わかりました。いただいて帰ります。」
「作るところ見ていていい?」
「ええ。」
まずは千キャベツを作る。勢いよくざくざくキャベツを切っていると厨房のコックさんとアレクシス様に目を丸くされた。手先が器用なので均一に切れていると思う。
次にパン粉作りだ。乾燥させたパンをおろし金ですりおろす。パンを大量にパン粉に変えた。
それから豚肉を丁度よさそうな厚みに切って豚肉の筋に切りこみを入れ、満遍なく叩く。塩コショウで下味をつけておく。
卵を溶き、平たいパットに入れる。豚肉に薄力粉をつけ余分な粉を落とし、卵を満遍なくつけ、パン粉をつける。お肉はそのまま置いて油を熱する。
私は地球では菜箸を使って油の温度を計っていたがこの国には菜箸がない。揚げるときはトングで揚げるようだ。仕方ないので油は少しだけ衣を入れてみてこんな感じかな、という温度で揚げることにした。
じゅわじゅわときつね色に揚がった。
キッチンペーパーのようなもので(製紙工業は発達している)油を落とし、カットして千キャベツと共に平皿に乗せた。
「出来た…」
私はソース作りにかかりっきりだったのでスープは別の窯でコックさんが作ってくれていた。なんかの豆のスープだ。あとふわふわのパンが付いてくる。こっちの貴族はコースで畏まった食事を取る貴族もいれば一汁三菜くらいの食事を取る貴族もいる。または普段一汁三菜くらいで時々コース料理を食べるとか。ご家庭によってそれぞれである。
「じゃあ、早速食堂に行って出来たてを食べようか。メリー、お父様とお母様を食堂に。」
「畏まりました。」
エプロンをはずし、お盆にお皿を持って食堂まで案内された。
例によって映画でしか見ないような長いテーブルがあるが、その一角に皿を運んだ。ソースの瓶もちゃんと持ってきたぞ。
程なくして綺麗なご夫人とダンディなおじさまが現れた。
「フェリシア嬢。僕のお父様のコンラッド・クラッツ公爵と、お母様のクラリッサ・クラッツ公爵夫人だよ。お父様、お母様、こちら、フェリシア・カロン男爵令嬢。」
「フェリシア・カロンと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
「あなたがフェリシア嬢か。いつも話は聞いているよ。コンラッドだ。よろしく。」
コンラッド様はアレクシス様と同じ暗褐色の髪に琥珀色の目をした美丈夫である。威厳と茶目っ気が同居した、少し悪戯な目をしている。
「まあ、なんて美しいお嬢さんでしょう!これはアレクが骨抜きになるはずだわ。私はクラリッサ。よろしくね。」
クラリッサ様は金髪に暗緑色の目をした若々しいご夫人だ。とても美しい人で、服装も上品で感じ良い。…しかし寝言を仰っている。骨抜き?またまた。おきゃんな母親にありがちな息子をすぐに恋愛ごとに絡めたがる性質だろうか。お宅の息子さんはいまだに初恋を引きずってるはずですが。
「今日はフェリシア嬢が夕食を作ってくれたんだってね。実は楽しみにしていたのだよ。」
「主菜だけですが。」
「いやいや十分だよ。さ、冷めないうちにいただこう。席について。」
公爵家の方々と私が席に着いた。
「これはカツという料理で。肉の部位はロースを使ったのでロースカツと呼びます。このウスターソースを少量かけて食べてみてください。」
ウスターソースの瓶をみんなにまわした。それぞれ少しだけカツにソースをかけている。
「いただきます。」
全員が手を合わせて食べ始めた。因みにこっちの文化でも手を合わせるか組んで感謝を捧げてから食べるのが一般的だ。
「ほう。サクサクしていてうまいな。肉もジューシーで油とソースと絡まるとものすごくうまい。このソースはものすごく複雑な味がするな。甘いような辛いような、それでいてうまみがある。」
「おいしいわあ。ちょっとこってりしてるけどこの刻んだキャベツを一緒に食べるとさっぱり食べられるのね。」
「う…っま!何これ、凄い。ソースがめちゃくちゃ美味しい。ロースカツも熱々サクサクだし。口の中で油がじゅわあっと溶けだしてソースと絡まる。」
好評なようで良かった。ウスターソースは公爵家で保存してもらおう。
「カツは千キャベツとソースと共にパンに挟んでも美味しいんですよ。カツのサンドイッチです。」
「へえ…それをお弁当にして行ったらフェリシア嬢は困る?」
「メニューの出所が私だとばれると困りますが、ただ持っていって食べる分には困りません。」
「じゃあ、今度お弁当にしよう。ウスターソースは貰っちゃっていいの?」
「勿論。使っていただいて構いません。焼いた肉に少しだけかけても美味しいですよ。一月ほど熟成させるとソースの味が丸くなってもっと美味しいですが。」
「楽しみ。」
私たちが話しているうちに優雅に、しかし素早くカツを全て胃に納めてしまったコンラッド様が切なげに空のお皿を見つめている。
「フェリシア嬢…お代わりなどは…」
「お肉はあるので揚げればまだありますが…カツは油で揚げてるので沢山食べると太りやすいですよ?」
「むむっ。そうなのか。」
「ええ。あと食べ過ぎると胸やけします。」
「腹八分がちょうどいいということなのだな。」
コンラッド様ががっかりしていた。
「まあまあ、あなた。ウスターソースは譲ってもらったのだし、作り方を見ていたジェフリーならきっとカツも作れるわ。また今度いただきましょう。」
クラリッサ様がコンラッド様を慰めた。クラリッサ様とアレクシス様もカツを堪能したようだ。みんな満足げな顔をしている。
「あー、おいしかった。」
「本当に。フェリシアちゃんはお料理上手ね。素敵だわ。」
貴族令嬢なら普通料理なんてしないはずなんだけどね。そのことについては誰も何も言わない。私の生まれや育ちはしっかり認知されているらしい。
「実にうまかったよ、フェリシア嬢。ありがとう。後片付けは使用人に任せてお風呂にでも入ってきたらどうだい?バスソルトが入っているよ。ソルトと言っても塩ではなく『硫酸マグネシウム』という物質らしいが詳しくは知らん。温浴効果が高くてなかなか気持ち良いものだよ。」
「ありがとうございます。」
「フェリシアちゃん、一緒に入らない?」
んー…ちょっと恥ずかしいが銭湯みたいなものだよね?
「ご一緒させていただきます。」
一度衣装部屋に着てきた服を取りに戻り、クラリッサ様に案内されて公爵家のお風呂に来た。流石に広い。脱衣所も広々としていて、複数のマッサージ台や休憩用の長椅子がある。クラリッサ様と並んで服を脱いでいるとクラリッサ様が私の下着に注目した。
「まあ!なんて可愛い下着なの!」
今日の下着はミントグリーンの地に白い手編みレースを取り付けてピンクの薔薇を刺繍したものである。清楚で可愛く!
「素敵!そんなの見たことないわ!どこで購入したの?」
「えっと…これ元はただのミントグリーンの無地の下着だったんです。自分でレースを取り付けたり刺繍したんです。」
「そうなの?残念。私もそういうのが欲しかったわ…」
「この前、ドレスを作りに行った時、マダム・アデレイドが私の下着にいたく感動していたので、もしかしたら『アデレイドのお店』でなら手に入るかもしれません。」
「本当!?是非行ってみなくっちゃ!」
クラリッサ様がうきうき喜んだ。私は服を全て脱いで、服の下に隠してつけていたアレクから貰ったシェルのペンダントをはずした。大切に貴重品と共に保管しておく。その様子を見てクラリッサ様が尋ねてくる。
「それ、大切なものなの?」
「…ええ。私が一番大切にしている物です。」
「そう…」
クラリッサ様がにこりと微笑んだ。
二人でお風呂に行く。湯船も洗い場もすごーく広かった。これを二人で貸切とか、なんていう贅沢!そしてすごく良いバス用品が揃ってる。石鹸が、髪用石鹸、顔用石鹸、身体用石鹸で別れており、髪に至ってはリンスのような液体まであった。すっごくサラサラになるのよー、とクラリッサ様にお勧めされた。石鹸の泡立ちがうちで使ってるのと段違いだ。洗うのがすごく楽しい。全身を綺麗に洗って、湯船に身体を沈める。
「フェリシアちゃん肌綺麗ね。真っ白で、滑らかで…シミ一つない。何か特別な手入れをしているの?」
「うーん…特には。顔は自作の化粧水とクリームを使ってますけど。」
「あら、どんなの?」
「化粧水はどくだみを連続式蒸留焼酎で1年くらい漬けたやつです。瓶に小分けしてはちみつとオリーブオイルを少し入れて使ってます。クリームはホホバオイルと蜜蝋にローズ・オットーを少しだけ入れた手作りのクリームです。」
「使い勝手は良い?」
「私は好きですけど…」
クラリッサ様はフローラルウォーターを使っているらしい。クリームは店で買っているがオイルの種類と精油の種類が違う蜜蝋のクリームらしい。因みにアレクシス様が私にくださった手荒れ用の軟膏は本格的に漢方のような薬草が練りこまれている物。今使ってるハンドマッサージ用のクリームは同じく蜜蝋のクリームみたいだ。
「シアバターとか馬油も興味あるんですけどねえ…」
クラリッサ様は馬油はともかくシアバターの存在を知らないそうだ。この辺では流通してないのかも。私もちょっと作り方曖昧だし…種子から仁を取り出して焙煎してすり潰す…水を加えて…そうだったような、違うような…。ええい!日本の一般女子高生にシアバターの精製法なんてわかるわけないじゃないか!ウスターソースの製造法を知ってただけでも褒めてほしいよ。
クラリッサ様と美容関連のあれこれを話しあって楽しく入浴を済ませた。
お風呂から出るとメイドさんが待機していた。オイルマッサージを行うようだ。「フェリシアちゃんも!」とクラリッサ様が仰ったので一緒にマッサージを受けた。オイルマッサージは揉むというよりはさする程度だが、精油入りのオイルが全身の血行を良くしてくれているのかポカポカと温かい。良い香りもするし、すっごくリラックスできた。
着替えて脱衣所から出た。クラリッサ様と浴後のお茶を、ということで冷たいハーブティーをいただいた。生き返るう~。
アレクシス様がやってきた。
「フェリシア嬢。お湯加減はどうだった?」
「すっごく気持ち良かったです。」
「そう。良かった。……。」
アレクシス様が沈黙した。
「どうなさいました?」
「いや、良い匂いだなって思って…」
「あらあら、アレクってばムラムラしちゃった?」
クラリッサ様がにんまり笑う。
「……。」
ムラムラとかそんなまさか。と思ってアレクシス様を見たら微妙に赤くなっていた。え?マジなの?
「やだわあ。わかーい。」
クラリッサ様がきゃらきゃら笑う。うはっ。いたたまれないよ。やめて、クラリッサ様!
「…フェリシア嬢、帰りは送るから。髪が乾いてから帰るでしょう?」
「はい…」
髪が乾くまで3人でしばし雑談をして、髪が完全に乾いてから家に帰った。娘が夜遅くに帰ってきたというのに出迎えもお小言もなかった。いないものとして扱われている感が強い。