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一、

 梅雨が明けて、一気に気温が上がった。

 朝からちょっと汗ばむくらいの陽気で、早くも夏バテ気味な僕、今野広太(こんのひろた)はひんやりした机に突っ伏していた。気の早いセミが、教室の外の樹に止まって鳴いている。


「初めまして、三上徹(みかみとおる)と言います」


 低めの落ち着いた良く通る声に少し姿勢を起こして、彼に目を遣る。先生に促されて、教室の前の方で転入生が自己紹介を始めたのだ。慣れているのだろうか、黒板に書かれたその名前は揺らぎもなく芯の通った姿をしていた。


「親の仕事の都合で越してきました。趣味はランニングと読書、好きな科目は数学です」


 見た目はたぶん一般的に言って良い方だと思う。現に周りの女子たちが早速ひそひそと話を繰り広げている。恐らく持ち物などから、遠距離で付き合ってる人がいるのかどうか推測しているのだろう。担任に咎められないくらいの小さな黄色い声が上がる。僕はそれをどこか冷めた目で見ていた。


「それと、ゲイです」


 だけど次の言葉は誰ひとり想像していなかったものだった。担任でさえも目を見開いて、言うべき言葉を失っている。


「同じクラスになった皆さん、これからよろしくお願いします」


 平然と自己紹介を続け、お辞儀をする。それからすたすたと歩いて、彼のために用意された椅子に座った。呆気に取られた教室が元のように動き出すのは、そのもう少し後のことになった。


 そのときの教室は、嫌悪よりも困惑が強かったように思う。何を期待してそれを言ったのかわからず、しかも大半はそれがどういう意味なのかすらわかっていない。テレビで見かける「オネェ」タレントのようなトランスジェンダーとゲイの違いすらわかっていないのだ。

 一方、僕の気持ちは少々複雑だった。僕自身がクローゼットゲイ――つまり周りに打ち明けていない同性愛者だからだ。

 僕は不安だった。僕が自分の性的指向を隠しているのは何も恥ずかしいからじゃない。嫌われたくないから、嫌われるのが怖いから隠すのだ。プール、修学旅行、着替えなど、学校は明確に異性愛を前提とした社会だ。だから「同性愛者だ」というだけで簡単に嫌悪と排除が起こりかねない。


 想像してみてほしい。昨日まで友達だった人から、手のひらを返したように侮蔑の言葉を吐かれ、接触を拒まれる。あるいは「同じ空気を吸いたくない」と言われる。あるいは「生理的に無理」と言われ怯えられる。

 そんなことは簡単に予想できることだった。だから僕は隠すのだ。三上はどうしてあんなことをしたのか、僕にはとても不思議だった。

 けれどそれを尋ねるだけの勇気――というか自分から彼に接触するだけの勇気が僕にはなくて、そういう意味で僕は差別に加担するのだろうな、とぼんやり思った。


 何となく微妙な空気のまま一限目は進行して、休み時間になった。担任が難しい顔をしながら戻ってきて、三上を呼ぶ。廊下で話を始めたが、三上の声は教室に丸聞こえだった。


「三上、何であんなことを言ったんだ!?」

「あんなことって別に自己紹介しただけですけど。それとも何ですか、紹介しちゃいけないことがあるとでも?」

「いやそういうわけじゃないけどな……、周りのことも配慮してくれないか」

「配慮! 異性愛者だと偽って過ごせと? どうせそのうち知るなら、最初から知ってた方がいいと思いますよ、俺は。……知った途端に態度を変えられるくらいなら、初めから拒絶された方がましです」


 頷けなかった。拒絶されることは怖いし、僕はひとりで生きられるほど強くもない。だから僕は自分を殺して、異性愛者を装ってきたのだ。


「俺はゲイで、ゲイであることに誇りを持ってます! 自分を偽るのは、自分に対する裏切りなんです!」


 口調は力強かったが、担任に怒りを向けているわけではなく、ただその決意の強さだけがにじみ出ているようだった。

 強すぎる、と思った。彼はあまりにも正しくて、それゆえ周囲との断絶は海よりも深い。僕は小さくため息を吐いて、目を閉じた。


    *


 危惧はそう経たないうちに現実のものとなった。まだ同級生の大半が接し方に困っている時期に、一部のグループがあからさまな嫌悪と迫害を始めたのだ。

 一度そういう空気ができてしまえば、抗うことは不可能なのだった。肩を持てば同類とみなされ、まとめて迫害の対象になるだろう。教室は気持ち悪いくらいの一体感で、三上徹という存在を押し潰すことにしたらしい。

 違う。押し潰しているのは他ならぬ僕らなのだ。傍観者なのだ。傍観は中立ではない。多数派が少数派を圧倒するのを黙って見ているのは、決して中立ではない。そのことは自分がよくわかっているのに、迫害される恐怖は数え切れないほど想像したのに、それでも僕は声を上げられないのだった。

 結局、人は悲しい生き物なのだ。自分と違う存在や、自分より弱い立場の人間を貶めずにはいられない。嫌悪、恐怖、偏見、保身、協調。理由はいくらあれど、今行われているのは間違いなくいじめという名の迫害だった。

 しかし、三上徹はあくまでも自分を貫いた。露骨に避けられたり陰口やからかいの言葉をかけられたりしても、何もなかったかのように平然とした表情を保った。

 だけど僕は三上が弱者ではないと主張するつもりはない。ましてこの状況が許容されるなどと言うつもりもない。いくら彼が平静を装っていても、状況は最悪へと一直線に向かっていた。


 次第に暴力も交じるようになった。嫌悪に突き動かされた集団は狂気に近い様相を呈している。三上を罰することは正義で、それに楯突くことは悪だった。教師陣が気付いていないはずがなかったが、完全に黙殺されていた。

 胸が痛かった。

 それと同時に失望を感じた。やはり、同性愛者は気持ちが悪いのだ。迫害される存在なのだ。眼前の光景が、それを如実に示していた。

 だから僕には、三上のようなカミングアウトはできそうもなかった。


    *


「――何ぼんやりしてんだよ、広太!」


 親友の、鈴木敏也の声が飛ぶ。僕は慌てて立ち上がった。

 次の時間は体育で、教室で着替えることになっている男子は粗方もう着替え終わっていた。三上はいない。散々着替えを邪魔された挙げ句、今では三上はトイレの個室での着替えを強要されていた。もし僕が今ここでカミングアウトしたら、みんなは同じように僕を排除するだろうか――たぶん、恐らく。

 ぼんやりすることが多くなった。頭の中は迷宮で、迷い込んだら簡単には出てこられなかった。何が正しくて、誰が間違ってるのか、答えは霧に包まれて一向に姿を見せない。霧を晴らす明かりは、持ち合わせていない。

 準備体操のときも、三上は明らかに避けられている。先生も含め、三上については口をつぐむようになっていた。二人組を作るときも三上はひとりだ。それでも三上は怒りも悲しみも表さず、黙ってひとりでできる範囲をやる。


 ちくちくした時間が過ぎて、また着替えのとき、僕は小声で敏也に尋ねてみた。


「ねえ、三上君のこと、ずっとこのままでいいの? これじゃ誰とも仲良くなれない」


 騒がしい教室で良かった。今なら注目を集めずに済む。


「確かにこのままでいいとは思わない……けど、でもさ、ゲイですって言われたらそりゃみんな避けるだろ?」


 僕は黙った。そうなのだろうか。


「言っちゃ何だけど、自分からバラしたわけだし、その……、自業自得、じゃねぇのか?」


 ジゴウジトク。自業自得。音が頭の中でがんがんと反響して、それからやっと意味を結ぶ。


「……ごめん、ちょっとトイレ」


 涙が出そうになって、僕は走り出した。それはあまりにも酷い言葉だった。あんなふうに拒絶されることが、自業自得なのだ。三上自身の問題にされてしまうのだ。

 この世界は、なんて残酷な世界なのだろう。誰かを愛するということが、三上を周囲から断絶させてしまう。拒絶を招いてしまう。今は逃げられていても、それはきっと僕にも降りかかる。

 ちょうどトイレから出てきた三上と鉢合わせして、泣き顔を見られた。ふと怪訝な表情で覗き込まれたが、僕はその横をすり抜けてトイレに向かった。

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