2-9-1 転落
流血注意です。
バスに乗り込んだノゾミは、幸運にも一つだけ空いている席を見つけたので、そこに腰を下ろした。発車したバスは、排気ガスをまき散らしながら都会の道路を一直線に走りだす。
しかし今日の道路は混み合っていて、バスはなかなかスピードを上げられないようだった。こうしている間にもミコトが図書館を出てしまうのではないかと、落ち着かない気分だった。まだミコトが図書館にいると決まった訳ではないのに。
結局三十分ほどかかって、ようやくノゾミはバスを降りられた。目的地はバス停の目の前だ。そちらへ向かうべく足を踏み出そうとした時、どこからからけたたましい女性の叫び声が響いた。
ノゾミは咄嗟に足を引っ込め、どこで何が起こったのか確認しようと辺りを見回した。女性の絶叫からして、ただ事では無いということは察しがついたが。
視線を巡らせていると、図書館の前の――ノゾミが今まさに立っている――道路の先がざわついているのを見つけた。
次の瞬間、その群衆はあちらこちらに逃げ惑う。誰もが大声を上げて、逃げろだの、助けてだのと叫んでいた。
(何だ、何が起こったんだ)
ノゾミはただ混乱することしか出来なくて。
だが人々が去り遮るものが無くなったノゾミの視界に映るそれは、頭を鈍器で殴りつけられたかのような衝撃を与えた。
「――――あ……」
そこには、いくつもの血だまりができていた。
何人もの人が倒れたり座り込んだりして呻いている。血だまりの源はその人達だった。
そして血で覆われる面積が増えていく道路の真ん中に立ち尽くす人物。身長からしてきっと男だ。彼はこの暑いのに、陽射しを全て吸収してしまいそうな程真っ黒なローブを着て、右手には鮮血が滴るサバイバルナイフを握っていた。
(どうしよう、逃げなきゃいけないのに……足が動かない)
全身が恐怖におののき、ノゾミの足はその場に根付いてしまったかのように地面から離れなかった。
その時、ナイフを握る男が振り返った。フードを深く被っているせいで、その素顔まではうかがえない。それなのに、ノゾミと目が合った気がした。
(見られてるッ!?)
そう気付いた時にはもう遅く、男はノゾミの元へと素早く走ってくる。
(俺、刺されんのか……?)
もう逃げることは諦めるしかなかった。体が硬直してしまって全く言うことを聞いてくれない。
男はあっという間にノゾミの懐に入ると、腹にナイフを突き立てる。
(刺されたら、どうなんだろ……)
目の前の映像がスローモーションのように流れていき、ノゾミの頭にはなぜか夢でミコトを殺す瞬間のことが走馬燈のように思い出された。
(俺もそっちに行くのかな)
もしかしたら彼が自分を殺してくれるかもしれない。そう思うと、さっきまであんなに怖くて震えていた心が落ち着いていった。
もう刺されても良いと思った時、ナイフはノゾミの腹に触れる寸前でぴたりと止まってしまった。
「そうか、お前は――――」
男が小さく呟く。何かに納得したような口ぶりだった。
「ぇ……」
何が起こったのか理解できないまま、ノゾミは思わず声を漏らす。
(けまだ、刺されてない?)
男はナイフを下ろすと再び素早く走って、どこかに消えてしまった。
すれ違いざまに、男が嗤う気配がした。
一体何が男を躊躇わせたのだろう。ただ、今言えることはノゾミが命拾いしたということだ(死なない体のノゾミに使う言葉としては正しくないかもしれないが)。
男が過ぎ去ってから、全身の力が抜けてしまったノゾミはへなへなとその場にへたりこむ。
(何だったんだ、今の)
そして、もう一つ言えることが。
「あれ……」
ノゾミは口元に違和感を覚えたので、そっとそこに触れてみた。
「何で俺、嗤ってんだ」
悲惨な現場に居合わせたはずなのに、自然と口角が上がっていた。
もう一つ言えること。それは、ついにノゾミの感覚が狂ってしまったのかもしれないということだった。




